うごき
この地球には海流がある。極地は氷山があり、低温である。海流が氷山で温度が低下する。その流れが深いところへともぐる。海の中に表層と深い層で別の流れがある。
グリーンランド沖で沈みこみ、逆流してインド洋へまわり、太平洋へと分岐するという。そこでまた潜航するという。
だから地球の3点でこれらのうごきを研究観測することで地球の気候のうごきもわかるという。
こういう大きな動きもかなり繊細なものだと感じてしまう。
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この地球には海流がある。極地は氷山があり、低温である。海流が氷山で温度が低下する。その流れが深いところへともぐる。海の中に表層と深い層で別の流れがある。
グリーンランド沖で沈みこみ、逆流してインド洋へまわり、太平洋へと分岐するという。そこでまた潜航するという。
だから地球の3点でこれらのうごきを研究観測することで地球の気候のうごきもわかるという。
こういう大きな動きもかなり繊細なものだと感じてしまう。
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田舎の子は上がりやすい。人前に立つと上がりきってしまう。そんなことがあたかも本当のように言われたことがある。個人差はあっても、育ったところとは関係ないと私は考えている。なぜか。それは、状況次第だからである。
思っていることはすぐに反応できる。これは都会も田舎もない。思っていないことにはどう対応するか。新たなことに対する反応は興味の有無に左右されると私は思う。だから、好奇心の旺盛な子供はあまり上がらない。そして、そういう状況に自分を追い込んでいけばいわゆる地に足のついて行動ができると私は思う。
緊張するのは悪いことではない。緊張することに対して何か罪悪感を抱く必要もない。緊張するのはそれだけ集中しているからだ。日本一の漁業者になるにはどうするか。それだけの興味を持てるかどうかだけではないだろうか。だれもがなりたい日本一である。ちょっとしたことなら目をつむることも必要だが、果てしない好奇心を閉じ込めることはできない。そんなときに緊張する。私はそんなとき、誰にも負けないだけ緊張しろと自分に命令する。そして従う。もう極度に緊張しているかと思いきやそんなことはない。
ゆったりしていることが多い。ああ、それが緊張していることかもしれない。つまり、他人を装っているのか。それならすぐにばれてしまうだろう。それでは、次に緊張してしまう。
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北京オリンピック。その聖火が世界を駆け巡る。
そして抗議の餌食にされた。
そして抗議への対抗が組織された。
何か、世界のものではなく、開催国のオリンピックになっている。
それでは、とてもわびしい気がする。平和の祭典とも言われるのに、何か暗いイメージが付きまとうこの頃だ。どうしてそうなったのか。だれも悪いものはいないというような状況がある。だから問題がねじ曲がっている。中国政府はダライラマは犯罪者だという。チベットは中国を侵略者だという。現実には、中国が支配している。亡命政府がインドにある。
売国奴。そう言われるのではないか。もし中国の庇護のもとにチベットが屈したら、リーダは間違いなくそう言われるだろう。悪いやつらが画策している。暗躍している。オリンピックなんて金の生る木を放してなるものかと歯をくいしばって頑張ったのではないか。
聖火は、誰にも感謝されないで人々を翻弄してしまった。次回はなくなるのではないか。賛否を問われたら、それでいいじゃないかと答えよう。もう時代は終わった。
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顔ニューロンというものがあるらしい。それがないと、ヒトの顔を区別し認識できないのだという。
そんなことありえないと私は思った。そして、それは数は少ないが、実際にあるとテレビで放映していた。ノンフィクションである。検証はできないが、公共電波で流しているのだから、本当なのだろう。
ニューロンは神経上で情報の受け渡しをするものだ。いろんなニューロンがあるらしい。特定の脳部位に格納されている情報や判断するためのシステムがある。形はわかるから、顔のパーツで見分けることはできるのだという。文字から情報を受取るにも同様のニューロンがあるだろう。もし、その作用がうまく働かないとしたら、不便極まりないだろう。
神経系統の良し悪しは、総合的なパフォーマンスに影響するだろう。間髪をいれずに反応するというのも、神経伝達の差である。運動神経の良し悪しはかなり敏感にわかる。そういうものが全体の差になる。心の動きを察するのは決して空気を読むのではなく、ニューロンの働きの差ではないか。
そうなら、まだだれにも可能性はある。スーパーマンへの変身へのチャンスはみんなにある。普通の人がすべて超人なら、それは普通でしかない。記録は飛躍的に伸びてもそこでの競合はいつまでも続くことになる。
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あなたの趣味はなんですか。そういう問いは常にある。そのたびに思うのは、おれの趣味ってなんだろうかということである。自問自答しないと出てこない。
そういう答えがどう利用されるかというと、趣味と性格とか、趣味と血液型など・・・、いろいろな推測に使われるようだ。たしかに何の情報もないよりは、それだけでもあった方がわかりやすそうではある。
本当に好きなことが趣味ではないのか。仕事が趣味だと誰も言わないが、あんなに長い時間できるのは好きだからだろう。そうでなければできない。もちろん生活のためという理由はある。家族のためというのも同じだ。趣味はそれ自体が自分のためになっていることなら、つまり好きなことなら、それが仕事であろうが遊びであろうが、趣味と認めていいのではないか。
やりたいことがつまりは好きなことではないか。やりたいことがありすぎて困る。この世の限られた時間ではやりきれないほどある。とすると何かはかない気がする。できないほどいっぱいある。どれかをあきらめなければいけない。取捨選択の余裕というよりも、何を優先してやりたいかという順番もある。
ほんとうに好きなことは後に残しておきたいという気持ちもある。楽しみにとっておくというのは多くの人が考える。でも、それは決まり切ったものではない。一番好きだと思っていたことが終われば、さらにそこから見えるものが違うようになるらしい。だから、あまり気にする必要はない。
今、大事だと思う気持ちがすべてに勝る。
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わが子をどう育てるのか。一番おおきな親の仕事だ。そして懸命にやろうとしてもなかなか通じないものだ。それでは、どうしたらいいのか。
自分が両親にしてもらったことを私もやろう。そう心に決めて私はやってきた。いろんなケースがあるのだから、大きな方針がそこにないと、うまくいったとか、そうでないとかの評価だけに偏りがちだ。そうではなく、自分のやりたいようにやるのが一番だと両親はいっていた。それでも、遠慮がちにこうしたい、上の学校へいってもっと勉強したいという想いをちぐはぐにしか伝えられなかった。そういう私をじっとみていてくれた。
