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2008年3月

暮らしと映像

暮らしの中にいろいろな映像が入り込んでいる。テレビ、映画、アルバムなど。音楽は昔から生活の中で重要な働きをしてきた。そして絵画も芸術という分野での素晴らしい活動としてこの世の中に認められている。これらの二つが結ばれたのが今の姿である。

これからの映像の世界はどうなっていくのだろうか。私たちのくらしにどう影響するのだろうか。難しいことがわかりやすくなって、便利になるとかいう効果だろうか。暮らしの中で、どんな映像をこれからみるのだろうか。他の知らない土地のくらしをみること、自分たちの生活を映像で発信することもできる。いろいろと発展する余地がある。その余地とは、私たちの望むものでなければそうはならない。必要なものがこの社会で使われる。それは昔からあったように住み着くだろう。テレビもそうだ。昔はなかった。でも目に飛び込んでくる映像はみんなにわかりやすさを提供した。

そして慣れてしまうとなんでもなくなる。それからが問題だろう。次の変革が求められる。どんなことなのだろうか。目をつむっても見えるテレビなんていうものだろうか。リアルタイムでどこでも見れるテレビなんていうようなものではないだろうか。

どんなシステムで運用されていくのだろうか。しっかりと個人情報の保護をしていかなければならないだろう。暮らしの中の映像は意外と歴史的なものがいいのではないか。そして未来を描くことにももちろん有効だろう。コミュニケーションの方法が変わるなら、それは双方向という通信システムだろう。

でも面倒な気もする。一方通行でいいではないか。そんな声も聞こえる。暮らしに映像を持ち込んだのはずっと昔のことである。今はかなり速度がはやくなったが本質はおなじだろう。

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娘の結婚式

きのうは娘の結婚式だった。

娘の娘(まご)が1歳になって式場をにぎやかにさせていた。

父親としてとても感慨深い気持ちになった。ヒトのマネをする必要はないといつも私は思っている。だから、自分たちなりにいろいろと考えて人生の節目をつくりあげているというのが、とてもうれしかった。

たまにしか会うことのない兄弟や親せきの顔をみるのは、やはり懐かしいものだ。そしてうれしい時はうれしく、つらい時もうれしさを忘れずにいるからこそ、みんながまた同じ時空に集うことができるのだ・・・、という気持ちになった。

結婚式場のスタッフはみんな若くはつらつとしており、何かつぎの世代の流れというようなものを感じた。としを重ねることは、つぎの世代へのバトンタッチであり、私の奥さんが孫をあやしながらもうれしそうに笑っていたのが印象的であった。みんなに共通しているのは若さでいえば、「今が一番若い」ということだ。だから、いままでもこれからもいつも一番若いのがヒトのいいところかもしれない。

いろんなことが人生にはある。そしてそういうことをいろいろと工夫し知恵を出して克服し経験していくことが私たちにはできるし、人生のいいところだと私は思う。ほんとうにおめでとうとあらためて伝えたい。がんばれ。

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おもいやり

思いやり、それは心の問題だろうか、それとも身体の問題だろうか。みんな他の人に対しての思いやりは大切だと説き、そう納得している。でも、自分に対する思いやりというのはまったくない。このぐらいは大丈夫だ・・・。すぐそんな風に無理をしてしまう。それが、あとのまつりとなる原因かもしれない。

わが身にことを考えるのは心の仕事だろう。頭の働きが心の活動を左右するなら、心をいたわるのは身体の仕事だろう。私たちの体の機能は呼吸系、循環系、神経系にまとめられるのだから、これらを常に均衡のとれたスタイルに収めることが、健康であること、つまりおもいやりになるのではないか。

すべて自分の中で起こることを通して外部の状況を把握し、理解するのだから、おもいやりは自分と他の人たち、この世界へ何かを発信するエネルギーの源泉ではないか。こうすればこうなるというシミュレーション、最近のリスマネの基本の形だろうか。原因と結果をまとめて、これを手段と目的に変換すれば、いろいろなプランができる。

プランニングの最終段階で必要なものは、どんな場合でも人間性の尊重というおもいやりの心である・・・、と私は考えている。でも現実には難しい。それは忙しさのために忘れてしまうからだ。忘れないためには、どうするのか。プロセスを重視することだろう。まず、どうやってやるのかを検討する。そのために95%の時間を使ってもいいのではないか。それだけ重要だから。そして、このおもいやりはいろいろなことに必要であるとともに応用ができる。普遍性がある。

おもいやりの心とかいうと軟弱なやつとバカにされるような世の中もある。こわもてのスタイルがもてはやされる。それでも、みんな表向きとは別に思いやりの心をいつももっているようだ。

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もくてきと目標はどっちが好きですか

的と標の違いか。そう思った。どっちが遠いのか。標のようだ。的は弓矢の的だから、そう遠くはないだろう。

目的と目標ってなかなか分かりづらいものだ。同じでいいのではないか。近いとか遠いとか長いとか短いとかを使って区別すれば、いいのではないか。

でもちょっと目的だけだと、日々追い詰められそうで・・・。だから私はあまり急にやる必要のない目標というものが好きだ。単なるぐうたらなのかもしれない・

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生活

生きることはしぬことだ。しぬために生きる。だから、生きることはしぬことと同じだ。生活しているのは毎日の繰り返しである。そこに人生があり、生き方があり、ヒトとしての考え方もある。

日々、多くの人たちが生活している社会で、私たちはいろんなことをしているようで、あまり大したことはしていない。この世に生まれたからには、文化とか芸術とかいうものと接するような生活をしたい・・・、と思うと、そんなことは自分には関係ない・・・、と思う。毎日、食べて寝て仕事しているだけだから・・・、と思う。

だから文化や芸術に関係あるのではないか。今の私たち一人一人の生活が文化であり、芸術なのではないか。

知らない土地がこの地球にはいっぱいある。同じヒトが同じように日々衣食住の生活をしているのだが、微妙に違う。同じ人間で同じDNAを持ち、同じように一生を過ごす。それが人類の文化であろう。そこで、たっとばれている才能が芸術ではないか。人々の生活にうるおいを与えるものが本来の文化や芸術なのだろうが、いろいろなことが分化して多様な形を持っている。

魔女狩り。十字軍。宗教上の軋轢。戦争。平和。

私たちはいろいろなものを背負って生きている。みんなが同じものを望んでいるとは限らない。ほとんどの人はみんなの幸せを願っているけれども、そうならない人もいる。実は同じなのだが、個々の命がそこにかかってくるとすべてが正当化されてしまうようだ。つまり、正義がいくつもできる。それは、自分の属するグループの幸せを願うものであり、それには他のグループの存在が邪魔だという。どうして私たちという形で同じ人類グループなのだと理解できないのだろうか。同じ人類なのに皮膚の色が違うとか、顔かたちが違うとか、いろんな理由をつけて、戦いの場を作ってきた歴史がある。

