ずっと晴天が続いた。
だから、この数日の雨はなつかしい。
気温がなかなか上がらないというのもよかった。
さくらが長持ちした。
つい、桜となるとすぐに散るというイメージで寂しさが先に立つ。
でも、今年は結構長く続いていた。
でも、それでも、もう終わりだ。また来年の桜だよりを楽しみにする。
雨のしとしとという表現も私は好きだ。
ずっと晴天が続いた。
だから、この数日の雨はなつかしい。
気温がなかなか上がらないというのもよかった。
さくらが長持ちした。
つい、桜となるとすぐに散るというイメージで寂しさが先に立つ。
でも、今年は結構長く続いていた。
でも、それでも、もう終わりだ。また来年の桜だよりを楽しみにする。
雨のしとしとという表現も私は好きだ。
ああ、いやだな。
雨だから、今日はやめにしようかなんていう安易な気分ではだめなんだよな。
雨でも風でも、暴風雨でもひとは働いているのだ。
だれかが、そこで懸命に働いている。
ありがたいと思う。
でも、それと自分のケースでは違うという感じが生ぬるいのだ。
そうではなく、なんとかしなくてはいけない。
いやいや、だれかがやっている。
自分がそういう立場のこともある。
だから、どうする。
交代で順番に社会のために働いているのは、自分のためになる。
ここが正念場なのだ。
生きているってことは、この時間と空間を共有していることなのだ。
戦争を仕掛けるプーチンもそれを拒むゼレンスキーも、その他多くの関係者もみんなが共有しているのだ。
責任と義務も同じではないのか。
ひとりが狂気に侵されているのは、だれかのせいだと言えるかどうか。
社会の責任ではあろうか。
時代錯誤という狂気なのではないか。
今の世界がかなり自由である証拠かもしれない。
しかし、一部の弱者が理不尽な暮らしを強いられるような世界はやはりおかしい。
平和な田舎の暮らしをなぜ蹴散らそうとするのか。
時代錯誤ではないのか・・・。
どう終わらせるのだ。雨の日はいつか晴れるが、また雨は降るから仕方がないとあきらめることでいいのだろうか。
反省という反省をなんど繰り返しているのか。
ただ、ただ中身のない反省ではため息と同じではないのか。
何を書くのか。タイトルで示す。
中身は不要かもしれない。
タイトルで分かればの話だ。
だから、タイトルは意味の不明なものが多い。
多くなる。
そうでないと、だれも中身は読まないからだ。
逆もある。
読む必要のないようなタイトルならば、どうか。
すべてが判れば読む必要はない。
このあたりが難しい。
伝えるという趣旨ならば、それでいいだろう。
だが、説得となるとどうか。
なんとも納得しがたいなんていう時には、どうしてももっとその根拠が欲しくなる。
そこに応えることができるかどうかが、常に問題なのだ。
だからタイトルの大切さを感じる。
なぜなぜ問答は、ウクライナ侵攻だろう。
なぜ兄弟姉妹のような国同士が攻めあい殺し合うのか。
それも一方的に併合しようとしているし、一部クリミアは数年前にに併合している。
その過去の旨味に舌鼓をうって二匹目のどじょうを狙ったのだろう。
そうとしか思えない。
一瞬のうちに奪い取って「あっ」と言わせようとした節がある。
ロシア正教を言いくるめて、正当化しようとしているし、同盟国を従えようと躍起になっている。
そりゃ、ソ連の頃の国々が独立して西欧諸国の枠の中に入っていく姿をただみて送るのはさみしいだろう。
だが、世界の経済大国8か国に入ってロシアが欧米諸国と足並みをそろえて世界平和に貢献していたのではなかったのか・
冷戦時代は袖も触れあわなかったのに、なんという急激な近接だったのだろうか。
外見だけで中身が伴わないと・・・いうことだったのか。
必要な軋轢なのかもしれない。
だが、そんなことはないはずだ。
他の大国はいざ知らずロシア連邦は、知的水準が高いのは一目瞭然である。
そういう民がいながら、なぜに敵対主義で対立を激化させるのか。
仲間外れということか、村八分なのだろうか。
そういう感情を抱く指導者がいるからではないのか。
経済的に世界のリーダーの一つであるはずなのに、かつてのシンパが離れてゆくのが許せないのだろうか。
やはりリーダーは民衆の知恵で選ばないといけないだろう。
狂ったリーダーは国家を疲弊させる。
逃げ出す民衆を追ってもそれは無駄だ。
民意が離れたとしれば、近隣諸国も信頼を手放すだろう。
いじめの時代はなくならない・・・とでも言いたのだろうか。
話し合いで解決しなければ、次の世代はやってこない。
なんのため?って問われたらどう答えるのか。
そんなこと自分で考えろだろうか。
それともまともに相手がうなづく答えがお前にはあるのか。
そりゃ、ないと言えばうそになる。
生きたいと思う気持ちを満たすため・・・ではないか。
そういう希望があれば、自分の気持ちに沿う行動をとるべきなのだ。
でも、世の中はそう単純ではない。
家の経済的な余裕がなければ、決して今の時代でもこどもは大学にはいけないのだ。
自分で稼いでいけばいい・・・と言えるだろうか。
みんなが自分で決めた望みをかなえるためにできる世の中に、まだなっていない。
学ぶことが社会を強くしていく最大の私たち大人の力ではないか。