何かをやりたいと想っても、その想いは通じないことが多い。そんなとき、私の両親は、そういうものだという目でみてくれていたようだ。いろいろと的確なアドバイスを受けたとしてもはっきりと言って自分の身になるかは疑わしい。自分のものになるには、時間をかけて自分のものにするしかない。
子育てとは、個々の生来の能力と性格と想いを見守ってやることだと私は思う。
どうしてそんなことを言えるのか。だれもがいろいろな可能性を秘めていてそれが表に現れてくるには、外に出すための大きなパワーが必要だ。それは己の心と体の中にある力だけなのだ。
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人はそのままでは生きていけない。戦えない。
どんな世の中であろうが、戦うには強さが必要だ。弱いままで戦わせるプロデユーサーはいない。強くして勝てる見込みがついてそれでもまだ負けることがある。それでも目標がしっかりとしていれば問題はあまりない。それは途上段階だけだ。
人は指導者によって変わる。そしてそこに頼ってはいけない。どんな状況でも自立するという気持ちが最後には人を育てるのだ。この世の中はいろんな人を求めている。そこに共通しているのは富士山に登れる人だ。日本の良さを心から認めて、日本人として生きる気持ちのある大人が何人いるかのかで判断されるのだ。とても厳し審査である。
こんな先生がいた。恩師とはなんだろうか。こどもが先生と感じたのはどんな状況なのか。そこに純粋さの象徴である教育というものがある。教育とは食育とはちがうのか。いや同じだ。食べものか教育かの違いである。
恩師とは、いくら想うことが時空を超えるものであっても、それはヒトとしての生活を示してくれるものだと私は考えている。恩師とは何か。なんだろうか。懐かしいものに違いはない。そして、世界を教えてくれようとした人に違いないと私は思う。時々思い出すのはなんだろうか。
八十歳になった。この世の中から離れる。お前たちがやれ。そういう時代なのだと言いたいのだろうか。そうではない。先生は先生として最後まで自分の先生としての務めを果たす必要がある。それはなぜか。それは簡単だ。そういう多感な子どもたちの先生になったことがそれを必然としているのだ。それは楽しいことだ。良くても悪くてもどっちも同じスケールの上にある。それはこの世の中の必要性を意味するのだ。
恩師とは、教えを育む人たちであろう。そこに途上の子供たちがいて、ゆめにあふれているのだ。己をしらない子供たちがいっぱいいる。そこから、何かが発展しているのが見える。それらはすべて恩師の教えたことでしかない。そこに教えを超えたものがあるのか。そんなものは簡単には入手できない。それは、とてもだいじなものだ。先生とはなんだろうか。
子供のころの恩師か。一生の恩師だろうか。それはわからない。でも、そこには現実があったのだ。できないことはできない。やれないことはやれない。逆説的ににはとても肯定的なことだ。
私もいつかいい生徒を持ちたい。ヒトとして・・・。
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今、国際協力がはやっている。
途上国が実は、経済的な側面だけであって、総合的な国力という物差しがもしあれば、先進国に支援をしていることになるのだと私は考えている。
助けることは、実は助けられていることなのだ。
そして、同等であり、平等であり、公平なのだ。商取引のようなものかもしれない。貧困という商品を買う人、そして売る人がいる。双方がいなければ成り立たない。そして問題は、上述の総合力ではないのか。貧しいというだけで支援を受ける。水が高い所から低いところへ流れるのと同じだ。でも水源がなければ流れない。
お互いに違うものを持っていて、交換しているのだ。経済性と人間性とのトレードオフが国際協力の実態だと私は思う。これは、決して悪いことではないし、もっともっと広げていくべき大切なものだ・・・。
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そんな学問があったのか。なぜ「てつがく」というのか。
とても疑問に思っていた。哲という字に興味を抱いたのは、友達の一人が哲に生きるという名前だった。すごい名前を赤ちゃんにつけたのだと本人から聞いた。お母さんの想いがそこに凝縮されているようだ。
どんな想いだったのだろうか。今、私はもし同じような状況になったとしたら、その時の彼のお母さんの気持ちがわかるような気がする。
今朝、やまみちを散歩していて、「元気ですね・・・」と声をかけられた。てっぺんに行った帰りの下りなのでそう見えたのか。たしかにもうこの散歩コースも1年になる。季節の移り変わりと道路の構成もほぼわかるようになっている。そしていいコースだと気に入っている。声をかけられる前に、私は「哲学」って興味がある・・・、何かずっと頭の隅に住みついていたような言葉だと思いながら下ってきた。たしかにそう見えたのかもしれない。気持ちが入っていたのだろうか。気力が大切なのだ。そして、その源が考えることではないか・・・、考えることはつまり哲だ。
そう想った。
古い学問の哲学とはべつにいまの世の中には、ひとつの潮流としての考え方があると私は感じている。それは、テロとかいうものと宗教というもの、そこに政治が入っており、何かバラバラな社会で一体感がない破滅へのプロムナードとでもいうのだろうか。なんでもないこととはいわないが大したことのないことを誇張することで、その破滅のシナリオにまっしぐらに突き進んでいるのではないか。
今も昔も、悪いことをたくらんでいるやつはいっぱいいたはずだ。それが世界の中でどんな位置づけにあるのかわからずにいたのだ。そして今グローバリズムという。自分の力のなさを知らされるとともに、そういうものを下げすさむような考えも同じように誇張されて増殖している。自然界の中で、解き放たれてしまったのだ。みじめな心がテロの温床なのか、憐みへの反感がテロを生んでいるのか。
なぜ・・・。なぜなのか・・・。
今、私たちは疑う気持ちを忘れている。テロとは何か。慈善とは何か。人とは何か。そんなことを考えていると、それは学者のものだけではないと思うようになった。みんながいろいろな疑問に対して自分の考えを持つことが大切だと・・・。
グローバル化、国際化といっても、私たちの心と身体はこんなちっぽけなものだ。そしてその小さな生き物がいろいろなことを考えてきた。「われ思うゆえにわれあり」とは哲学を語る時に思い出すひとつである。そんなものではないと学者はいうだろうか。今の世界の問題を知り、現実を検証し、本当に間違った方向へといっているのだとしたら、それはDNAの定めるものなのかもしれないとは言えないのか。つまりあきらめる。ヒトとして生まれてきて、今、この時代に生きるものと過去に生きたものと、これから生きていくヒト、未来のずっとあとに生きる者などどこに焦点をあてるべきなのだろうか。
大体、時間って何なんだ。そんなことになるのではないか。結局なにも分かっていない。そこでやけになって暴れるのがテロだろうか。いじめだろうか。やぶれかぶれの人生がそういう風潮を増幅しているのだろうか。任侠という言葉がある。ひとの生き方を説いているのだと私は思う。そこに哲学がある。どんな世界にも、だれかがなにかとても大切なものを教訓として投げかけている。それに共鳴する人が現れて広がってきたのだ。宗教って大切な私たち人類の宝ものだ。宝ものがぶつかり合う必要はない。