ヒトの心は時空を駆け巡るものだと、私は思う。そんな素晴らしいものをこの人類は一人一人が持っているのだ。そこから、やはり素晴らしい文化や芸術が生まれないはずはない。でも、正当化するだけの理屈が多いのはとても残念だ。

人はヒトの上にヒトを作らず・・・・・・、という言葉が何かうすらざむい感覚をもたらすのは、いいことではない。

本当にそうだと言える言論の自由が大切だ。日々の生活で自由に物事を考えて、自由に発想していくことが大事だ。でも、そうはならない。みんなが理解しているのに、誤解していたり、勘違いしていたり、頓着してなかったり、実にいろいろなことがすべてこの世にはある。頭の中で、これはちょっと恥ずかしいとか、愚か過ぎるとか、子供っぽいとか、まさかないだろうとか、想像できることはすべて実際の世の中で起こっている。悪い方のことがそうなるように思う。いい方のことも同じなのだろうが、なかなか当たり前すぎて評価されない。だからいつまでも戦争はなくならない。火種を作ることに意味を感じている人が多すぎる。

ヒトはみな平等だという。みんな理解している。でも差別する。平気で個々に特例を許してしまう。みんな自分は特別だと考えているからだろう。自分もほかの人と同じように日々の生活をしている。

だが、理解できないことが一つある。

それはみんな同じだろうが、どうして自分は自分なのか。そういうことではないか。どうして、自分が他人ではないのか。ここで自己を認識している自分がどうして、そんなことを考えているのか。日々の生活で楽しくやるには、とても大きな迷路のようであり、それこそ時空の中で翻弄されてしまうような感覚に陥ってしまう。そんなとき、何かランドマークがあるといい。

誰もが同じ生活をしている。生きている以上は人体の仕組みにしたがって食事を摂り、寝ることで頭と体を回復させてある一定の期間、生きているのだ。生きる活動をしている。生活するってことは、やはりかなり大変なことだ。

いろんな疑問を解き明かすことができるかもしれない。それは何の役に立つのかわからないが、自分の疑問に答えるだけの価値はあるだろう。でも他の人が、真に理解してくれるかどうかはわからない。単に相槌をうっているだけかもしれない。何か深淵に落とし込まれそうな気持になる。もう這い上がれないかもしれない。そんな焦りもある。そして深淵に落ちていくなら、それは這い上がる必要もないかもしれない。そこに別の新しい生活があるかもしれない。どうして這い上がることだけを考えてしまうのだろうか。進むということが大事であり、未知の時空間がこころにはいっぱいあるはずだ。

でもそこへ進んでいくには、ランドマークをしっかりと心に刻んで、一歩一歩・・・。もうもどってくる必要がないのは、ヒトとしておかしい。現実を大事にして、そこを出発点にして、いろいろな活動を行うべきだ。

この社会で生活していることは楽しい。

私は真にそう考えている。時の首相が批判されていても、いろんなアイデアを出す地方の知事がいても、この世の中はガソリンがリットル25円安くなるという束の間の現実がそこに来ているようだ。ためしにガソリンを給油してみようか。そんな程度でしかない。ちゃんと生活するにはどうしたらいいだろう。

ちゃんと生活するには、自己を忘れることではないだろうか。解けない疑問を抱えているのはほんの一瞬だけでいい。自分はほとんどは他人になっている。他人の自分というのと、本当の自分がある。それをときどき取り違えるのは私だけだろうか。取り違えるとどうも迷うようだ。心に迷いを生むのはそういう時だ。たぶんそんなときが生きているという感覚をしるのではないか。

もう忘れよう。他人の自分に戻ろう。いつかまた会う日までそうしよう。ではまた・・・。

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うさぎおいしかのやま

なんの意味かもわからずに歌っていた。うさぎおいし・・・。かのやま・・・。まさか、兎おいしい、蚊の山・・・、ではないものの・・・。本当に意味不明で単に口をうごかしていたということでもない・・・。何か感じるものがある。それはメロディではないか。有名な誰もが口ずさむような歌はほとんど意味を理解していなかったようだ。頓着していなかった。そういうものだとは思っていなかった。

小学校唱歌というのが各学年で4曲ずつ、6年間で24曲を歌えるようにする方針が出されたという。もし私がいまその小学生だったら、どういう風に歌うのだろう。たぶん、どのぐらいの数を覚えるとかいうのは、興味がないと思う。

どうしてそんなに決まりばかりつくるのだろうか。ヒトとして当たり前のことがほとんどこうしなければならないと決まったいる。そこに自由はない。そんなことを思ってみても、やはり混沌とした社会では何か守らなければならない。

もっと、ひとつの生き物としての勘が大切だと今改めて思う。父さんがいなくても一生懸命勉強します・・・、なんて子供がいう時代はなんとかなくしたい。でもそれは事故としてみるととても切ない。どうして・・・、自分の身内や知り合いや・・・、どうして・・・、どうして俺が・・・。そんな思いをしている人は大勢いるのではないか。だから、いろいろな決まりができても、もうそういう事故や事件に遭遇してしまった人はどうしようもないのだ。切ない気持になる。水俣病、アスベスト、サリン、酔っ払い運転事故、電車事故、災害、いろんなことがある。くやしいのはどうしてという問いかけしかできないことだ。なぜ。なぜおれがそうならなければいけないのか。答えはない・・・。

それは、意味をしらないでうたっていた唱歌と同じようなものかもしれない。うさぎおいしかのやま・・・。やまのあなたのそらとおく・・・、というのも落語にあった。それも意味をしらないで何か面白がっていた。もっともっとどうしてとかいうことを、そんなところでも発していかなければいけないのではないか。あまり関係ないかもしれないが、意味を理解すること自体が面倒なことだ。

とんぼが舌をだして笑ってら・・・、というような歌もあった。歌詞を文字でみるまで、とんぼに舌があるのかという疑問は感じなかった。それでいいのだ。リズムとメロディが歌の命なのだ。でもいい歌詞ってある・・・。最近よく、うさぎおいしかのやまと呟いている。歌っていいものだ。

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信念

どんなことでもいい。自分のやりたいことがやりたい。それが、信念になる。でもいつもそういう状況を保持できるとは限らない。いや、ほとんどそうはできない。信念とは何か。何があろうとも通すという気持ちである。そのためには心と身体が万全でなければならない。でもそんなことはない。

いつもほとんど完璧という状況はこころにも身体にもない。私は、そんなとき、何か信念をもつことだ。どうしてもやらなければならないことをやりとげるということだ。そこから信念が生まれる。信念とはなにか。自分の信じることを念じることだ。何が何でもやり遂げるという気持ちのことだ。そこからできないことでもできそうな感覚ができて、そしてそれが現実になるのだ。ヒトってそういうものだ。できないとあきらめたら何もできない。そしてできると勝手に思っても何もできないのだ。ではどうして信念がそんな離れ業をやってのけるのかおかしいではないか。いや、それが人間なのだ。ヒトの心が身体を作る。操縦する。コントロールする。それで何かが変わる。ヒトのこころの力というところだろうか。

