こころの叫び

なにかをかんじる。

こころがさけんでいる。

それはなにかといかけているもののようにかんじる。

さけびはすんだくうきのなかをはしりさった。

おひさまのひかりよりもはやいきらめきのようにきえさった。

そのさけびはどこでこだまとなれるのだろうか。いつかははねかえるものにぶちあたることができるのだろうか。

わからない。こころのさけびはそのなかで反響しているだけだから・・・。

だれにもつたわらない叫びかもしれない。

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休みは終わるもの・・・

休みは容赦なく終わる。どんなにわめいても泣き叫んでも時間切れになる。

そしてまた仕事に戻る。休みとは来るものだとばかり、想っていた。それは間違いだった。終わるものだった。

そして、また来るものでもある。毎年同じ頃にやってくるのだ。ゴールデンウィークなんて毎年やってくる。一番楽しい時期だ。そんな時は必ずなくなってしまう。仕事が押しのけていくのだ。それでも、必ずやってくる。

休みという言葉は、働く者にとっては、光り輝くものだ。でも現実に手にするにはとても難しいものだ。だから、休みは何もしないでどっぷりとその渦中に浸かりたいのだと私は思う。

正月もそうだ。もう今日で終わりだ。また来年まで来ないのだ。夏休みなんてもう夢見心地だった小学生のころを思い出す。すべてが解放されたように感じた。

それでも必ず終わった。新学期が始まった。そして今、そんなことを懐かしく想っている。もう自分で己の休みをつくるようになった。毎日がそうなることもあるし、まったくそんなことを考えもしないこともある。

もう終わらない、いつまでたっても終わりのこない休みも人生にはある。世の中の一面だけを働きものはみているだけのようだ。いろんなひとがいろんことを考えている。このちっぽけな脳みその中にそんなに広大なものがあるのだ。

もっといろんなことをそれも子供のころにみておくのが、いい・・・。そう私は考えている。

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景気の話をしよう

景気のいい話をしよう。景気のいい話をして楽しもう。

景気のいい話をして金儲けの夢を見よう。景気のいい話をみんなでしよう。

大勢集まって、景気のいいところを見せよう。景気のいいところへ行って、景気のいい話をしよう。

どこがそんなに景気がよくないのか議論しよう。景気づけにいっぱい飲んで話をしよう。

景気のいい話をしよう。ちょっと時間をおいてからのことだが・・・。

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あいさつ

何もできなくても挨拶だけは、しっかりとやりなさい。そんなことを誰かに言われた。たしかにその通りだと私も思う。そして、つい忘れてしまう。

それが日常的に実行していない証拠でもある。日本では神仏をおまつりしているのが普通だ。それが最近はないうちが多くなっている。実家に帰ったときにお参りするのも、最近の傾向では帰省そのものが少なくなっているので、ますます機会は減少しているのだ。

あいさつ。

そう一言でいうが、実に難しい。身体に不具合があれば、お時儀をするのもためらわれるぐらいだから、すぐに健康状態が反映される。心理的に不満が充満していれば、顔つき、姿勢、話し方がそっけなくなるから、すぐにわかる。

そういうことを悟られるのはだれでも好まない。だから、・・・・。

だから、あいさつをしないようになる。それは、こころとからだの状態を忠実にうつす鏡のようなものだ。そう私は考えている。

そして、その大切さを身にしみて感じてもいる。相手も顔と目を見て「おはようございます」といい、一礼することがこんなにも大変なことであり、それ以上に大事なものを教えてくれることを今思い出しているところだ。

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空気の波

音楽は空気伝搬の波を受取ることだ。

いい音楽は、いい楽器がいるとともに、いい聞き手がいるのではないか。

そして、いい空気がいい音楽を伝わらせるのではないか。

音楽は空気の波だ。耳でけではなく目でも楽しむことができる。でも、目をつむって聴く音楽もいい。

それも四季のある自然の中で、そのときどきの音を聞きたいようなきがする。

この進んだ世の中で、まだ海外との中継では間がある。あれはほんとはもうないのではないか。特派員がそういイメージをもっているから、そうなっているのではないか・・・。

音楽は空気の波なんだから、受けての波長によって増幅されたりする。それは私たちのこころの波によって変化するのだ。

だから同じものを聴いてもその時々でちがうものになる。そして、いいところのイメージがいい曲にはついて回り、さらに増幅されるのではないか。

作曲者はそんなメカニズムをしっかりと心得ていたのではないだろうか。そんなことを想った。

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凸凹の軌跡について

破壊と創造。戦争と平和。好景気と不況。

凸凹しているこの世界がある。それが当然のような気がする。同じことを続けようとするのは守勢に立つことでしかない。ということは、変化を求めていることだ。でも急激な変化も嫌だ。そう考えている。

