自分のいえ
自分の住む家について考えたことがある。
それは、頓着のないものである。とにかく住めればいい。そう思っていた。
広い家もいい。狭い家もいい。中ぐらいの大きさの家もいい。
そして、居候はいやだ。
気を使うのがたまらない気がする。だから気楽な家がいい。
自分の住むいえはそんな気楽なやつがいい。
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自分の住む家について考えたことがある。
それは、頓着のないものである。とにかく住めればいい。そう思っていた。
広い家もいい。狭い家もいい。中ぐらいの大きさの家もいい。
そして、居候はいやだ。
気を使うのがたまらない気がする。だから気楽な家がいい。
自分の住むいえはそんな気楽なやつがいい。
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ある国の投資セミナーに出た。JETROとの共催で大使館から招待状が来たのだ。その国の大統領がアフリカ会議IV出席のために来日した機会をとらえたものだ。
一国のリーダーは大切な国の宝だと思う。質問に自ら答えるのはすごいことだ。自分の言葉で話す。議論好きの国民に直接、訴えるのがいまのはやりである。まとまらないものをまとめないことがいまの手法でもある。強制的に手を加えないのがいいのだ。リードすることが大切なのだ。世論をつくりあげるのではなく、世論をありのままに見ることが大切なのだ。
そして、どこかであきらめることも、新たなチャンスを見出す転換となる。あまりこだわらないことも大事だ。それは決して捨てることではなく、活かすことになると知ることだ。投資セミナーとは経済の起爆剤になるのかはわからないが、関心を広める。関心を集めると、そこから新たな種子が見つかるようだ。
農業、観光、水産、鉱業、工業。グローバル化はいやがうえにも進んでいる。
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伝統の大切さはなんだろうか。伝統の中には、DNAの素のようなものがあるのだと私は推論している。
同じようなことがきっと文明の起源となった土地から、次第に距離をとって離れていって地球を一周したりして融合するとか。途中で止まり、同様のものが遠隔して伝わっているとか、いろいろあるだろう。
人種というと偏見とか差別とかが次にくると思いがちだ。そして、それも伝統の一つだと気づくことができる。多様であっていい。そこから、新たな発見ができる。同じものだけだったら面白くない。違うからこそそこに推理をはたらかせて、解明もできる。
日本人の国民性も面白いものではないか。
群雄割拠の時代から、都市集中型の文化を形成するまでの過程とか、天上天下唯我独尊とか、任侠とか、士農工商とか、民主主義とか、天皇制とか、米軍基地とか、独自性とか、クジラとか、マグロとか、サンマとか、銘柄米とか、リンゴとか、サクランボとか、ナシとか、牛馬とか、イヌとか、ネコとか、神社とか・・・。日本人の好きなものがあまりにも多い。もともと自由でなんにでも興味を示すのがその本性かもしれない。
田舎から上京する地方の子供たち。
学校の寮がある。そこは人種のるつぼだった。言葉は通じるが、意識はちがう。地方のメンツを背に負っている。それは、カルチャーショックそのものだった。新鮮で希望に満ちあふれていた。そのうち、慣れてきた。そんなものだ。あんなに違うと思っていた言葉が、大差ないとわかり、言い回しの違いはとくに喜怒哀楽の根本的な差ではないとわかるまでほんの数日間だ。
それが日本人の国民性のようだ。そしてみんな頑固者だ。私もその例外ではない。
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彼らは、辛辣な話、バカだと私は一時、本当に思っていた。
そして、今、素晴らしい活躍と自由ではつらつとした活躍の姿を見ていると、なんと狭い見方をしていたのかと恥ずかしくなる。
5人の有名なメンバーで構成されるグループなのだ。結成20周年だという。すごく成長したのだと私は、自分の恥ずかしいコメントを超えてそう心から思う。
私がそう思うのは、メンバーそれぞれが個別の特徴を出しきっていることからきている。一人の活躍がほかのメンバーを刺激し、それぞれがまねをするのではなく、個性的な姿をだしている。
バカだと思った私は、彼らの中にかがやく石ころをみていたのかもしれない。もっともっときらきらと輝き、そして、何事もなかったように一般大衆の目線で生活を続けることが、かれらならできるのではないか。そう想った。
そして、過去のスターたちが、おごりとチヤホヤされる中で、自分の心と身体を蝕んでいったような道はいかないだろうと、安心もする。なぜならば、ありのままの自分を大事にして生活していると今の私には見えるからである。
