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笑顔に魅せる

もともと笑顔のいい人がいる。その人は普通にしているのだが、どうも周囲からはいつもとても注目されるような感じのヒトがいる。顔ではなく雰囲気がその背景にあるのだと思う。とくに二人並んでいると、失礼ではあるがその差は歴然となる。でもどっちが本当はどうなのかを言っているのではないので表面と実際は違うことも多いようだ。

いい人だと思って近づいてみると、意外と馬鹿にされてしまうこともある。そんなときは、人は見かけによらないという昔からの言葉が頭をよぎる。同じことをずいぶん前から感じていたのだと少し安心する。でも自分がもしそういう風に取られていることがあるとすると、とても嫌な気がする。そうはなりたくない。だから、そういうことを考えたあとは、何か卑屈なほど遠慮勝ちになってしまう。

しかし、敬語を使う場合と同じで、どこかで区切りをつけないとまったくばかげた異なってしまうのは目に見えている。だから、私は言葉も文章もぶっきらぼうな方がいいと今は思っている。

笑顔に見える。それはそのひとの責任ではない。笑顔に魅せるというのか、笑顔を魅せるというのだろうか。ちょっと悩むところである。真の笑顔ではないが、そう見せて魅入らせるということだろうか。やっぱり難しいと私は思うが、かわいい女の子にとっては簡単なことかもしれない。なんら努力なしに生まれつきそうなのだという感覚かもしれない。

年を重ねると、この表現が実は変わってくるようだ。内面から何か噴き出すような雰囲気で体全体が笑顔というか、愛嬌をふりまいているというか、大人の雰囲気でいい年の取り方をしていると感じさせる女がいる。それはどこから生まれるのだろうか。天真爛漫な素振りが経験を積んでそうなるのだろうか。どうも違うような気がする。それも見世物ではないのだろうか。ふとそんなことを想ってしまうのはどこかおかしいのだろうか。

大衆に見せることは大変なことだろう。最大公約数というようなことだろうか。だれの目にもよく映ることが芸能人の成功の秘訣なのかもしれない。

そして今感じているのは、たしかに文明社会というか、TVなどの映像産業が盛んなところではそういうことだが、自然の中でそのまま暮らしている人たちが世界にはいっぱいいる。いわゆる貧困撲滅の対象になる地域の人たちの笑顔は子供や大人にかかわらず、私はとてもいいと思う。赤ちゃんも老人も男性も女性もそれぞれが生き生きとしているのはなぜだろうか。懸命にいきる。一所でいきる。だからではないのか。自分のふるさとはそのまま自分のすべてなのだから、他から来た人たちにそう見えるのだろうか。

ふるさと、田舎の兄弟親戚を思い出すのはそういえばいつも笑顔だけのような気がする。両親の顔もそういう風に思いだすだけである。笑顔をわすれていたことに気づいたのはこの数か月である。作ってつくれるものではない。心と体の全体の最大で最善の表現が笑顔なのだから、体調と精神状態が安定していなければ、笑顔は偽物でしかない。そういうのはいやだからあまり笑顔をみせなかったような気がする。でも今はもう関係ないので、自然にしている。そうするといつのまにか昔に戻ったような感覚になってきた。

心に笑顔をもっているのだから、表の顔の見え方はまあ生まれつきということであきらめよう。

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