生物の多様性を重要と思わない人はいない。ということは、私たちが存在するためには多様でなければならない。どんどん追いつめて滅ぼしてわが天下をとるという考え方はもう終わりがずいぶん以前にあったのだ。
それでも世の中は繰り返すという。ヒトのDNAに刻みこまれた破滅へのプロセスなのではないか。そうしたらどうするのか。私たちに残されたものは、考えることである。この能力がなくなったとき、まさに破滅する運命になると私は考えている。
今私たちみんなの「てつがく」について考える時ではないだろうか。
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最近、先生のマスコミへの出番が多くなっている。ついこの間までは弁護士の先生だったのが、今、安心安全という食品問題とともに健康おたくが増えているので、お医者さんの先生たちがターゲットになってきている。
たしかに地域医療の中心となって、ほんとうに後期高齢者医療とか、若年医療とか壮年医療とか、ありとあらゆる年齢層の病気と向き合って、たぶんごはんを食べる暇もなく、一般の国民の健康維持や病気治療に奔走している姿は、とても神々しいと私は常ずね思っている。
病は気からという。医は仁術という。そして医は算術とかも言われているが、それは失礼な言い方だろう。私たち患者は、病気になったらどうしようもない。できることは気を確かに持ち信じきること以外にない。日本の医療制度とか、医師制度とかいうものではなく、目の前にいる先生を信頼することだ。そうしないと治るものも悪化すると私は思う。それは、本当のことだと思う。ヒトの心と身体の関係はすごく密接である。
いいお医者さんはいい看護師さんがついていると私は信じている。つまりチームワークがいいということだ。そして、本来、死とかに直面した職場で心に笑顔をもっている先生が多い。これはほかの職業では見られないものだ。
もっと社会が医療従事者をシスティマティックに支援していかなければならないのではないか。サウンドマインドインサウンドバディが大事だ・・・。
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日本では1日3食を食べるのが普通だ。この間いったアフリカの国では、職場では正式に昼食をとっていなかった。宗教が違うので、お祈りを決まった時間にしている。だから、アポをとらない限り事務所にもいないことが多い。
食事で困るのは、昼食は働く時間内だから、現地に合わせないとうまくいかないことだ。もし昼食中にかれら現地の人たちの間で協議や仕事が終わればそこで機会を失する。したがって、やはり郷に入っては郷に従えということわざを尊重するのが利巧な選択だろう。
確かに気候が違うので、日本人本来の厭味な言い方での生真面目さは身体に良くないし、役に立たない。だから、その土地の風習に合わせるのがいい。治安も同じだ。完全ではないのだから、リスクは大きいのだが、実はあまり過剰に反応すると危険だ。おどおどするのが一番よくない。正々堂々と控え目にしているのがいいだろうと私は思う。
食事では、1日2食であることはいいとしても、アルコール類を飲むことも、宗教上から、悪習とみなされており、ちょっとつらい。悪いドラッグ類とか、それ以上の堕落した悪習とみなされている。もちろん欧州の人たちはビール・ワイン・ウィスキーなしで生活できない人たちが多い。だから、そういうところがある。でも、それはちょっと悲しいスペースではないか。もっと、正々堂々とすべきである。しかし、生活の最重要点が違う。政府の方針が違う。
食べ物は、やはり育った環境によってちがう。そんなとき、自然体としての私たちの身体の要求、欲求は正確だ。1食の量が増えるのは間違いない。それは、生きるための最低の欲求かもしれない。時差と同じように体内なんとかがいっぱいフルに働いて外敵から防御してくれているのだ。
食べなければ死んでしまう。食べることは究極の問題であり、争いのもとともなり、友好の礎にもなる。食習慣は大切な宝物だと私は考えている。
もっと自給率を上げるべきだ・・・。挙げていかなければいけない・・・。そう思う。
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子供番組でブーフーウーという3匹の兄弟こぶたの話があった。そこで性格が違っていて、その差がかれらの住宅の違いになっているというものであった。
今、思い返すと確かにそんな気もする。当たらなくとも遠からずということだ。そして、日本の住宅事情を分かっていなかったのではないかという気もする。とにかく住むところを確保する。それは賃貸であろうが持家であろうが、両親と一緒でない子供は自分で調達するしかない。それで、どうするかといえば経済性重視でしかない。資金が許す範囲でしかできない。性格も何もない。そんな風に私は考えてきた。
最近の住宅建設状況をみると、ずいぶん変化しているようだ。りっぱな住宅が多い。ブーフーウーの性格の違いはまったくそこには影響しないような感じを受ける。それでいいのだが、空間の利用技術が向上したのだろうか。医業の経済性追及は、お客様の居住性に対する要求を抜きにしては語れないところに来たのだろうか。コストパーフォーマンスが顧客のニーズに適合する技術レベルになったのだろうか。
夢のような長い返済期間だと思っていたが、何か30年というのはあっと言う間のように今は感じる。
子どもの頃の感覚が今でもはっきりと蘇るのは、やはり社会全体が戦後で貧しかったからではないか。金の卵といわれた義務教育終了後の子供たち、みんなそういうところでギリギリの決断をして大きくなってきたのだ。戦後の子供たちの数は社会のパワーとなって爆発もした。それは、ほんとうに行き場所のない夢のような破れかぶれの風潮が礼節を重んじる社会の中で反抗したものだった。
機動隊の同年代の青年たちが一日4000円の食事をしているときに、貧乏学生は学生寮の1日150円のごはんをありがたく感謝しながらいただいていた。米どころの生まれの私にとって、外米はまるでゴムのまるめたようなものにしか見えなかった。それにもなれて、先に入っている先輩たちのいじめにも耐えて、浅はかにも同じようなことをしようと考えていたら、そういう古い習慣はもうなくなっていた上級生時代だった。
変化は同世代の子供の数に大きく左右される。大人になっても、群衆の中でうごめいている自分をどうすることもできないそんな存在だった。何かをくいしばって、マケタマ・ヤラタマ(これらは、浅田次郎の小説にある負けてたまるか、やられてためるか・・・という意味だ)と心で叫んでいたような気がする。
それも今はもうない。何かすべての気力を無くしてしまったような気がする。そして、やっと自由になれたという風にも思う。まったく今まで感じたこともない表現のしようのないものだ。そしてそういう開放感とは別にやりたいことが山ほどあることに気づいた。生きるためにある種の戦いをしていた時代とは違うものがある。この社会にはもっともっと大事なものがある。働く世代でもっと多様な心の動きを生かせれば、・・・。そして想った。
今、ブーフーウーの家を自分で作るなら、どんなものにするだろうか。住まいはその人の性格・人格などを反映するなら・・・。そこまでいうと、やはり同じような家を私は建てるだろう。小さくて、壊れてもまたすぐに修理するとか新しく建てなおせるような家だ。