何がなんでもやってのけるという意思だ。意識の問題なのだ。信念の力というのはそういうものだ。信じるときは強い。でもそう滅多にあるものではない。でも必ず現れるのが信念の力だ。私はそれを信じている。だから信念も私に力をくれるに違いないのだ。

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いま、どこという感覚

つい迷い込んでしまうことがあった。子供のころ、風邪で熱にうなされ、体温が高くなると、脳の神経がおかしくなる。そんなとき、体がふんわりと浮き上がって、いろんなところを行き交うことができた。最近は、滅多に風邪をひくことはない。だから、この感覚は貴重な思いでだ。大人になると、こういうことはなくなる。こどもの特権であろう。

大人になって、経験した不思議な感覚がある。

今、おれはどこにいるんだ・・・。自分に問いかけているのだ。私は時差ボケが激しい。海外へ出かけると、ホテルや機内で一瞬、今どこという疑問がでてくる。これは、一人ででかけるときに多い。グループだとみんなで気遣って連絡して少なくとも乗り遅れるとかいう事態は避けられる。ごめん・・・。それで済むから気が楽だ。でも遅れないように普段はみんな30分ぐらい前に出てきている。そんなものだ。みんなが気を遣っている。でも、一人だと「今、おれはどこにいるのだっけ・・・」「これから、何をするのだっけ・・・」いろんなことがある。

そんな「いま、どこ・・・」、「おれは、だれ・・・」というような、問いかけをしている。無意識にやっていることなのだ。だから、時差が数日間から数週間も回復しないのかもしれない。仕事でいくからかもしれない。自由に自分の旅行として、ぶらっといくなら、きっとそんなことはないだろう・・・。すくなくとも国内ではそうならない。やはり緊張している。ヒトの防御本能というものだろう。

「いま、どこ?」という感覚は、不思議なものだ。このほかに、どんな不思議なことがあるのだろうかと想像した。きっと、小さい頃に聴いた母や隣近所のおばさんたちがやっていたご詠歌の世界ではないのか。次は、そうかもしれない。そういうことが考えられる年齢になっていることは確かだ。よくまあ順調に成長してきたものだ。

いつか来た道・・・。そういう感覚もあるのではないか。

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さわやかさ

NYの松井選手が結婚する。私はまったく彼の性格を勘違いしていた。いや誤解していたようだ。生まれつきの天才プレーヤーで傲慢な野球選手だと思っていたことがある。ジャイアンツの中で、あの頃に4番バッターとして活躍するには、かなりやんちゃでなければできないと頭から思っていた。

まちがっていた。気づいたのは、MBLに入ってからだ。いろいろな姿勢が報道される。そのたびに浮ついたところもなく、まるで野球道の伝道師のように思った。それも、自分の才能をひけらかすこともせず、どちらかといえば地味な感じの態度がとても好きになった。いつかNYスタジアムで実際に観戦したいものだ。きっと考え方が変わるのではないか。そんな思いが頭をよぎる。

その松井選手が結婚する。さわやかな感じがした。きっといいひとに違いない。かしこいひとにちがいない。でも、なにか大きな世界でもしっかりと自分の器の大きさに惑わされない人柄が、きっとどんなことがあっても対処していくだろう。日本中が一瞬、さわやかな風に包まれたのではないか。

すくなくとも、私のこころの中にはそんな風が吹き抜けて行った。さわやかさとはこういうものかと実感した。はじめてのことだ。

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さくらマラソン

その土地のいいところを知ってもらう。そして、地元の人たちがまずそのよいところをしっかりと認識する。地域おこしにはそんな当たり前のことが大事だ。

何とかしなければいけないという意識があれば、そこに知恵と工夫がついてくる。その土地が好きだから、そこに住んでいくのだから、何とかしなければいけない。そういうことが、なぜかその中にいるとわからない。

ふるさとの良さは外からみるとよくわかる。

小さい頃、母はしもやけのすぐ上の兄を気遣っていた。そして、雪国ではなく、温かい静岡に住むのがいいといっていた。今、その兄は東京の近くにいる。静岡には弟の私が住んでいる。もっとも最初の十数年仕事でいたのだが、あとの数十年はほとんど東京中心のになった。今、再び静岡に帰ってきた。みんなが好きになれる土地柄である。そして、日本の地方の一つとして、案の定、静岡の産業も衰退し、停滞している。仕事がない。若者が住めない。そんな大きな変化がある。

でも、そこに活気のあるイベントがある。さくらマラソンである。

日本平という観光名所がある。日本観光百選の第一位に選ばれた県立自然公園一帯は茶畑とミカン畑がある。そして、静岡市のさくら通りがある。通称旧道と呼ばれている。今年も桜が沿道に咲いている。4月の初めにさくらマラソンがある。いつか出たいと思うものの、もう走る力は・・・なさそうだ。でも、ほぼ毎日歩いている。山道だから登り坂である。帰りの坂道下りは結構、こつがいる。でもこの差が楽しいと私は思う。地元の人だけが知っている散歩道にもなるし、サイクリングの練習道にもなっている。バイクの愛好家が週末には山頂に集まっている。ヤマハ、スズキ、ホンダ、カワサキなどの精鋭がずらっと並んでいる。おれも若かったら、バイクに乗りたい・・・。でももう運動神経がついていけないだろう。せいぜい4輪車である。

もうすぐさくらマラソンだ。

ここ桜は種類が多く、気象台の開花宣言にかかわらず、数週間前から咲いているものがある。山の中は日当たりのいいところがあるので、環境が多様なのだろう。キジがギャーという鳴き声を時々上げている。春なのだ。そしてマムシもいる。道路に這い出してくるやつがいて、車の餌食になっているのはかわいそうだ。それが道路にへばりついて何年も残っているものがある。ウサギもいる。野兎だ。鳥類はとても多い。いろんな鳴き声に会える。

そんな中を地元の自然が好きな静岡のランナーが走る。がんばれ。そんな声をかけて沿道で声援する。一瞬、走りたい・・・と思う。いつか、きっと・・・。でもまだ数十年前に途中であきらめた富士山には、その後ご無沙汰している。

その富士山がこのさくら通りからきれいにみえる。

清水港にコンテナ船が入出港している。大型の船は港内を覆い尽くすような感じだ。そんな光景が箱庭にように見える。それが、静岡さくら通りだ。そこを走るさくらマラソンが今年も近づいている。練習する老若男女が週末には増えている。

みんなで応援しよう。さくらマラソン。いつまでも続くように応援しよう。

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プロ

スポーツ選手はだれもがなりたい職種だ。でも運動神経がいい人しかなれない。天才といわれる人たちだけがプロのスポーツ選手になれる。プロ野球の選手になる人は、地元では小さい時から有名な子供のことが多い。

それでもそういう天才が全国・世界には大勢いる。

プロになりたい。相撲とり。プロ野球。プロサッカー。作家。プロテニスプレーヤー。スキー、スケート、バレーボール、ビーチバレー、卓球。そして、サーフィン、ヨット、ダイバー、スカイダイビング、カメラマン、ランナー、ゴルフ、自転車、競輪、競馬、クライマー、歌手、俳優、・・・。いっぱいある。それから、サラリーマン、政治家、官僚、公務員、外交官、レーサー、宗教家、僧侶、先生、医師、コンサルタントなどがある。