そこで私たちの意図にかかわらず、凸凹がくる。どっちがどっちでもない。変化している。その変化を先取りして予言とか予想とか、いろいろな分析、科学的手法、感覚的な手法などを駆使して世の中をリードしようというもくろみもある。いっぱい溢れている。

一番良いのはなんだろうか。景気でいえば良いのがほんとにいいのかは疑問だ。すべてが悪いのかといえばそうではない。ほんとはよくないのだが、戦争の時でも景気のいい産業や地域はある。でも、続かない。

平和な時にはなにがいいのか。戦争がないという良さだろう。

でも軍事産業にとっては、それは悲劇でしかない。兵器の開発なんてお金がいっぱいかかるのだ。そうして開発していかないとすぐに先端技術で陳腐化して使い物にならない。使わなければいいのだ。でも、そう簡単ではない。

需要を創る。そして応える。それがすべてだ。どんなことでも、ニーズがなければやらない。戦争なんてだれもやりたくはない。知人友人親戚子供たち親たち。みんな犠牲になるかもしれない。

なぜ、そうするのか。そうまでして需要をつくるのか。不測の事態に備えるためだ。そうしないと知らないうちにせん滅させられる。きれいごとを言っている間にもういなくなる。だれもいなくなる。国もなくなる。

そんなことを想えば、だれもが不測の事態に備えることに異論を挟まなくなる。挟むことができなくなる。それでも少数の人たちは反対する。どうしても嫌だという人たちもいる。この世は多数決の時代だから、無視か放置か、またはせいぜい少数意見の尊重という形になる。でも実現はできない。

立ち上がる。打倒しなければそこに勝ち目はない。再び争いが起こる。

負け組が勝とうとする。当然だ。勝てば官軍なのだ。でもいつも負け組はいる。単なるシーソーごっこでしかない。もっといい解決方法はないのか。

実はない。

だから、強制的に不可逆的に瞬時にリスクマネジメントの不手際をついて、出現するのが凸であり凹である。

成長と停滞。そんなものもある。後退という成長もある。そんなときに何か大切なものが変革しているようだ。不況時には成長しない経済がある。そういう状況は周囲にあるものに注目する。まだ使えるという感覚だ。

でも、この社会の環境は破壊されている。みんな利用している車社会だからだ。CO2がこの地球を壊し始めているのだ。いくら壊れた部分を直そうとしても、もう手遅れだ。ヒトがいなくなる。車も必要なくなる。そして消える。

そこからあたかも新芽のように芽生えるものがある。凸凹とそんな感覚だろう。いつもどうやってもこの社会、この世の中は変化し続けているのだ。どうする。自然にまかせてその動きを研究しようではないか。

波乗りでもいい。サーフィン流思考法なんていうのだろうか。でもみんな実際の波は異なる。こっちの波に乗れても、あっちの波は難しい。いろいろだ。

こんな風に変わったらうれしいな・・・。そんなことがいっぱいある。でも、そんなことはだれも思いもしない。できないと信じ切っているのだ。なぜだろう。

わからない。凸凹の軌跡は私たちの目には実は見えないのだ。何者かがそれを凸であれば削り取り、凹であれば埋め合わせているのだ。だれだろうか。悪者と正義の味方。これも同じだ。どの程度の悪がどの程度の正義の味方なのだろうか。同じ物差しの上にいるのだと私は考えている。

でも、同じことが、その時々の見方、評価で変化する。まあ当然だろうが・・・、そうなのだ。でも決してうまくやろうなんて想うな。それは、単なる視点の違いだけなのだ。大した差はない。

生きている限り、そこに変革はついている。普通に歩いたり、走ったりしていても、いしころに躓いたり、下駄が脱げたりする。転んだりもする。それでも河原の石の上を飛び歩いてみるのは面白い。長くは続かないが、結構ゲームのようで楽しい。

私たちの社会の凸凹も同じだ。私たち一人一人がそういう凸凹の軌跡をもっているのだし、みんながこの社会の凸凹の一つなのだと私は考えている。

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小さな家と大きい家

あなたは小さな家と大きな家とどちらに住みたいですか。そんなアンケートがあったら、私はこう答える。

二つ欲しい・・・。なぜならば、基準がわからないからだ。どれが大きくて、どれが小さいのかわからない。二つ、それもこの世の中で一番大きい家と一番ちいさな家があれば、その範囲で選ぶことにする。