でも、もうひとつ自分の棲めるものがほしい・・・。それも普通のものでいいのだ・・・。
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とにかくちゃらんぽらんなんだからな。
そんなこえがどこかからきこえるようだ。いつもおもいつきでうごいているから・・・。けいかくせいがまったくないから・・・。そんなこえもきこえる。
ときにはいいかんがえもあるのだが、みんなせんにゅうかんがつよすぎるようだ。いつものしせいがだいじなんだな・・・。そんなにちゃらちゃらはしていないのだが、そうみえるのか・・・。
とてもそんなことはないとじぶんではおもっているのだが、やはりどこかにのがれられないやみをもっているようだ。どうしたらいいのだろうか・・・。
まあ、思いつきだが、ぜんぶわすれてしまえばいいんじゃないかな・・・。まあ、そうだな・・・。そうだよな・・・。そうしようか・・・。それがいいよ・・・。
おれたちいつも思いつきだけだな・・・。あまり進歩がないな・・・。進歩するにはどうしたらいいのだろうか。
それは、新たな思いつきを追求することだと私は思うけど、どうだろうか。まあいいアイデアが思いつかないので、それでいいんじゃない・・・。
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ペット飼育のコツはなんだろうか。
対象となる動物そのものが好きでないとやはり難しいのだろうか。
魚の飼育で、一番やさしいと思われるキンギョを1か月前に始めたのだが、2週間で全滅してしまった。その後、水槽を洗い直し、フィルターも取り換えて気持ちを新たにしてやろうとしているのだが、実際にやろうとすると、また同じような結果になるのではないかと不安になる。躊躇している。
もっと責任をもって飼育しなければ、もっと愛情をもって接しなければと思案しているうちに時間がたってしまった。
失敗は成功のもとというけれど、当事者にとってみると、それはとても辛いものだ。あらためていきものを飼うという重大性をしらされた気がする。まだ当分手をつけられそうにない。
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信じることは、つまり疑うことからきているのに気づいたのは、つい最近のことである。
できるかもしれないし、できないかもしれない。気持ちが逡巡しているとき、最後にまあ信じることかな、今できるのは・・・、そう考えるのではないか。まだ結論や結果がでていなければそれが可能なのだから、絶対に信じてみることだ。
結果がどうでてもそれは励みになる。どうせだめだという気持ちは、すべての努力を放棄することだ。放棄すれば何も生まれはしない。一度途切れた糸は結び目がつく。異端者になるような感覚はとても辛いことだ。
村八分。言葉ではなんともないようなことが、現実にはその近くの状況まで達する前に、こころはぼろぼろになってしまうのだ。酸に侵される物質みたいなものだろうか。世の中には、想像もできない心をもった人たちが大勢いる。どうしてあんな人たちがこの世界にいるのか。おれには到底想像もできなかったことだ、・・・。そういう人たちがいる。いろんな分野でいろんなことをしている。
信じることだ。鰯の頭も信心からというではないか。信じるには、そのための強い意志と誠実な心がいる。だから難しいし、そういう意志と心があれば簡単なことだ。ひとつの方針が自分のこころとからだに入り込んでいるなら、それは大きな方向性をもっているということだ。
辛い苦しい暗闇の中で、一筋の光明が見えるとしたら、何かを信じることができるのではないか。信じられないから苦しんでいる。苦しみはさらなる苦痛を伴う。こころの痛みはからだの痛さとはまた違うものだ。それは一瞬のうちに心臓を砕く力をもっている。だから苦しむ時間もないかのうようなものだ。私はなぜか自分のこころをだませない。そう信じているからしないし、できないのだ。
信じることができれば、人生は堂々として生きられるのではないか。でもあまり肩肘張った堂々さは好きではない。もっと質素な姿が私は好きだ。
この社会で考えると、信じることは凧揚げの糸のような役割をしているのではないか。大きなたこの形はたくさんの糸で支えられている。鉄骨で支えるのではなく、引っ張り力だけの糸で構成されている。そして形を作る。空に舞う。
同じようなことが海の中にもある。魚網である。漁業をする網漁具がそうなのだ。一本一本が互いに引っ張り合って形を作っている。魚を誘導し、とらえる。時に大きな網目で稚魚やサメや哺乳動物類を逃がす。引っ張り力だけで均衡を保って仕事をしている。
だから逆の力が来た時には支えることはできない。形を失う。凧も同じだ。だから、これらの引っ張り族を扱うときは、圧縮力は排除するのだ。そういうようにコントロールするのだ。糸がもし人間の心を持っていて、俺は圧縮力にも耐えられる・・・、そう信じているし、自信がある、・・・。もしそういう発言をしたら、信じてやろう。そして頑張っているな・・・。そう叫ぼう。
構成を考えることで可能なのだ、・・・。糸だけで圧縮力にも対処できるのだ。これは現実にもよく見る建築物の一つになっている。信じることで、たぶん多くの人の心の支えにもなれるのではないか。逆の方向から力を支えてさらにその逆方向からも同じ作用をする構成にすれば可能なのだ。問題は、いろいろあるからそれを見つけるとか、見出すための力を信じることに私はしている。
まずは信じることだ。本当に鰯の頭なのだ、・・・。
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なぜ、どうして俺はここにいるのか。
そんな疑問を持たない人はいないだろう。おまえは何のためにいきているのか。そんなことを自分に問いかけている自分がいる。ほんの時々なのだが、無性に寂しくなることがある。それはもう先がないという感じではなく、もっとせっぱつまったものである。考えられないのだ。今から、これからのことが自分の身に体感できるかどうかがわからない。いや、興味がなくなるというのだろうか。
そんなときは、もう漆黒の闇の中でもがいているのかと思うと、それはちがう。あきらめでもないし、・・・。もちろん、希望とか夢とかではない、・・・。とにかく、ブラックホールの中に入るとそんな感じがするのではないかというような、・・・。
そんなときは、たぶん何も考えていないだろう。いや、ちがう。必至になって脱出方法を考えているのではないだろうか。いつまでたっても続けているのではないか、・・・。そしてあきらめはしないのではないか、・・・。
何のためにいきるのか。おまえはどうなんだ。そう問いかけてみると、意外と冷静な自分がそこにいて、そんなことは関係ないとでもいうのではないだろうか。自分をあなたはという立場でみるのは、少々おかしいのかもしれない。自分は自分であり続けるしかないのに、ときどき、そこから抜け出してみたくなるのだ。
あなたは何のためにいきているのですか。・・・。
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健やかに育て!何がなくとも親はそう思う。