私もプロになりたい。最初は、やはりスポーツだった。でも才能のないことははっきりしていた。だから、うらやましいだけだ。そして、見ているとその能力に感嘆するのだ。自分とはもう比較しない。そんなレベルではない。プロのレベルなのだ。そのレベルで私が一番好きなのは、そういう差のなさそうな天才肌のプロの競い合いでも、差があるということだ。差があるのがわかる。もちろんその日の体調での差もあるだろう。ほんのちょっとの精神的な揺れで差がつくこともあるようだ。そんな小さな差が、実はプロの間ではすぐに気づくのだと私は推察する。小さな、ほんの小さな差がプロにとっては大きく感じられるのだと・・・、思うのだ。なぜかはわからないのだが、些細な世界だというのは間違いないはずだ。でもそれが与える影響が大きい。何か唖然としてしまうような世界かもしれない。そういう結果を待ち望んでみている。

プロにはなれない。だからプロといわれる人たちから、その極意を学びたい。どんな姿勢で取り組んでいるのかを知りたい。コツがあるはずだ。ほんの小さなものが大きな差を生みだすのだ。なんだろうか・・・。わからないが、でもいつかわかりそうな気もする。

どんなことだろうか。たぶん、それは、心底好きになることではないのか。私が言ったようなことは考えずに本当に好きになることでプロになれるのではないか。打ち込むことは、なんの苦労でもないはずだ。好きなことをやっているのだから、そうではないか。自分のことは自分でやろう。それは、プロになる秘訣を意味していないだろうか。

私もプロになりたい。それがスポーツでないことだけは確かだ。でも新しいスポーツを考案して広めていけばいいのではないか。ペン回しのことが頭をよぎった。あれはでもできない。あれもだめだ。ほかにどんなことがあるだろうか。

いっそのこと、観戦のプロになってみよう。でも飽きてしまうのは目に見えている。たぶんどんなスポーツ、そんな種目でもそうなる。やはり、プロになるのは難しいか・・・。

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成功因子と阻害因子

うまくいくことは少ない。そんなとき落ち込んでしまう。失敗は成功の元なり、という。でもそう頻繁では立ち直れない。どこに原因があるのか。改善すればいいと、他人の場合には簡単に考える。自分の場合は、深刻だ。なぜだろう。それは、プロセスが必要だからだ。

分析する時間がもったいない。放置する。それでは良くならないのだ。わかっているのだが、できない。やれない。やらない。自分のことだからやらない。だれもが経験していることであり、周りからみれば、容易なことに映る。でも本人は気付かない。

成功したときに分析するだろうか。まずやらない。失敗したときにやるだろうか。まずやらない。それらは自分のことだからだ。本来、一番大事にしなければならないのだが、できない。だから仕事で第三者の目でみていくことが重要になる。そこにコンサルタントの仕事がある。なぜ、そんな仕事があるのか。子ども心に不思議に思った。そんなことは自分でやればいいではないか。どうして他の人に頼むのだろうか。理解できない世界だった。

今、技術者の世界では、倫理がとても大切になっている。どうすればいいのか。そんなことは当然正義の味方になることだし、簡単に判断できると考えているのだが、時に大きな間違いを犯す。人はエラーを必ず犯す。間違う。悪い方を選択したりする。なぜ、誤解・かん違いなどのヒューマンエラーだ。大きなけがもそういうことが原因だ。事故も同じだ。起こらないという自信はいいのだが、実はちがう。ほとんど間違わないのだが、ときどきヒトは間違うのだ。どんなヒトでも同じだ。リスクマネジメントは特定のヒトを対象にはしない。標準的なヒトで考える。手差し運転。これもどうして必要なのかという子供心の疑問の一つだった。警察に監視の警察官がいる。これも理解できないことの一つだった。軍隊に監視の兵隊がいる。ミリタリーポリスだ。MPという存在も同じだった。企業にも政府にも監査部門がある。なぜ。それは必要だからだ。ニーズがあるのだ。そうしないと正常に稼働しないのだ。社会も同じだ。ひとりひとりが同じ人間として同じ能力をもっているのだが、どうも違うのだ。どうしてだろうか。

人生では、成功因子と阻害因子がどこかでいろいろと作用する。そのかかわりの内容は個々に違う。ちがうアウトプットになっていく。そこからでる少し長期的な成果も異なる。プラスやマイナスは程度の差だが、そんな標準的なところから個々にはずれてくる。

心と身体で、健康面で同じようなことが出る。体験してそこでどんなことができるのか、できないのか。私は少しでもできればそれは同じ土俵の話だと思うのだが、中にはなかなか土俵にも、リングにも上れない個々のケースがある。どんなケースでも必ずこの世の中には類似するものがある。それだけということはない。いいことでもそうでないことでも、必ずだれかが既にやっていたりする。そして同じ境遇の人たちがいる。競争しているときにはライバルである。競い合いではない場合には仲間である。同じ問題や課題を抱えている仲間だ。そう考えるとこの世の中には仲間が大勢いることになる。

成功因子や疎外因子を分析したら、あまり特異なことではない。何か簡単にどんなことでもできそうな気がする。そこで問題は、個々で希望が違うことだろう。意志がなければ意味もない。どんな因子でも意味がなくなる。それでも、個々にはそれぞれいいところがあると私は信じている。

親としてできることは、見守ることだけかもしれない。いや、いつでも見守っている。それがヒトの親としての勤めだと私は両親に教わった。子どもは親の宝ものである。どんな時でもどういう状態でも心が触れ合っている。阻害と成功は同じものだ。どちらもなかなか気付かない私たちの社会の振り子のようなものだ。同じ物差しなのだ。

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考え方というアクセサリー

ブログを書くのはなんのため。そんなことを考えたこともなかった。

私は文章を手書きでずっと書いてきた。朝の10分から20分ぐらいを充てていた。出勤前の忙しい時間なのだが、その5分がとてもいいのだ。それでどれだけ書けるかを競う。手書きだから、漢字の誤りやうすら覚えのものもある。その点、パソコンは変換を注意すればいいのでらくだ。でも頭の中は同じプロセスが要求されるようだ。

ブログは何か考え方を整理するとか、自分の主張をそこに表現したいときにかなり重要になると私は考えている。それは、急に言われてもできないことである。手書きであろうが、この自分の頭の中にそういう構想がなければ書けないのだ。ブログに対する心構えというよりも、自己主張のための練習という位置づけだ。そこに何も求めないし、ひとつひとつを丁寧にやっているという感じなのだが、わかってもらえるだろうか。

考え方というスタイル。スタイルオブウェイオブティンキング(SWOT)とでも言おうか。そういうものをひとつの表現手段としてもちたい。そう私は考えている。それは人生における自分のブランドとかそこまでいかなくとも、腕時計や指輪、服装などと同じようなアクセサリーのようなものだ。