あなたは汚い家と清潔な家のどちらに住みたいですか。そして、さらに追い打ちをかける。

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日本の論点

日本の論点ってなんだ。日本では珍しい分厚いB5の本だ。定価は2900円だ。

ジャパン・イシュー。グローバル・イシューと同じだ。

いろんな問題点を識者が論じている。

そんなことは面倒でとっても読む気はしないが、買ってしまう。なぜって、ちょっと興味があるからときどき買ってみるのだ。でも読みはしない。

たぶらかされるから、読まない。でもその分厚さはパラパラとめくるには適当な量だ。手触りもいい。

ここに論点がつまっている。そう考えるとつい問題は何かと考えてしまう。でもそんなことで簡単にこの世の中の問題は解決しない。それも分かっている。

いつか、そのつまらない論点の執筆者になってみたいものだ。まあありえない話だ。競争力がない。日本は弱い。そんなことが書かれているようだ。そしてそういう大波乱の時代を生き抜くには強さを手に入れなければならない・・・。せいぜいそんなところだ。

不安をつのらせて、それを乗り越えろというパターンだ。トラブルをつくって、それを修正する。壊して治す。病気にして治療する。けがをさせて、病院へつれていく。そんなアホみたいなことがいっぱいありそうだ。

でも私は中味は読まない。つまらないからだ。でもパラパラとめくるにはよい本だ。お前には売らないといわれそうだ。でも時にはつまらないという本も読んでみる。どの程度つまらないかチェックするためだ。

日本の論点ってその程度なのか・・・・。疑問がわきあがってくる・・・・。

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ライフスタイルについて

ほとんど世の中のことを知らない。仕事一筋なんていうのは、ほぼ99%に達する。生活することと仕事をすることは、同じ意味なのだ。

そして一番大事なことを忘れてしまう。仕事が生活になる。

ほんとは生活が仕事なのだ。そんな常識がいつのまにかなくなる。肩書きがついて、そこで生活意識がさらになくなる。会社、企業、組織、そういう法人の操り人形になってしまう。

お金を食うのが法人だ。私たちは自然人だ。ご飯を食べる自然人がお金を食べる法人に奉仕しているだけのロボットになっている。それも知能をもたない旧型ロボットだ。それは江戸時代の操り人形のようなものだ。

動力源もぜんまい程度しかない。そのつど、おかねという食べ物をお供えするために、ねじをまかれて動くだけなのだ。それ以上、動く必要はない。

だから、生活が忘れられる。自然人なのに、食べ物をしらない。世間もしらない。そんな社会がずっと続いてきたのだ。

ほんらいヒトは晴耕雨読がいいと私も想う。それは難しい・・・。なぜ、小人閑居して不善をなすからだ。自然の中で、生きるという中味をしらないのは、私も同じだ。

どこでそういう基本を知るのだろうか。それは、挫折することから始まるのではないだろうか。躓くと、今まで見ていなかったモノや、痛みや、景色が見える。それまで、バカにしていた多くのものがほんとは大切な日々の生活の一部だったことを教えてくれるのだ。

ライフスタイル。それは、何か格好よさという風情が漂うがちがうものだ。

自然さ。そういうものがいい。私は、晴耕雨読とはいかないが、とにかく自然に、より自由に、よりおおらかに生きたいと思う。

結構、難しい。自然に生きるって、どんなことか。よくわからないが、なりゆきで生きるようなことを前もって自分のスタイルにすることなんかではない。そこに、自分の考える自然さがかならずある。

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活用ソフトの時代

モノを創る仕事は楽しいものだ。だから、どんなことがあってもやっていけるのだ。

モノづくりは夢中になる。だから、つい忘れる。寝食の大事なことを忘れる。

そんなモノづくりの世界で、くびを切られたら、どこへも行き場はない。当たり前の話だ。

結局、日本からモノ作りに夢を託す若者はいなくなってしまうのだ。

それでは、困る。モノは生きていく上で必要なものだ。だから、そんなモノづくりに精を出す若者をはぐくむ社会環境が大切になる。

そうすれば、いろいろな新しくて便利で気が利いて私たちの役に立つ製品が出来上がるのだ。

いまある資源を活用する時代がこれからの日本の発展のカギなのだと、私は考えている。そこから活用ソフトの時代が、いまから、そういう有効活用の時代が、ソフトの時代が始まる。

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