そのためには食物が大事だ。自然の中で生活するのは不自由がついて回るので、私たちは社会基盤の整備を進めてきた。水道、下水道、食品流通、文化、科学、教育、スポーツなどが現代社会では標準的に整備されてきている。都会が先に整備され、田舎へと普及している。先進国から後進国、途上国へとこの流れは進んでいる。
健康とは長生きすることだけではないと私は思う。結果として、病気にならなければ長生きすることになる。それはいいが、健康時代というには何か大事なことを忘れているような気がする。本当の健やかさとはなにか。社会そのものが抱えているものではないか。不健康時代があれば逆にそうでない時代もあるはずだ。
今はどっちなんだ。安全安心という標語が今年もこの数年間、時代の寵児となっている。だれがなんのために安全で安心を確保したいと考えているのかわからない。そしてなんびとかが、それを阻止し不安全、心配という病を振りまいている。今はわからない。だれが何のために食品に毒をいれ、公共施設や公設の花壇とか展示物とかを傷つけるのかわからない。
だれにもできそうでできないこと。じっとこの社会を見つめて判断することである。それはこの時代が健康な時代なのかどうかである。私は今も昔もこれからもこの社会はあまり変わらず、ほとんど変わらず、一進一退の動きをしていくだけではないかと思う。時に大幅改善策があっても、それ以上のマイナスの要素が働き、無にするだろう。
健やかな笑顔が子供たちに現れるのが健康な時代であり、お年寄りがしかめつらをしてけなしあっているのが不健康な時代なのではないか。とすればまだ改善の余地はある。まだこの社会に笑顔がいっぱい残っている。そうなら、健康時代といってもいいのではないだろうか。どうだろうか。
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時代の状況を顕すのは何か。
何かすべてにおいて高度化しているのではないか。高齢化がある。そして老齢化がある。高齢化と老齢化はどんな違いがあるのか。社会構成における成熟年齢が増加しているのだ。いままで十代でやっていたこと、二十代でやったこと、こういう世代の標準的なことがどんどんと遅くなっているということだ。
それで世の中が活気づいていくのならよしとしよう。しかし、そうではない。ヒトの活力は若さの中に多くあるようだ。ヒトとしての活力だ。老齢と高齢はある意味で同じだ。老いるのではなく年を経ることなら経験を積むことでこの社会に貢献できることが増えるともいえる。自然にこのヒト社会の財産が増加していくといえる。しかし、老齢化は社会が老いることであり、弊害となる。新たな力をこの問題に投入することが、一番大事だとみんなが考えている。そしてなかなか進まない。いろんな分野において進展させなければいけないことが進まなくなっている。
柔軟さがなくなり、社会が硬直してきている。都会と田舎とはどちらが人間らしいか。そんな質問があったらどうこたえられるだろう。若い世代が入りやすい社会がどっちかによって軍配をあげるのがいいと私は思う。それが、今の社会が欲している贈り物だ。私はそう思う。
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何の目的でブログを書くのか。とてもいい質問だ。普段何気なく書いているのだ。そういう理由をとくに規定したくないのだ。それが私の場合の定義だ。
ほかにどんなことが言えるのだろうか。何か主張しようというときにも使えるだろう。自分の意見を発表して広くコメントをもらうのもいいだろう。そして、すごい数のブログが毎日生み出されている事実がある、ほとんどは顧みられないおれ流のものだろう。それでいいのではないか。制約されずに、日記のような形でかくのもいいだろう。
ただ読み手が一般である。開放されていることからみれば、それなりのルールを常識として守るのが当たり前だ。それが変な形で展開するととても大きな問題にもなる。良識をもって当たることが大切だ。オープンになることとそれが自由であることとは違う。最近の日本はナチズム的な動きが多いように感じるのは私だけだろうか。こうしなければいけない。これに反対する人たちはどこか狂っている・・・、こんな主張がされる。言論の自由もない。自由の国で自由を取り締まることが一番の目標になっている。
ちょっと前までは自由の国という表現であったのが、今、私が感じるのは不自由の国であり独裁国家というような感覚である。自由であるがゆえに束縛されるところが拡大されているのだろうか。おかしなものだ。自由とはそれぞれの人格の上になりたっているのだが、決して自由ではない。制約されてさらに制約されている現実が自由の象徴なのだというのだろうか。
屁理屈の押し届けではないか。煙に巻くことでしか、整合性をとれない。つまり自由であることを説明するために制約をいっぱいつけているのだ。そんな馬鹿な話があるだろうか。
ブログの限界もどこかそのあたりに転がっているのではないか。自由の国は今とても不自由になってしまったようだ。この辺で自由という定義を「自由とは不自由なこと」に変えてしまったらどうだろうか。
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アイドルは本当にあほなのだろうか。たしかに一芸に秀でた集団である。そしてそれがゆえに同年代の子らに比べて知識的には劣っている。理由は勉強する時間を仕事に充てているからである。そしてそういう生活に慣れてしまう。
ようく見てみよう。そういう中に、いろいろなものを売り込むのが上手なアイドルがいることがわかるだろう。それまで本人も自覚のないままにアイドルになっていたのが、急に変化する。学び方が上手で吸収が早いのだ。つまり利口な子らが多いと私は考えている。
年月を経て経験を積んだらそこにはすごい人間になった元アイドルの姿がある。そしてそれはなるべくしてなったという。天才肌が開花するという現象に似ている。アイドルは自滅する。そういうことも間違ってはいない。しかしほとんどの天才たちはそういう間違いを犯さない。ほんの一握りの間違ってアイドルとか天才肌とか呼ばれた他人本位な個人たちがそこで篩(ふるい)にかけられているのだ。そう私は思う。
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逃れられないものがいっぱいある。そして、そうではないのなら、心も身体もすごく自由になるのではないか。
私は、逃れる必要はない・・・、と思う。みんなそうして生きてきたのだ。
辛いだろうな・・・。そう同情される相手は、もっと強いのだ。同情なんか必要ないのだが、甘んじて反論はしない。不幸せな人生と思われても、そうではない。そこで感じることは、生きてきた証である。どんなヒトでもみんな同じ人生なのだ。生まれて死ぬ。人はそういう生き物だ。
逃れられない闇があるのなら、そこで探検しよう。どんな世界なのか。それは人生そのものではないのか。悪ぶっても、よい子になっても、それはヒトの持つ性格以外の何物でもない。どこでもいつでも人は何か逃れられないものを持っている。光と影。悪い傾向のことは暗闇にたとえられる。そしてよい方向のことは陽光の下での行動にあてはめられる。でも違うだろう。明るさと暗さは単なる照度の差であろう。明るさの大小であり、暗さの大小ともいえるのだ。