考え方というアクセサリーの開発もある。今は借り物だ。それらは、ハーバード流交渉術だったり、マインドマップだったり、フォトリーディングだったりする。そういうものを身につけて自分のものにするには、やはり時間と経験が必要だ。ブログは私にとってそういう試練の場でありとても大切なものだ。

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動かない日本の政治

何も動かない。意地の張り合いだろう。それとも相手をぶち負かすための前哨戦なのだろうか。だれのための政治なのだろうか。日本国民はそこにはいないようなものだ。政治家が自分たちのためにやっているだけではないのか。

国民不在といえば、政治家本人も国民だというのだろうか。二つでこういう状況なのだから、これが三つ巴になったら、何も動けない国になるのではないか。交通事故が多発し、航空機事故も増加し、海難事故も増え続ける。それらはすべて人災という区分になってくるのではないか。他人を傷つける殺傷事件ももう減る様子はない。日本はどこへいってしまったのか。日本人というカテゴリーは辞書からなくなってしまったようだ。

そんなに脆いものだったのか。そんな片鱗はみじんも見せなかった時代もあったのだ。社会が混乱し、戦争に突入する前は混乱するだろう。混乱に乗じて何か偏った意見が幅を利かせるようになる。

もっと効率的に動かそう。日本の政治は海外を支援することでかろうじてその存在意義を保っているのではないか。自分で評価できないようなか細いものでは、そのうち本当に被援助国になることを考えなければならないだろう。

力強い政治家育成について、海外から支援を受けるにはまだまだ力不足のようだ。そんなんでいいのか。

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宇宙

宇宙にいくと考え方が変わるという。どうしてなのだろうか。たぶん、滅多にない経験をするからだろう。でも実際にロケットに身を委ねていって、安全に帰還するのは確率的には小さいはずだ。リスクという点では確実な死と向かい合っているのだから、稀有な体験にちがいない。

そこで心が変化するのだろうか。身体に大きな変化がないとすれば、宇宙飛行士の周囲が変わるのだろう。周囲の見方が変わることによって、本人が変わる。そういう図式のようだ。何かをつかむこともあるだろう。悟りというものを獲得するのが容易になるのかもしれない。

あまりに現実とかけ離れた体験をすると、そこにギャップが生まれ、その後の生活に支障をきたすことはよく言われている。宇宙に日常的に行くようになったら、そんなことはなくなるだろう。大昔の人が電車や車に乗るようなものかもしれない。しかし、どんな乗り物でも、乗っている空間があり、そこにすべてを託す必要があるのは同じだろう。

宇宙だからといって特別なことはないと私は思うのだが、間違っているだろうか。行ったことがないのでわからない。でも実際に行けばやはり変わるような気がする。

日本の宇宙空間における研究空間は希望という名前が付けられている。これからいろんな人たちがそこにいくのだろう。何年か前の南極観測隊のようなものだろうか。もっとリスクは高いだろうか、どっちも命に大きなダメージを与えることでは、同じだろう。昔はそれが船だったりしたのだ。

未知の空間へ行くということの方が、不安な気持ちを抑えて、より大きな意味をもっているのだろう。危険を顧みないという表現とはちょっと違うが、時に私たちの心はそういう常識を覆すようだ。

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観賞魚の飼育

全滅してしまった。やはり飼育方法が甘かった。とてもやりきれない気持ちになった。どんな小さな生き物でも命は大事なものだ。そう思ってはいたが、大丈夫だろう・・・としか考えていなかった。それがいけない。

水が大事なのだ。1週間に1回かえるぐらいの頻度で進めるべきだった。白点病と尾腐れ病が大きなものだと説明書にあった。全滅だった。

・・・・・・・、・・・・・・・。

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金魚の飼い方

むずかしい。金魚が一番やさしいと思って飼い始めたのだが、やはり難しい。餌を食べれないことに気付かなかった。大きさが違うのだ。小さな奴は餌を食べていなかったのだ。食べれなかったようだ。なんと気の利かない飼い主だ。

水の濁りもある。フィルターを変えなければいけない。でもはじめは何もわからない。本だけではわからないことが多い。生き物の飼育は本当に大切なことを教えてくれる。

海水魚を飼えるようになるまで・・・、どのぐらいかかるだろうか。気が遠くなるような・・・。遠い道のりだ。でも、金魚をまず最後までやってみることにする。

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ウィルストラブル

パソコン。トラブルがいやなら、パソコンはできない。動かなくなって、何もなくなって、データを失って絶望して、それでも投げ出さない。データはまたつくればいい。安全だけを考えていたら何もできない。

こんな便利なものをどうして有効に使わないのか。使えなくなるのか。何度でもいいじゃないか。やり直せばいいじゃないか。もともと何にも残らないし、無から作ったものだから、なくなってもなんともない。またつくればいいのだ。何度でもやりなおせばいいのだ。ちゃんとできるまでは練習だと思えばいい。あまり、完全にやろうとするとどこかで洩れるものだ。

もっと穴ぼこの多いセキュリティでいいではないか。いつかきっと底力のあるシステムができるはずだ。あきらめなければきっとできる。こんな思いは二度といやだが、またあるだろう。そういうことが起きた時にどうするかではなく、必ずおきるのだ。そういう体制でやるのだ。万全でなく穴だらけのものでいいのだが、そういう柔軟な幅広い考え方がだいじなのだ。

ウィルスは必ずやってくる。土地が変わるとリスクも大きくなる。そんなこと当たり前だ。防御なしで無法地帯に入るようなものだ。そこにいくら防御してもだめだということを先に知ったほうがいい。防御する使い方ではなく、そうしない使い方をすることが大事だ。

トラブルはいつも起こるのだということを忘れてはいけない。忘れた頃にひょっとしたところから出てくる。そんなものだと思うことだ。

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おいしさ

たべものがないと生きられない。食べ物が足りるとさらに味を追求するようになる。おいしいものでなくては我慢できないようになるのだ。

おいしさとは何だろうか。味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚、そして雰囲気ということだろうか。そういうものが総合的にかみ合っておいしいという概念を作り上げているのだ。新鮮さはおいしさの一つの条件のようだ。中には発酵する食材もあるから、食べ時という意味での新鮮さだろう。

さいきんおいしいものを食べていない。あまり魅力を感じないのだ。単純なもの、自然のままのものが何か受け入れやすくなった気がする。手をかけてごてごてしたものは、それはそれでいいのだが・・・、と言葉を濁すしかない。

ほんとうにおいしいものは心の片隅にいつもあるものではないだろうか。四季折々の果物なんていいと私は思う。木の上から離れないで食い続けていた柿はその一つだし、リンゴも同じだ。いちごはあまりなかったが、紅く色づくのを待てないで口にいれて怒られたりしたものだ。家の裏のぐみもいい。野イチゴもいい。野草も食べられるものがある。学校の帰り道に塩をつけて食べたのを覚えている。

