私の奥さん
結婚記念日。今日1月10日がそうである。
ここ10数年、何もしていないが、決して忘れているわけではない。というより、普通に過ごすのが記念日として尊重することにつながるのだと、私は思う。
普通に生きることが続けられれば一番いいし、できるだけ質素な生活の中で日々を感じていきたいと考えている。そんなところは、たぶん同じ感覚を共有しているのだろう。いろいろなことがあるが、人は自然に生きるのがいいと思う。そういうと何か冷徹な感じをあたえてしまうかもしれないが、決してそうではない。自分の心に素直になるということは、自然体で生活することである。でもなかなかそう頭の中で考えるようにはいかないものだ。
私が私の奥さんに会ったのはもうずいぶん前である。30数年経過している。私は自分の性格から一生結婚はしないと思っていた。すべて偶然かもしれないし、何かかかわりがあったのかもしれない。とにかく偏屈で自分勝手だから、他の人と協調して生きていくなんていうのは無理だと・・・。というよりも自由に縛られないで何か興味のあることに打ち込みたいと、なぜなら人生は一度きりだから・・・、そんな思いがあった。これは人見知りのより激しかった子どもの時から、変わらないものである。でも、今も一緒にいる。私の両親は「夫婦は空気のようなものだ、いい時も悪い時もある・・・」と言っていた。私もそう思う時もあるし、そしてほとんどはどうして一緒にいるのかさえ忘れている。
好き嫌いの激しいのが私の自己評価である。だから自分ではどんな人生を送るのかについてあまり展望は持たないことにしていた。自然体というほど枯れてはいないが、社会の中で生きるにはパートナーが大切だと思う。人として生きるには、人のDNAが持っているものを自然に受け入れていきていくのがいい。生来、開放的で社交的であれば、それでもいいし、そうでなくてもそれはそれでいい。
今、このタイトルでどう締めくくったらいいのかわからないでいる。私の奥さんは、そんな私をよく知っているようだ。自分勝手をどうコントロールするのかという課題を、私はずっと抱えてきた。その中で、私は私の奥さんに会ったことで何か生きるための客観的な基準、自分の自分勝手なものに加えて、これとは違うより信頼できる基準とでもいうのだろうか、そういう大切なものを手に入れたのだと感じている。
ある有名な歌に、「自分より先にいくな、一日でもいいから長く生きて、・・・。」という歌詞がある。そんな気持ちがする。この社会で、今の時代に生まれてきていなかったら、だれにも今ある出会いはない。だから、できるだけ自由によりおおらかな人生を一緒に送っていきたいと考えている。
そんな夫をもった私の奥さんは何を考えているのだろうか。でも限られた中でかなり自由な発想をするので面白い。
小学校の恩師がクラスの名前をふるさとの方言で「けげしこ学級」とつけた。そして、私たち子供に対して、「将来、結婚するなら、男女とも頭の良し悪しではなく、賢い人(けげしこ)を選びなさい。」と力説していたのを思い出した。私は、その時、心から「そうだ。そうなのだ。」と納得し、それを実行してきたようだ。それが私の奥さんである。
« 心の尺度の置き方 | トップページ | 海の向こうにあるもの »
「恋愛」カテゴリの記事
- けんかと恋(2018.11.09)
- 憂慮(2018.08.08)
- 昌子の悪夢はこれからの糧になる・・・(2018.07.06)
- 中国のカンフーサッカー;世界ではどうなのか?(2013.06.14)
- 想いは通じない・・・(2013.06.11)
コメント