簡単に逃れようとしてもそうできないのは、生まれてきたからはしななければならないからだ。自分をどこか知らないところへ葬り去ることはできない。自分のことは自分で処理しなければならない。心は宇宙よりも何よりもでっかいのだが、この身体はこれだけのものだ。猛獣に広い逃げ場のないところで追われることになったり、威嚇されたりしたら、何もできないだろう。言葉も通じないし、腕力ではかなわない。
そんなときが、逃れられないものなのだろうと私は思う。ヒトとして生まれたというよりは、生き物として動物として、他の動物のえさになるしかない。コミュニケーションができない。しにたくない。餌にされたくない。生きてやることがいっぱいあるから生き延びさせてくれとは叫んでも通じない相手だ。
こんなときは、逃れられないものの一つとして、心に深く突き刺さるのではないか。これは、自然界だけではない。ヒトの社会でも日常茶飯事に起きている。それは公害だったり、犯罪だったりする。そして、猛獣のようなヒトだったりする。ヒトの能力は大差ない。だから小さな違いを大げさにいう。そんなことで馬鹿にする。優越感が心地よいのだ。だれも同じだ。虐められるよりはいじめているほうが楽だ。そうなったら罠の中に入って行ってしまう。そんな簡単なトラップ、ちょっと反撃すればいいではないかと思っても、金縛りにあう。それがヒトなのだ。いろんなことを瞬時に学ぶ。それが悪い。状況判断が実に的確で、遅れてくればいいものを、適時に判断できてしまう。それがいけない。ジェファーソン効果というものがあったろう。少し時間をおいて考えることが大事だ。ヒトの場合は通用する。なぜならば同じ高度な機能をもった人間なのだから。
逃れられないもの。それはヒトとしての自分である。ほかの何物でもない。私はそう考えており、今、簡単にできることでも先延ばしにして、これからやりたいことをいっぱい考えて現実から逃げる工夫をしている。でも、ヒトであることは変わらない。そして、それが幸せの本質でもあると私は思う。
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苦痛なことが一つある。趣味を正式にきかれることだ。そんなもの適当に答えればいいじゃないかとみんなが思っているのだが、そういう当人も、そういう面接の場面とかでは、同じことを繰り返す。なぜだろうか。
趣味とはそんなに仕事をする職場において大事なものだろうか。はなはだ疑問である。でも本当はみんないろいろな趣味をもっている。普段、あまりに身近なものはそういう改まった言い方はしない。公式に言われるとつい、読書とか音楽鑑賞とか、はたまた映画鑑賞とかになる。まあスポーツの一つや二つは言ってもいいのかもしれない。
なんでもレベルのあるものは、そこに付いて回るのでほんとにいやなやつだ。そんなこと関係ないだろう。現実にやれればいいではないか・・・。そんなこと・・・。不平不満の爆発だ。
趣味はなんですか。そう問われたら、ちょっと間をおいて・・・、・・・。あなたと同じです。そう答えよう。それ以上は具体的にいわないのが普通だろう。でも少々馬鹿にしている感覚はほめられない。
趣味はなんですか。今度は正直に言おう。事前に考えてきたことを言おう。パラシュート、グライダー、パラグライダーだと言おう。そして、見ることだと付け加えるのを忘れないようにしよう。
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スポーツ選手の心理はどんなものだろう。絶対の自信ではないのだろうか。一流の運動神経を持ち、懸命に努力しても、勝ち取れないものがある。いくら自信を抱いていいても、できないときがある。
そんなとき、ファンは彼や彼女を勝たせてやりたいと願う。そして、負けたときに、すごいプレッシャーの中で頑張ったと称賛する。勝つと、次に期待する。いつも同じだ。
それでも、いつも勝ってほしいと考えて応援する。勝たせたい心理がわいてくるように、他の人たちにも伝染するのが、この気持ちである。でも、負けるときは負ける。潔さが必要だ。勝たせたいけどもう力がない・・・。そんなときは、勝たせてあげたいといくら多くの人々が想いを寄せても不可能だ。
競う技術を磨くだけでは、真のスポーツの面白さはわからない。
勝たせたいけど負けるのは技術と運の結果なのだ。そんな客観性のある視点ではまだ努力がたりない。もっと熱狂的にならなければ、・・・。
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どうもしっくりこない。どうして、自分のふるさとに帰ってきたのに、・・・。
なぜ、自分の住む街なのに、・・・。
海があり、山があり、いろいろなプレジャー環境もある。それなのになぜなのだろう。
実は、この20年弱、週末ときどきし帰ってこなかったのだ。そして、1年前にここに帰ってきてから、ここにいる。それが実は半分ぐらいだ。
まだなじみがない。
それが正解だ。それでいい。今、こういうハンディを取り戻し、真のジモティーになろうと一所懸命である。いろいろと街を見て歩き、そしてお昼を買ったり、食べたりしている。そういえば20年ぐらい前の約20年近くは、会社から外へでたのは数えるぐらいしかない。もちろん自由意思ではない。すべて仕事である。
だから、知らないのだ。ほとんど何もしらないのだ。道路も詳しくはしらない。それでいいわけはない。だから、今、懸命になってほっつき歩いている。
まず、海があるし海岸がある。山もある。食べ物もそこそこおいしい。しらす丼、桜エビ丼、マグロ丼、海鮮丼、すし、・・・。いろいろある。
由比港漁港の桜エビ丼はすごくうまい。
用宗漁港のシラス丼もうまい。
先月は禁漁期で生しらすがなくて釜ゆでシラスだったが、よかった。今度、生シラス丼が食べれるので、行く予定だ。
ところ変われば、そこにいろいろな新しい発見がある。しにたいぐらいにあこがれたニューヨークとか、パリとか、ロンドンとか、そして大海の孤島なんかも同じだろうと思う。住む人の心がよそから来た人の心に訴えているのだ・・・。この街は最高だ・・・、この島は最高にいい・・・、と。そうすると、もうそう感じる。
ところ変われば、気持ちも変わる。新たな気持ちで夢をはぐくみ、目標をしっかりと定めて、ひとつひとつの目的にねらいをさだめて歩いていこう。そんなときに足踏みをするのはみんな同じだ。そんな足踏みがなければ、それは無事故の新幹線でしかない。いろんな経験がこだまやひかりにも集まってきている。ヒトもインフラも同じだ。
一新するときが必要だ。それが次のステップとなる。いつか来た同じ道なのだが、そのつど新鮮さを見出すことができるのは、こころの感受性があるからだ。
そんなドキドキ感が私たちにはいつも普通にある。とてもすばらしいものだ・・・。ああ、ドキドキ・・・、ドギマギしている俺がいる。
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フィッシャー&ユーリー。ハーバード流(以下、ハー流という)交渉術の著者のお二方の名前である。キューバ危機の時に威力を発揮した考え方と言うか、ネゴのためのシステムである。どんな時にも使える。相手も同じハー流ならそれが好都合だという。
もうひとつTQCという考え方がある。これは4つの原則からできている。先ず、①品質第一、②プロセス重視、そして③事実に基づくこと、最後に④人間性重視。こんなに簡単なのだが、その威力はすごい。