おいしさを求める人生もあるらしい。究極のおいしさを題材にした漫画があった。素材と料理人の腕と、食べる人の感性がその内容だった。食べ物の使命は飢えをしのぐことにあるなら、おいしさもそういうときに最高潮になるように思うがどうだろうか・・・。

もちろんひとによって変化するものだというのはわかるが、いただきますといって感謝の念を表すことを忘れなければ、おいしさもついてくるような気がする。

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ヒトの文化

ヒトがこの世の中でやり遂げたこと。祭りを作ったことではないだろうか。あんなに心の騒ぐときは今までなかった。村祭りは楽しみの一つだった。

ふるさととまつりは同じような感慨をくれる。それがヒトの文化だからではないか。戦いも一つの文化かもしれないが、それは破壊の文化であり、この社会がいつも堕落したときに襲いかかってくるものだ。

そして復興し、繁栄し、堕落していく、・・・。この繰り返しがある。どこかで何かがこのルーチンを止める必要があるだろう。そして、たぶん、この世界でそれが可能になったときには、新たな外部世界が出現して、繰り返すのではないだろうか。それとも、永遠に自滅への道をたどるだけなのだろうか。

ヒトの文化をもう一度、みなおしていくことが大事ではないか。宇宙へと活動域を広げていけば、環境汚染も拡大する。そういう新たな敵がたくさん待ち構えていると今は理解できる。宇宙へのフットプリントがその汚染マップになり、地球へと跳ね返ってくるのではないか。そういうときに私たちの知っているヒト文化はどんな価値を残しているのだろうか。

いつまでも残るのは、闘争心と競争心だけではないか。本能だけのヒト文化なら、そうだと私は思う。でも何か荘厳な文明をヒトは築いてきているのではないかと、かすかな望みをいつも私は持っている・・・。それでも、何かと闘うことは祭りの心と通じているような気がする。

これはいいことか悪いことかよくわからない。答えがありそうでみつからないことの一つにちがいない。だれか教えてくれないだろうか・・・。

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読書

文字を理解するのはへたくそだった。子どものころから、あんな分厚いものを飽きないで読めるのだろうかとしょっちゅう考えていた。たぶん子供心の言い訳のようなものだと、今は思う。

なぜ本を読むのか。もし文字がなければ、すべて口頭で受け継ぐことになる。それでは、受け渡す側も受け取る側も大変だ。本には必要なことが格納できて保管できる。必要なことを知るには読書が一番効率的だと今は思う。でも子供のころの先入観があり、なかなか思うようにはならない。読むことをもしあきらめたら、考え方もそこで止まるのではないだろうか。新たなことを吸収するには貪欲さが必要だ。それは、何か目標があってのことだろう。つい何もできないで時間が経過してしまう。そんな日常だ。

一人で仕事をする。大勢で仕事をする。どちらも一長一短がある。みんなでやることの良さは気がまぎれることであり、波に乗ることで、ついそのスピードで満足してしまうことが短所であろうか。一人の場合は物差しがないので、なかなか面白いし、気分次第で現実とはかい離してしまうのが短所だろうか。

本を読む。そうは言ったが、紙上の活字を読むのか、ネット上の情報を仕入れるのかで結構スタイルは変わってくる。要はあまりこだわらないことではないだろうか。実をとるということだろう。そして、そんなスタイルは読書として定着する。大切なことはいかに新たな情報を加入させて発信していくかである。私があまり読書を好まなかったのは、それが原動力になることを知らなかったからでもある。

読書はごはんだ。この社会を維持し、改善していくためのエネルギー源なのだ。今一度読書について考えてみることが大事だと感じる。

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景色

おとといの朝は日本晴れだった。富士山が大きくくっきりと見えた。眼下には駿河湾があり、山々は近くの山とその後ろの雪渓の残る山脈がある。

景色はいい時だけではない。見えないときはあそこにあるという形で景色を思い出す。今日は見えない。そんなときは見えるモノをみるいい機会だ。山岳道路にはいろいろな形跡がある。カーブには車のタイヤの破片が残っている。擦り切れるような運転をしている車が多いのだ。この山岳道路はバイク、車、自転車、ジョギング、ランナー、ウォーキングなどでにぎわっている。結構、危ない道だと認識している。だから、景色とともに、通行する車の音で判断する。ブォー・・・・、・・・。そんなエンジン音が聞こえれば、止まって様子をみる。

景色にはいろんな見方がある。毎日みていると、同じひとに会うのも楽しい。挨拶だけだが、とても懐かしい気がする。景色をみることを忘れた日本人は、どうも挨拶も忘れたようだ。外国から働きに来ている人達が大勢いる。そんな彼らの方が日本人らしい。今の日本は外国からくる人たちなしでは社会を維持できないのではないか。ほぼ単一の民族が、いろいろな民族の人たちと生活の場を共有していかなければならない。そうしないとこの日本の社会が保持できなくなっている。かなり重症ではないか。たしかに喧嘩は減ったようだが、犯罪は増えている。何か欧米化という表現ではあらわせない状況が出てきている。

みんなが自信を喪失しているのではないか。義務も責務も忘れている。もちろん義侠心などもない。葉隠れの精神ももうない。ひととは何か・・・、もののふとは何か・・・、・・・。決して死ぬことがヒトの道ではないだろうが、日本人の生きる道は、単にグローバル化していけばいいのだろうか。

日本の美しい景色を時々は、眺めてみよう。そこにはこの私たちの社会とは関係なく、大きな自然が幾重にも積み重なっている。この自然が残っていれば、ひとつの社会が滅びても、新たな社会がそこに栄える可能性もある。

ヒトの能力を客観的に見るとき、喜怒哀楽とか、社会慣習とかの生き方を含めてエネルギーを感じるのは、途上国の人たちである。貧しさをものともせず、病気をものともせずにその場で懸命に生きている。そこに子供たちの歓声が聞こえる社会がある。日本の社会は、どこか頼りない気がする。子どもの頃は、わからなかった。貧しさというものが何なのかわからなかった。でも大自然の中でせいせいとして動き回っていた。どこに問題があるのか。すべての階層でざわざわしている。こんな社会ではなかったはずだ。心に刻まれたこの日本の景色を残すには、今、この日本に生きている私たちが懸命になって、この社会の良さを認識して、元気を出していかなければならない。そのためには、いいものはいい、悪いことは悪いという当たり前のことを実践していくことではないだろうか。

受け答えは下手だが大地に両足をしっかりと張ったヒトたちが大勢いる社会。言い訳のいらない社会。そんな社会が、日々の私たちの生き方を教えてくれるのではないか。生きている以上は、ヒトとして社会人としての責務がそこにある。要領のいい生き方だけでは、そういう社会はできない。

日本の景色をみていると、いろいろなことが自然に心の中に浮かんでくる。それだけ、私たち日本人はこの土地の景色と四季が大好きな証拠ではないか。この景色を大事にしよう。

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うぐいす

うぐいす。この鳥は日本では有名なトリである。だれもが知っている。ホーホケキョと鳴く。モノマネのうまい芸人がいてまねする。素人でもまねできる。そんなところが気に入っている。