こどもの学びを如何にして最大にしていくかが今問われている。
みんなが持っているものなのか。
私のものはなにか不気味なほど大きかった。
なので隠している。
こころの片隅にいついている。
時々顔を出して存在感を示すのだ。
その時々で私は、それを追いやってきた。
どうやってかというと、自分を大衆の中のひとりにしてしまうのだ。
おれは私ではない・・・。
社会の人間の一個として生きているとするならば、いくら雅の強い私でも、俺をコンプレックスのために攻撃することはできない。
だから、今もこうして生きている。
世の中は年末のようだ。
おれはコンプレックスを軽視しているわけではない。
それはわかるだろう。
だれのこころの中にもあるものだから、わかるはずだ。
戦争はどうして起きるのか。
なぜだろうか。
みんなで議論することはほとんどない。
だから、戦争に突入してはじめて、早く終わらせようと思う。
しかし、簡単にはいかない。
敵がいるからだ。
味方のために戦うことが不可欠だというのだ。
終わるには、敵を壊滅させないとならないのだ。
これでどう終わらせることができるのか。
なぜ戦うのか。
なぜだ。
この答えがどうしても要ると私は思う。
なぜだろうか。
始めてしまったら、後悔先に立たずっておふくろがいつも言っていたではないか。
なぜ、その前に・・・。
いつものルーチンに陥る。
始めないことだ、だって、今、俺たちは戦争をしていない。
いや、脅威は増しているらしい。
で、どうするのだ。
やっぱり、始まらないと分からないようだ。
今、私たち地球市民が注意すべきは、間抜けな外交がもてはやされることである。
そこには愚かなリーダーがいる。
常に構図は同じだ。
執拗に権威にこだわり続ける。
老齢化すればするほど、頑固になるのは世界中おなじようである。
地球を守る。
なんのためにだろうか。
豊かな自然の中で稀に得たおのれのいのちを全うする。
それはひとも、ほかの動物や植物である生物すべての心根ではないか。
かしこい仲間とかけがえのない豊かな暮らしを送る瞬間なのだ。
一瞬のいのちをどう生きるか。
地球の自然の中で、目をつむることができれば、それは最高の一生であろうか。
なんともまぶし気なことばではないか。
何も恐れることなく、自由な雰囲気を感じる。
しかし、ちがうだろう。
目的があるから、そこから外れないようにしているのだろう。
そう、私は感じる。
ひとは自由であるほど不自由なのだ。
私は自由だとか思う時は、かなりしんどい心理の時でしかありえない。
そこのステージでは、そうする。
決めたらひとは強い。
そう言われるひとは、かなり繊細でいつもおどおどしていることが多いはずだ。
そして、一度目的に近づくと、分かるのだろう。
だから、堂々として挑んでいる姿に、周りからはそう見えるのだ。
だれだって、つまづく。
そして立ち直る。
一歩下がったら、二歩進むことができないことは多い。
どんどん、どんどんと後ずさりなんていうのは、よくある。
物怖じしない性格でも、そこには繊細なたましいがある。
最近の兵器は簡単になっていて高性能だ。
車と同じだ。
とくに耐力は必要としない。
そんな風にへんかしてきている。
とすると、重厚長大路線なんていう富国強兵の時代は古のものだと言えそうであr。
仮に、みんなが祖国と家族を守りたいと思えばどうする。
女性兵士が増えているという。
こどもの軍隊なんていうのもあるらしい。
小さいころから軍事訓練で銃器を扱うことが奨励されているらしい。
徴兵制度のある国々が多いのも事実だろう。
なぜだ。
戦争はなんのためにやるだ。
政治家の過ちを正すために国民がいのちを投げ出さないといけないのだ。
闘うのは主権在民なのだから、国民なのだ・・・という。
軍事費も同じだろう。
闘う兵士もしかりだ。
でも、目的ってなんだ。
みんな祖国と家族のためだという。
それは敵国という存在そのものが誤った考えではないのかと疑問を呈している。
なぜ、戦うのか。
家族のためだと本当にいえるのか。
言えない。敵も味方もない。
どっちも祖国であり、家族のいる国家なのだ。
闘う意味はない。
ましてや殺し合う意味とか意義なんてない。
侵略されたらどうする・・・。そんな愚問を掲げるのはやめよう。
もうやめよう。みんないのちを全うしよう。祖国と家族のために・・・である。
敵も味方もないのだ・・・。
エンディングをどうする。
こりゃ、大変な問題だな。
それで、明確に印象が変わるのだから、大変だ。
制作陣は、多少なりともではなく、評価を気にする。
視聴率とともに評判が独り歩きする。
それが気にならない製作者はいない。
だが、それは印象が個々に違うということを頭に入れておこう。
どこに焦点を絞った作品なのか・・・が、大事だと私は考えている。
大衆に受け入れられるものは、たしかにある。だが、需要はどうか。
様々なひとがいるように、そこには多様なニーズがある。
ドラマの最終回を見たいと思うのは、その辺の考えや方針がまとめられていると信じるから、そこを覗いてみたいと思うのだ。
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