ハー流との根本的なものってなんだろうか。それは、やはり4つだ。(イ)人と問題を切り離すこと、(ロ)利害に焦点をあてること、(ハ)選択肢を洗い出すこと、そして(ニ)ネゴの基準を決めていくこと。
何かを決めるとき、私の意見が正しいのに、もし聴衆の前で負けたら恰好がつかない・・・、そんなことをだれもが思い浮かべるだろう。ウッズが2位になった。すごいことなのだが、彼の頭には1位しかない。もちろん不満だろうが、現実は事実そのものだ。だれもねつ造したものではない。それは、ウッズという並はずれたプレーヤーの問題ではなく、その場での技術競争の結果である。ある基準に沿ったルールがあるのだ。もし、ウッズはハンディを5打ぐらい上げないと、公正な競争ができない・・・、なんていう状況もあろう。でもそうではない。だから、すごいことなのだ。公正に競うには厳正なルールが不可欠だ。
強いものが勝つとはかぎらない。できるものがやり遂げるとは限らない。頭のいい子が優秀だとはかぎらないし、優しいともいえない。でも、だれもが、そういう関係のない基準を前置きに話されるのはいやなものだと、私は想う。
私たちは人間であり、能力はこの世に生まれたときからあまり変わらない。心と身体に5つの感覚をもって、この世の中を生きている。でも、この社会では差が出るというし、みんな小さな差を大げさに考えている。屈辱だともいう。でもそうだろうか。みんな同じだというが違うだろうともいえる。少なくとも人は相手の考えることが理解できるし、感じることもできる。時に思惑が異なることもある。
そんなとき力づくでぶつかるしかない。そう考えてしまう。だれもが同じだ。そしてそういう小さな社会での体験だけで、世の中の大事なことも判断してしまう。これとこれしかないのにどうするのだ・・・。二者択一の世界だ。そんなことも分からないのか。・・・。いや、もっとほかの解決策もあるのではないでしょうか・・・、モグモグ、・・・。そんなことありえないだろう。アイツガバカダカラ、コレシカナイノダヨ・・・、ワカルダロ・・。エッツ・・・。結局、人に悪さを与える。属人主義はわるいことではないが、問題はちがう。とくにネゴでは解決することが仕事になる。仕事と個人の生活はちがう。仕事はいろいろな優良な仕組みを利用して何らかの大切なことを守るためにやっているのだ。分業をしているのだ。社会が必要としているものをみんなが手分けして、その個性と能力、本当は差のないものだが、適性はあるので、それらの客観的な基準に基づいて、作業しているのだ。
社会は2:8の法則とか言われる。利益を得るのは2割なのか、2割で世の中を動かしているのかは別にして、区分すればそこにいろいろなカテゴリーができる。みんなが最優秀にはなれない。みんなが一番にはなれない。そこがこの人生のいいところだ。なぜならば、本当はみんなが一番なのだから、そして、みんながすべての面で一番ではなくても、その人の個々の適性にあったそれぞれの一番でもって、みんなのためのこの社会を形成しているのだ。優秀といわれる作業を担当している人は、ダメ人間といわれる作業を同時には担当できない。その一つが終わったあとで、担当をかわるまではできないのだ。
だから、私は、これら上述の二つの考え方(TQCとハー流交渉術)が大切だと思うし、その精神は昔から、そして今もどこにでもいるお母さんたちやお父さんたちが常識として持っているものだと考えている。でも、戦争がなくならないのは、闘う本能がこれからも、人類にとってとても大切なものだからなのだろうか。ということは、敵が待ち構えている・・・、ということか。
それは、宇宙生物か、それとも地球上のウィルス的なものか、はたまた私たちの心に潜むものなのだろうか。いずれにしても、効果的な考え方というワクチンを準備しておく必要がある。
それまで、いろいろな私たちの社会に必要な作業又は役割を担当して、全部をこなしていければ・・・、とも想う。お笑いの仕事の人も泣いていいのだ・・・。
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観光道路の山道。休日は観光客の車が多い。平日はサイクリスト、バイクライダー、そしてぶっ飛ばしドライバー、ウォーカー、ウォッチャーなどがいる。
今の時期4月から7月にかけては、鳥たちの繁殖期である。ツグミ、ウグイス、キジ、スズメ、カラス、トンビその他なんでもいる里山だそうだ。
山道だからコンターを使った道路であり、曲がり角が多い。谷を登れば百メートルでもぐるっと迂回する。そこが、ライダーにはいいのだろうか。
曲がり角に黒い2、3センチのものがうごめいている。それがタイヤ虫だとは、はじめは、きづかなかった。何か変な虫がいるなと思っていた。なかなか正体には辿りつかない。推察力のない下手な探偵だ。物証を手にとってみればいいのだが、マムシもいるし、カエルもいる。道路にはいろんな虫の潰された遺骸が残っている。長いものだと数年残っているような感じだ。でもたいていのものは季節の天候の変化で消滅し、きれいに跡形もなくなる。
そういう中にずいぶん消えないものがある。ひとつはマムシの潰された皮であろうか。銀色に光ってすでに道路の舗装の一部になっている。なぜわかるのか。交通事故にあったマムシたちを見ているからである。形が崩れてくるのだが、それは爬虫類の皮がバッグやバンドに使われていることを想えば、理解できることだ。
もうひとつわけのわからないもの。その正体は車のゴムタイヤの破片だった。丸くなって、たぶんノートの上のケシゴムのカスのような製造過程でできあがったものだろう。コーナーでタイヤが擦られてキュンと曲がった形ではげ落ちるのだろう。だから、タイヤ虫だ。
このタイヤ虫の正体を見破るには半年かかった。これがタイヤのゴムだというのは、ほぼ毎日同じところを歩いているウォーカーたちは、例のマムシの皮と同じように、みんな知っている。道路って面白い。あるいても車でも毎日みていると、そこにあるものが毎日目に入ってくる。車では、すぐにどこに何があるかが、頭に浮かぶ。あそこは子供が飛び出してきたところ、その次の角は小さな穴ぼこがある・・・。そんな注意するべきことがすべてわかる。タイヤ虫は、そのうち砂利とともに流される。でも山道ドライバーは愛好者が多い。山頂のパークにはそういういろいろな人たちの交流の場でもある。タイヤ虫はヒトの作ったものだ。消しゴムのかすと同じだ。摩擦すればそこで剥離する。それで、円滑な安全走行を確保してくれているのだ。
タイヤ虫はどんな道路にもあるだろう。とくに曲がり角の吹きだまりには、砂利たちとともにまぎれている。もっと、だれかに気づいてもらいたいのだと私は想う。そのうちタイヤ虫への感謝祭が、メーカーから企画されるという話・・・、はまだ聞いていない。みんな知らないのだ・・・。
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魚のねぐらはもちろん水の中であり、自己保身の防御とともに餌をどうやって確保するかがその選択基準となっている。そして、水域環境というすみかの条件がある。水温と水圧、そして水質である。すみかと同じようにねぐらといういい方もある。これは私たちの家に相当する。
自然の中での野生生物として、自立していなければ子孫を残してはいけない。だから、いろいろなリスクマネジメントの要素がDNAに刻まれている。自律という点も重要な資源の維持に関係する要素である。増えると減少への方針が出され減ると増加への方針がでるようだ。それが人間による漁獲であってもほかの生物による私たちにとっての食害であっても・・・である。そしてそれは当事者にとっては、生存本能への危機となって映るのだろう。
