逃れられないもの
逃れられないものがいっぱいある。そして、そうではないのなら、心も身体もすごく自由になるのではないか。
私は、逃れる必要はない・・・、と思う。みんなそうして生きてきたのだ。
辛いだろうな・・・。そう同情される相手は、もっと強いのだ。同情なんか必要ないのだが、甘んじて反論はしない。不幸せな人生と思われても、そうではない。そこで感じることは、生きてきた証である。どんなヒトでもみんな同じ人生なのだ。生まれて死ぬ。人はそういう生き物だ。
逃れられない闇があるのなら、そこで探検しよう。どんな世界なのか。それは人生そのものではないのか。悪ぶっても、よい子になっても、それはヒトの持つ性格以外の何物でもない。どこでもいつでも人は何か逃れられないものを持っている。光と影。悪い傾向のことは暗闇にたとえられる。そしてよい方向のことは陽光の下での行動にあてはめられる。でも違うだろう。明るさと暗さは単なる照度の差であろう。明るさの大小であり、暗さの大小ともいえるのだ。
簡単に逃れようとしてもそうできないのは、生まれてきたからはしななければならないからだ。自分をどこか知らないところへ葬り去ることはできない。自分のことは自分で処理しなければならない。心は宇宙よりも何よりもでっかいのだが、この身体はこれだけのものだ。猛獣に広い逃げ場のないところで追われることになったり、威嚇されたりしたら、何もできないだろう。言葉も通じないし、腕力ではかなわない。
そんなときが、逃れられないものなのだろうと私は思う。ヒトとして生まれたというよりは、生き物として動物として、他の動物のえさになるしかない。コミュニケーションができない。しにたくない。餌にされたくない。生きてやることがいっぱいあるから生き延びさせてくれとは叫んでも通じない相手だ。
こんなときは、逃れられないものの一つとして、心に深く突き刺さるのではないか。これは、自然界だけではない。ヒトの社会でも日常茶飯事に起きている。それは公害だったり、犯罪だったりする。そして、猛獣のようなヒトだったりする。ヒトの能力は大差ない。だから小さな違いを大げさにいう。そんなことで馬鹿にする。優越感が心地よいのだ。だれも同じだ。虐められるよりはいじめているほうが楽だ。そうなったら罠の中に入って行ってしまう。そんな簡単なトラップ、ちょっと反撃すればいいではないかと思っても、金縛りにあう。それがヒトなのだ。いろんなことを瞬時に学ぶ。それが悪い。状況判断が実に的確で、遅れてくればいいものを、適時に判断できてしまう。それがいけない。ジェファーソン効果というものがあったろう。少し時間をおいて考えることが大事だ。ヒトの場合は通用する。なぜならば同じ高度な機能をもった人間なのだから。
逃れられないもの。それはヒトとしての自分である。ほかの何物でもない。私はそう考えており、今、簡単にできることでも先延ばしにして、これからやりたいことをいっぱい考えて現実から逃げる工夫をしている。でも、ヒトであることは変わらない。そして、それが幸せの本質でもあると私は思う。
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