ホーホケキョ。ホーホテチョ。ホケチョ、・・・。

幼いトリは鳴き方も下手だというのがわかる。近くの丘への旧道があり、新道があり、畑道もある。都会で仕事をしていた時には自然のトリの鳴き声なんて興味もなかった。でも、やはり自然環境が変化していることに気づいてきたのは身の回りの状況がちがうということが、私たち個々のヒトにとって大切なことである。遠くのことは関係ないのではないが、実際に分からない。だから、身近に起こる出来事は一人一人にとってとても大事なことだ。

うぐいすはペットだった。かごのトリはうぐいすでなければならない。そして鳴き声を競わせる。いい鳴き声のウグイスは高く取引される。

いまもいるのだろうか。ペットのうぐいすが・・・。

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こころのちから

こころが身体をコントロールしているのか。それとも身体がこころを左右しているのか。ともに生きているというのが正しいと私は思う。

体が動かない。調子が悪い。頭が痛い。

そんなときはだれにでもある。それが程度を悪くすると本当に病気になる。もう自分で制御できる範囲ではない。専門医にかかる。今はそれで大抵は楽になるし、その先行きもわかる。大したことのない病気か、それともガン性のものかが大きな問題だ。そうなったらどうするという設定の論評が多いと思ったのはもう十年以上前であるか、もっと前だろうか。健康にかかわる番組の司会者が検査を受けてそれを題材にしているものだった。本当に病気が発見されてしまった。これはいいのか悪いのか。いいというように前向きに考えるべきだ。もちろんだ。

この世の中は、自分で体験しているかぎり、それは新たなものである。すべて自分で経験できることはこの今という時間と自分の心と身体である。だからどんなことでも受け入れることができるし、それが自然なことだと私は思う。そこに人としての考え方がある。何をいっても生き物は親の影響を受けている。受け継いでいるというのが正しいだろう。良くても悪くてもそれが自然の成り行きであることに変わりはない。

こころのちからはたしかにある。それが私たちの日々の原動力に違いない。日々の営みが私たちに生きられるという自信を与えて、大きな輪になっているのが、つまり、この社会ということではないだろうか。

こころの力を認めていけば、いろいろなことに気づく。たとえば、こころの力があまり強くない人もいるのだから、そんなときどうするのか。そんな視点もある。

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さくら咲く

これが合格の電報による知らせだ。それが一番早かったのだ。今のように直接みにいくなんて贅沢なことだった。遠くで審判の下るのをじっと待つしかない。そういう時代があったのだ。

今はなんでもインターネットでできる。そしてユビキタスの時代に向かっている。必要なときに連絡をいろんな方法で受ける。今年の桜はどうなのだろうか。みんなのさくらは咲いたのだろうか。ほとんどの桜は咲いてもらわなければ、この世は闇になってしまう。春にさくらということを聞くだけで私は心が明るくなるし、温かな感じになることができる。

一年に一回だけだが、毎年ある。毎年とても勇気をもらう。どこにいてもさくらが咲くとなつかしいひとを思い出す。ずいぶんと会いにいっていない。さくらがさくようになったら、一度いってみたいものだ。

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すききらい

好きなものだけを食べている人は健康を損なうだろうか。必要な栄養素は、不足すると身体が要求するという。甘いものを長い間禁じていると思考力が劣る。そんなことを信じていなかったのだが、何かとても気になる傾向を感じたことがある。

ほんとうだった。糖尿病になると脅かされて甘い糖分を摂らないようにしている人は多い。年配になるとそうならざるをえない。でも、一病息災ともいう。健康のためには、きらいなものを食べなさいという教育を子供にする必要があるだろうか。うまれつき嫌いな食べ物はある。私はとくに好き嫌いが多い。日本人ならそんなはずはないというものもその中にある。理由はわからない。生まれて気がついたらそうなっていたということだ。

お酒が嫌いだという人も多い。でも日本人は、ほとんどが酒好きだ。人生はそれがなければ価値がないという人もいる。宗教とか伝統文化で大きく違う。もうひとつ体質的なものがある。ある酵素がない。分解できない。気分が悪い・・・。そして生命に危害を与えることもある。だから、食べ物というのは本当に大きな力を持っている。人生では食べ物を獲得するのが仕事だと私は納得している。決してお金ではないと思う。食べるために、働く。食べ物を社会に供給するために働いているのだと思う。

生命を維持するためのたべものには、私の場合は、該当するものはない。だから生きているのだが・・・。そういう中でも質素な食生活が一番いい。そういう伝統が一番大切なのではないか。

もっとも、プロのスポーツ選手やとくに専門の能力に必要とされる体力がいるのなら、それはそのニーズに応じて努力するのは当然だ。その任務が終了したらまた元に戻そう。健康を考えるとそうなのだ。

プロのフットボーラになるために、学校で早飯をさせたという母親がいたという。相撲とりは普通の少し大きいというぐらいの子供が、食事の指導管理で3倍ぐらいになる。それは筋肉と脂肪の芸術のようなものであり、伝統的な精神修養の面も合わせて受け継いでいるのだと思う。しこを踏むと日本人だと感じる。大地に足の裏をぴったりとつけて勝負をする。単純だが複雑で崇高なメカニズムがある。バランスの方程式だけではない。パワーの強弱もある。ナノテクノロジーの世界で肉体をコントロールしているようなものではないか。すごくデリケートなんだ・・・。

私は、目的にあった食べ物の摂取を心掛けたいと思っている。だから、私の好き嫌いはこの意味で特に問題はない。そして、子供たちはだれも私の好き嫌いとは関係なく暮らしているようだ。食べ物はもちろん、ペットも同じようだ・・・。

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ほがらかなひと

いつも笑顔の人がいる。そして彼らは底抜けに明るい。みんなが認めている。本人もはっきりと意識しているようだ。とてもうらやましい。

私の性格は山と谷あって変化が激しい。自分の心は己が一番よくしっているから、これは本当である。もちろん、いつも明るい彼らにも大きな心配事はあるのを知っている。でもそれは、私にはわからない。私が、落ち込んでいるときには、彼らの単なる明るさは大敵である。さらに対比が激しくなるので、精神的にまいる。でもすごく気を使うのを知っている。そんなことで悟られてしまったら、とても悲しくなる。だから、自然にふるまうそぶりをする。でもわかるらしい。それ以上は役者ではないので、できない。・・・。

ほがらかな人は、でも大好きだ。本当にそういう人は、他人に好かれる。そしてとてもナイーブであることが多い。

ほがらかな人は女の人に多いようだ。そんなひとはとてもはなやかに見える。でもそういう恵まれた美貌を補うための賢さをもっているようだ。

ほがらかなひとはかしこい。

東北弁でいうと「けげしいこ」という。わたしはそういうけげしこの一人と一緒になったようだ。それは私のたった一つの条件だったから・・・。

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なやみ

いくつになっても変わらない。いつも何かに悩んでいる。それは一つができると、次にやりたいことがわいてくるのだ、降ってくるといってもいい。とにかくそんなんだ。

だからなやみは尽きない。でももうあまり真剣には悩まなくなったような気がする。でも悩んでいる。からっぽにはならないようだ。

ただ、どんな深い悩みの井戸に陥ったとしても、きっと出れると楽観している。そんなところが変化したのだろうか。その心底には出られなくてもいいやという想いといや必ずでれるという葛藤があるのは昔も今も同じだ。