すみかはどんなのがいいのだろうか。水族館の環境だろうか。人工的な中に最近は自然の方法が多く取り入れられている。飼育方法とその技術が向上していることが大きな理由だが、飼育に対する方針と生物の多様性とかこの自然界のあり方についての考え方が大きく変化しているのだと言える。
私は自分のすみかをこんな風にしたいと思うことがある。それはいつも簡素なものなのだが、定住しようというところにちょっと問題があるようだ。
どんなところにでもすっと入り込んでいけるような生き方・暮らし方がいい。そして、時には何も考えないでのんびりすることができるすみかとねぐらがあれば、最高だと思う。
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日本の新しい年は春のさくらではじまるようだ。さくらの開花は南から北へと移り変わり、平地から高地へと変わる。そういうさくらが3月に始まり、4月、5月と続く。かなり長い期間日本列島はさくらに覆われる。
さくらのニュースが続いているかぎり、まだ私たちの心には春という気持ちが残っている。それが夏になり、秋になり、冬になると、次のさくらのニュースが待ち遠しくなる。
さくらの花は何かとてもきれいで質素である。清潔感があるというのだろうか。まだ少しさくらのニュースがつづくし、来年もさくらはさく。八重桜は豪華な感じがする。たしかに一面だけでさくらをみると本当はいろいろな顔があることを忘れてしまう。それでもさくらはさくらだ。共通しているものは、日本のさくらということだ。
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プランニングの大切さ。そして難しさがある。
方針の立て方が重要だ。
それを継続して集中していくことが必要だ。
そこから答えがでる。
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どういう風に動くのか。どういう考え方をしているのか。これらはよくわからないことが多い。でも動きをみて推察する。それが一般的だ。考えているが行動していないときには、よくわからないことになる。逆に行動に考えがないこともあるだろう。
とにかく動けばカムフラージュにはなる。そんなことがないだろうか。どうも行動と考え方に整合性がない。バラバラなことが多い。そんな気がする。
この動きは継続していくと、どこかで全体が見えてくるようなきがする。そんなとき私は、続けてしまう。続けて見えたらそこでどうするのか。もう興味はなくなるのではないか。体で覚えて頭で理解するとでもいうことだろうか。頭がそれでもういいやと思えば、今までの苦労は水の泡となる。でもそれがいいのかもしれない。
そういう経験を他のことに利用していくのがいいのではないか。新たな目でみることはとても大切なことだ。何のために考えるのかは、やはり実際に動くためにやるのだと私は思う。
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時にアグレッシブになる。そして普段はすごく大人しい。そんな性格がよく日本人の評価にでてくる。
しかし、実際はすごく多様である。
どうしようもなくこの社会に不満をもち、おおきな声でおもいっきり主張し叫んでいる人たちもいる。島国に生まれ、そこで育ち、風土に根ざした生活をしている人たちが本来の日本人といえる。あまりにいろんなところに出て行って帰ってこない日本人も大勢いる。そんなとき、元日本人という。私は、このまま大好きな日本人を続けていきたい。そう願っている。
日本人の良さを語るには、日本人のいたらなさを論じた方がいい。その代表的なことが、「日本人は的確にタイムリーに仕事をしない」ことだと私は考えている。どうして・・・。それは、その方がいいのだ。あまりに単刀直入に反応すると、それは一般的にもおかしくなる。この世界はいろいろな思惑で進んでいる。みんなが望む方向へいこうとしても、そうなるとまずいと考える人たちも大勢いる。
今、公益を確保することが第一になっている。そのやり方はどうなのだろうか。蹴落とすことでは公益を確保できない。みんなのために犠牲になれという思想も正しくない。一人のためにみんなが働きかける、弱い人たちのために、みんなが強く働きかける。どこへ働きかけるのか。それは私たち自身へである。日本の良さは、つまり日本人の性格の良さにある。私は、(願いをこめて、)そう・・・思っている。
でもどんどん時代は変わり、社会は変遷している。若い人たちだけでなく、大人の大人といわれる一時代を気づいたような人たちが、何か日本人の良さを忘れて、どこか遠い異国の論理で討論している。
もっと大事なものがもっといいものが日本にはあり、それを持っているのは日本人なのだと主張する人が一人もいない。グローバル社会とはいうが、日本の国内にはいろいろな世界のどこにもない力強さと伝統的な芸術文化がある。
日本の良さの最大のポイントは、私は日本人のこころにあると考えている。
他人を思いやるこころと助け合いの精神は昔からある。弱い人をそういう尺度で見るのではなく、一人の人間としてこの世に生命を受けた大事な仲間としてみている。通常は忘れている。こんな気持ちは今のバリアーフリーとかアースコンシャスとかに通じる。こんなありふれたことが、諸外国で種々の厳しい日々の生活を突き付けられている人たちのこころを理解する。日本人はだれもが、国際社会で起きている人権問題とか環境問題とかにすぐに的確な受け答えと理解を示すことのできる人達の集団である。そう私は思っている。
日本人はみんな利口だ。そう言われるが、実はそうではない。
ヒトの気持ちがわかるので思いやりの心があるから利口だといわれるのだ。もちろん、この私たちの社会で支えているものはすごく大きい。いろんな人が多様な現状を理解し、社会に貢献している。私の場合、「自分の名前が書ければいい」と言われた子供時代が、気持ちを楽にさせてくれた。戦後生まれの子供たちは劣ると理由もなく言われたことには反発しながらも、母親のいった「名前ぐらいは書ける子になれ・・・」、という励ましが私の心にぐさっと突き刺さっている。
世界には、今でも、これからも・・・、自分の名前はおろか文字を書けない子供たちが増えている。この社会がそういう状況を助長している。生まれてから死ぬまでヒトとして生きられない大勢の人たちがこの「アースコンシャスが大切だ」といわれる地球上に存在している。
日本の良さとは、やはり日本人という存在の重要性であり、みんながそういう日本が好きだということではないだろうか。
おだてられてもうれしそうな顔もせず、ぶっきらぼうで、けなされても、追い抜かれても別に気にしない日本がそこにある。私の心の中に、そういうイメージとしてある。
もしも、つぎに、どこかちがう土地に生まれたら、日本という国に対して「死にたいぐらいに憧れる」のではないか。そんな風に、私はこの日本という国が大好きだ。いかに政治が混とんとしようと、経済が低迷しようと、絶対に争いをほめたたえたりはしないだろう日本人が私は好きだ。
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