ずっと晴天が続いた。
だから、この数日の雨はなつかしい。
気温がなかなか上がらないというのもよかった。
さくらが長持ちした。
つい、桜となるとすぐに散るというイメージで寂しさが先に立つ。
でも、今年は結構長く続いていた。
でも、それでも、もう終わりだ。また来年の桜だよりを楽しみにする。
雨のしとしとという表現も私は好きだ。
ずっと晴天が続いた。
だから、この数日の雨はなつかしい。
気温がなかなか上がらないというのもよかった。
さくらが長持ちした。
つい、桜となるとすぐに散るというイメージで寂しさが先に立つ。
でも、今年は結構長く続いていた。
でも、それでも、もう終わりだ。また来年の桜だよりを楽しみにする。
雨のしとしとという表現も私は好きだ。
知らないことはほとんどの場合、分からないことと被っている。
分からなければどうする。
遠ざける・・・。
それではだめなのだ。
分からないことや、知らないことを、よく調べていくのが本筋なのだ。
ああ、そんなことか・・・ってならないといけないのだ。
でも、面倒だのひとことで片づけられてしまう。
とても不思議なことが、ひとことで闇に消えるのだ。
そのひとはもう一生、そこへはたどり着けないだろう。
科学者ではないからそれでもいいだろう。
だが、社会全体で言えば、大きな損失になる。
だって知的好奇心がなければ、人類は途中で滅びていたはずだからである。
なぜ俺たちは弱いのか。
ここから始まったのが、知的好奇心だ。
なぜ、猛獣と自然の中で共存できるのか。
相手の知識レベルが低いからだろう。
そこを利用する。
相手よりもそのレベルを上げればいいのだ。
次の一手をどう読むか。
まるで将棋のようだな。
そうなのだ。
ただ、勝ち負けが生命の取り合いにつながる次の一手なのだ。
やたらと暴力的でやたらと強すぎる猛獣に食われてしまうイメージばかりだが、どうだろうか。
摂って食われない様に生活空間を防御したりもしてきただろう。
そして、自分が欲しい時には狩りに出ていく。
分からないことがあれば、それを求めて探しにいく。
そんなことが人類の短い歴史の中に隠されているようだ。
荒海を越えて大陸へ経文をとりにいったのはどこのだれだったかな。
あんたが身内だなんて、なんとはずかしいことか。
そんなことを言われた覚えはないか。
少なくとも言葉ではなく、態度で示されたようになったことはあるだろう。
だれだってある。
そんなことは、心理的な動きの初歩なのだ。
いつもゆらゆらと揺れている。
それを楽しむ余裕なんてない。
だから、身内には心配をかけないようにしようと思うのだ。
身内には甘くなるという見方がある。
なぜか。
不安だからだ。
上手くいってほしいから、つい身びいきになる。
実はみんなそうなのだ。
だれも言わないだけの話なのだ。
あんなに真剣に議論していた世襲政治家の話は、実力があれば関係ないだろうという論旨でいつも終わるのだ。
身内が誘導している。いや、世襲以外が阻害されているのだと知っていいないだけだ。
お前の親は能無しだって言われない様に、身をかがめているのだ。
だから、闊歩させているようなものだ。
今でも殿様を敬う社会なのだ・・・。
もういない。
多分、今、ここにいるよと言ったその人はもういないだろう。
そして、また、多くのひとが同じことを想い、まだいるよと叫んでいるかもしれない。
こういうメッセージはあまり意味はないようだ。
だって、だれでもが感じる精神作用のひとつだからだ。
当たり前のことなのだ。
なぜ、ここに今、いるのって尋ねられたらどう答えようか。
ほんとはもういないんだよ・・・ってことだろうか。
絵本の効果はすごい。
こどもは、絵本を読み聞かせるというらしい。
「もう一回、読んで」というらしい。
そのうち、自分で訊かせるようになるらしい。
ダンボという小象が空を飛ぶ絵本があった。
家にあった。
すごいなと・・・思っていた。
耳を羽にして飛べるなんて・・・すごい。
だから、私は空を飛べるのだ。
風をひいてうなされると、いつも空を飛ぶ・・・。
えいやっと・・・。こつがある・・・。
どこまでも飛べる。
こどものころにその飛ぶコツを覚えたのだ。
絵本の力ってすごい。
とくに誰かにメッセージを送るというものではない。
ただ、自分の気持ちを文章化できる唯一の機会なのだ。
だから、大切なものである。
どっかとつながるために、文章でコミュニケーションをとる。
そこには、特別なものはない。
だけども、とても大事なことは、思考回路にあるように思う。
自分の心理をどう分析するとかいうのではなく、社会とつながる時にだれでもが孤独を感じるはずだ。
なんてちっぽけな存在なのかと驚嘆してしまう。
小さな小さな自分にどう立ち向かうのか、そんなに心配する必要はない。
みんなほとんど同じなのではないかな・・・、なんて不安を和らげようとしている自分に気づくはずだ。
ちょっとでも安心したいのだ。
これでいいのかなっていうことに答えはない。
なぜならば、常に不足、不満、不平なのだ。
でも、そんな世界でも、いのちは無くなる。なくなってしまう。
高齢者になり、後期高齢者というカテゴリーに放り込まれてしまう。
後期高齢者健康保険料という税金の督促がきた。
そんな通知があったかなといろいろ探したがみつからない。
延滞金の記述が大きくなにか威嚇して「払え」「払えよ」「早く払えよな」とか言っているようだ。
もちろん、支払うべきものは払う。
借金してでも払う。だって、国民だから、国民の義務だからだ。
不合理、理不尽、社会の常識、個人の非常識、関わりの難しさが漂っている。
銃規制でないはずの、銃による警察官らの死亡が報じられている。
立てこもっているという。