不老不死ではない。ヒトに与えられたものは上限のある生命であるから、そこで終わらざるを得ない。何があろうとも、そこで・・・。

ヒトはそこからまたスタートするという考えもある。そう考えると、やはり悩みは尽きないようだ・・・。

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体脂肪率

スポーツ選手は体脂肪率がひとけた代だという。プロの選手はそういう中でも抜群の数値らしい。プロとは何か。専門性を活かしたスポーツ選手であろう。有名人という範疇にはいるのはわかる。

たとえばプロの選手である年齢をすぎても頑張っているひとは、もちろんがんばれる人たちであり優秀な運動能力を備えた上でさらに努力を実らせて人だと思う。でも何か身体能力を数値化しているところで、もし10代の若者と張り合っているなら、ときどきは人相をみて確認してほしい。

あんな柔和な顔の青年が、なにか当時有名になった彼の父親と比べるとすごく貧相になっているのに気づいたのは私だけだろうか。子どもたちの英雄でもあろうし、世間の私を含めたフアンの人の気持ちを代弁してくれているような性格だと、みんな信じている。でも何か最近の形相はとてもそういうイメージを感じさせない。どうしてだろうか。

体脂肪率などの数値で表す身体能力に若さという尺度が過剰に反応しているのではないか。つまり身体に無理させているのではないか。そうなら、食育のコマーシャルにでているのだから、もっと柔和な彼本来の良さを出すように製作者は配慮すべきだ。あれでは、私は納得できない。

数値でない彼の顔は身体能力も含めて、常にあいまいな評価でも最優秀であるに違いない。あまり、数値にこだわるのは、もしそうなら・・・・、やめよう。子どもたちに本当の彼の笑顔で語りかけてほしい。

それを私は待っている・・・。お寺の鐘が「ゴーン・・・・、・・・・」と聞こえるのだが、みんなはどう思っているのだろう。笑顔がいいよな。もちろん。

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赤い帽子と白い帽子

はい、こんどはまあくん。次、おどってください。歌に合わせて子供たちがおどるのは、きわめていい教育方法だ。

あかいぼうし♪、しろいぼうし♪、なかよしさん♪・・・♪。

わたしはいそいそと前にでた。ぎこちない。はい、かわってね・・・。どうも落選したようだ。ちがう子が指名されて上手におどっている。まあいいか・・・。あの子の方がうまいから・・・。

これは学芸会の練習だった。かなり小さい頃なのだが、私は時々思い出す。よく考えてみると、その当時のことが懐かしいからだろうか・・・。学校の在り方というのは、ずいぶんと変わってきたようだ。子どもは暗くなっても遊びほろけて帰ってこないというのが、そのころの常識だった。みんな時間を忘れて遊んでいた。ビー玉。縄跳び。ソフトボール。でもグローブなんてない。バットとボールだけだ。走り高跳びなんていうのもあった。

私は木の実で羽子板の羽のような先端に玉のついたのが気に入っていた。くるくると回りながら落ちてくる。それを拾って放り投げる。同じようにくるくる回る。

もっとエンターテイメントに目覚めていたら、どうなっていただろうか。そのころは仕事に対してもっと具体的なものしか考えていなかった。頭を使うとかいうのは、体を使って汗を流すのが嫌だと考えるずるい奴らのすることだ・・・と、そんなことを思っていたようだ。相撲、プロレス、ボクシング、みんな立派だ。体を張っているから、えらい。そう思っていた。

弁護士って何をする人か、私は中学高学年まで知らなかった。話をする人か、つまり弁士だと思っていたようだ。だから、目指すなんていうことにはならない。NHK交響楽団のフルート奏者が一度、中学に来た。みんなでその演奏を聴いた。むずかしそう、かしこそう、やれなさそう。そんな感想だった。あこがれるものには、必ず困難さが先に出てくる。どうしてもやりたいということではない。

こどもの心にどう向かい合うのか。このことを考えると、こどもってもっといろいろなことを想っているというのを忘れていた気がする。もっとチャレンジ精神が旺盛で、私も音楽とか運動は卓越していなかったが、マンガを読むのは好きだった。とてつもなく好きだった。でもやっぱり困難さが先に来てしまう。描くのは下手だったからだ。

すべて否定的なことが先にくる。こどもってもっともっと野心的なのではないか。そういうことを忘れている気がする。こどもとおとなという対立の構図でものごとを見ていた気がするのだが、ほとんど忘れている・・・。大人になったら、ひととして成長するということは信じていた。なんでもできるようになる。それが大人だから・・・。早く大人になりたい。そう思ったことがある。

今、立派な大人になっている。年齢は・・・、といった方がいいのだろうか。いや、普通の大人なのだ。どこにでもいる大人になっている。そう言えるのは幸せだと思う。ヒトは当たり前が一番いいと思う。そして、大人になって気付いたことが一つだけある。

やりたいことがいっぱいある。でもひとつずつしかできない。いくら時間があってもできないだろう。ほんとうにやりたいこと、私にできること。この条件を満たすものでなければやれない。そう考えると、自分だけでやろうとしても困難さがつぎからつぎへと出てくるだけなので、できる人たちと一緒にやることを思い出した。

あかいぼうし♪しろいぼうし♪なかよしさん♪・・・・。

何か今も昔もあまり変わっていないような気がする。今、私がやりたいことはなんだろうか。仲間と一緒に遊ぶことではないか。その中に仕事というものも入っている。遊びはほんとうに真剣にならなければ楽しくない。中途半端では面白くない。まだまだ仕事のおもしろさから解放されていないようだ・・・。

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おねがい

祈るような気持ちになったことが何度もある。そして祈ったことがある。でも祈りはほとんど通じない。なぜ・・・。それは、自分の努力をないがしろにしたときだけ、お願いするからだろう。

この世の中はほとんど偶然の賜物のように思うことがある。努力は報われないものだと私は思う。だからねがいごとをする。

神様、仏様にお願いする。先祖様に祈願する。でもこの祈る気持ちは私たちが手を合わせるという形に何かあらわれているようだ。とがっている形は昔から祈りの形を表しているようだ。一寸法師の鬼退治か・・・。でも対象を悪く見ては祈願はできない。何か崇高なものに願いを届けるために先端をとぎすますという行為だろうか。

願をかける。すなわち目標をつくることだ。何をしたいのかをはっきりさせることだ。お願いすることで、自分の考えを定めるのだ。課題を克服するには、その対象をしっかりと認識する必要がある。

ひとつのプロジェクトだ。決められたコストと時間であることを達成するのだ。お願いするというのはそういうことなのだ。

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