警察官は、銃で殺されるなんて想像は普段はしない。頭の中では様々な危険に対処するよう訓練を受けているプロなのだ。
だけれども、社会に受け入れられるポリスマンというフレンドリーな雰囲気を日本では警察官へ強制している気がする。
もっと、職務をみんなで支えないといけない。
そんなに泣いていると警官が来るよと子供たちに叫んで言い聞かせていたのは、もう昔の話かもしれない。
子育ての難しさが、事件の起きるたびにいわれる。
そのたびに他の国々に比べれば、そんなことは・・・・といつも却下されてしまうのはなんとも言えない・・・。
寂しい気分になる。
原爆投下の広島で世界の自由主義国(?)の首脳が集い、平和について協議した・・・ようだ。
中身は戦争についての話であり、侵略者への処罰を強化しようというものだ。
追いつめる。追いつめられる方はどうか。
反発し、反抗するだけである。もちろん、私が悪いとは言わない。
だから、最後は力で説き伏せるというか、打ち負かす以外にはない。
武力の衝突が回避できない状況へと進むのは、火を見るより明らかである。
投稿する気分じゃない・・・という始まりが、今は投降する気分じゃない・・・になっている。
おれは何か敵味方を勘違いしているのではないか・・・。
そりゃ、そうだろう。敵の味方は敵だろうし、敵の敵は味方だろうし、どっちも殺されて殺して・・・。
ああ、分からない。なんで国家になるとひとを殺していいのか。見せしめしていいのか。分からない。
悪いし、いやなことだと明確に分かっているし、なんで、そんなことが許されるのか。
そうしないと法律でそれこそこっぴどくやっつけられてしまう。
そんな状況では逃げることは論外の悪行になる。
・・・・早く、終われ・・・というのがせいぜいである。情けない。ちっぽけさをつま先から頭のてっぺんまで感じている。
地球と火星の間に挟まれて押しつぶされている気がする。
太陽の灼熱の中でもがいている自分の精神というか魂がいるような感じだ。
チャレンジして失敗する。
それはいつものことだ。
その原因がなんであれ、失敗した仕事の責任者は責めを負う。
だから責任者なのだけれども、そんなのは理不尽でしかない。
月への民間初の偉業だったはずだという。
おもちゃのような月探査機が走り回る姿が計画の中にあった。
ゆめが多い事業だ。
チャレンジは、いつも失敗と成功のはざまにある。
失敗で一番の後悔は、それでこころを削がれてしまうことなのだが、そこが理解されない。
日本とアメリカの違いはどうもそういうところにありそうだ。
二刀流はどうか。
日本では定着しないのかもしれない。
だって、成功と失敗への考え方が違うからだ。
日本の公共放送ではこう表現するという。
いわゆるゴールデンウイークという表現は、休み期間が1週間を超えるので、そうするのだという。
なかなかなものだと・・・思ったが、なにかせっかく広がったことばを否定している気もする。
言葉いじめというのはあるのだろうか。
お前、もう古いからひっこめなんていう調子での適用ではないのか。
いじめは、ことばにもあるのだということかもしれない。
当事者のことば自体は反論できないだろうから、周辺に違和感を持つものが代弁しないと、ことは進まない。
さて、あなたはそんな印象の最近の事情を把握しているのだろうか。
このブログもしばらく投稿しないと縁遠くなるようだ。
なにか心の中をさらすようなニュースがでると、そういう徴候を探索されるのではないかとか、いろいろとブログの長所短所がでる。
そんな気はないといってもやはり他者を批判することがおおくなるからだ。
とくに関わりのない事件でも、なにかコメンテーター気取りでつい投稿してしまうなんていうことがあるのだ。
重大事件があると「動機」が問題だという。
それが不明ではなにも推理できないから、容疑者の周辺のことばを拾うということになる。
そうなると、ああいうこと、こういうことを言っていたとか、そんな関連の行動が見え隠れしていたなんていうことが浮かんでくる。
やはり、そうだったのかと、合点がいくなんていうこともありそうだ。
でも、そうなのだろうか。
疑問はいつも残る。疑うこと自体がほんとうはおかしいのだ。
無関係なものがそこでどうしようというのか。
無実なのならば、なおさらだ。
容疑は容疑以外の何物でもない。
そんなわけで遠ざかっていた・・・。
いつものことだとその男は笑った。
いつものことだと、その女は微笑んだ。
いつものことだと、ひとは言う。
いつもことかと納得する。
そうか、いつものことなのか。
なにか説得力のあるいつものことが最近、巷ではやっている。
それもいつものことなのさと、だれかが叫ぶ。
そうなのだ。
いつものことなのだ。
戦争が勃発した。
いつものことだとみんなが言った。
そうなのだこの地球ではいつものことなのだ。
殺し合いは良くないというのも、いつものことなのだ。
みんなが世界でよくないぞと宣言しても、それもいつものことなのだ。
無視されるのもいつものことなのだ。
いつものことばかりでは、けりが付かない。
それもいつものことだっていうのか。
まったくこの地球という星はなんていうところなんだ。
たしかにプロのスポーツは楽しい。
そこに努力と技術の集大成があるからだ。
そして、常に故障やケガとの闘いでもある。
いつもドキドキハラハラしながら、みるのはやむを得ない話だろう。
そんなリスクをいつも背負いながら、選手たちは懸命に競技を続けている。
楽しくないはずがない。
どんな未来があるのか、だれも怪我せずにシーズンを終えてくれ・・・。
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