だから人気も冷えないし、ますます活躍していく気がする。ちょっと前の同じグループとは大きな違いがそこに特徴としてあらわれている。
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いつも同じことを考えているわけではない。そして、いつも何かを考えているわけでもない。何かを感じようとしているのだが、わからないことが多い。そのまま放っておくことがいつものことだ。
時々思い出す。ニュースは毎日ある。なくてもニュースは出てくる。どんなことでもニュースになる。優先度、重要度、緊急度などによって振り変えられる運命に個々のニュース素材はさらされている。
そんなニュースに携わっている人たちはどんな気持ちだろう。毎日まいにち同じことを追っていることに焦りとか、苛立ちを感じないだろうか。とくに凶悪犯罪が目白押しになるときは、とても切ない気持になるのではないか。それが当たり前になってしまわないのだろうか。残忍さがオンパレードではヒトの心はたまったものではない。
なんとか平和な世の中になってほしい。時の総理の悪口をいうのがその象徴ではないか。最近、そういえばあまり悪口が聞こえてこない。毎日のことは、大きな意味を持っている。
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ちょっとおとなしいな。そういったら調子が悪いと奥さんがいった。彼女ではなく、うちのペットのことだ。そういえばちょっと元気がない。心配だ。
目がちょっと力がない。いつも運動神経の塊のような動きでぴょいぴょいと俊敏に跳ねまわっているのに元気がない。
おとなしいのは、いいが・・・。心配だ。
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みんな自分のことを考えるのは、何か心恥ずかしいと思うのではないか。それは自分勝手だとみられるような気がするからではないか。
易しくて難しい。それは、自分というものを大事にしなければ、他人の痛みはわからないからだ。自分と他人を比べてそこから類推することができる。こんなことはいやだな。そう想えば、そこでどんな対応をするか考えられるのだ。
易しくて難しいもの。
ヒトの心と身体もそうだ。健やかな時はなんともない。病むととても苦しい。どうしてこんな目に自分が遭わなくてはいけないのか。そう自問自答してしまう。でもそこからはどうしても逃れられない。外からみれば、大したことがなくても、当事者にはとても大きなことだ。
易しくて難しいもの。それは、自分の心と身体だろう。自由そうで、不自由なものでもある。前向きで後ろ向きでもある。いったいどっちなんだと怒鳴られそうな感じというのだろうか。怒鳴りそうな感じというのだろうか。そんな感覚を持ったことはないだろうか。
私は、難しいものに挑戦しようと考えてきた。
でもそれはちがうようだ。易しいものこそ難しいのだ。勝つことよりも負けることが難しい。勝負というものをどう見るのかが理解できなければ、勝っても負けても50歩百歩だ。
議論も同じだ。議論に勝つにはどうするのか。相手を威圧することだろう。そして籠絡することだろう。優しさを振りまき、解きほぐすことだろうか。かたくなな心をどう溶かすのかであろうか。どうも焦点がずれてしまう。そんなあんなをいっぱい聞いてみることが、人生なのだと今は思う。
どうでもいいようなことが、実は人生では大切なものだ。
そんな光景を子供のころのおふくろの姿に見たような気がする。しっかりと生きろと言われていたように思う。いつのころからそういう基本がなくなったのか。経済至上主義が日本をだめにしてしまったのではないか。日本には何物にも代えがたい勤勉さというものがある。それが私は易しかった昔、当たり前だった昔、今は一番難しいものになったようだ。
おもてなしの心がいつかお金儲けのこころに変化したようだ。
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砂漠の中の近代都市。そんな夢のような市街地が中東にある。資源だけでなく、ハブ空港としての位置づけを武器にして、人の集まる拠点都市にしようとしているようだ。
大規模工事が一帯で実施されている。日本から見たら夢のような姿がそこにある。どうしてそういう構想が実現できるのだろうか。お金があるからなんでもできる。なんでもできるなら人も集まる。ヒトはお金をもって集まる。経済が動く。
そんなことだろうか。それがどこかでかけがねをはずされたらどうなるのだろうか。それはがれきの廃墟となるのではないだろうか。そんな不安はないのか。だれも上昇傾向の時にはそんな疑問を堂々とは離さない。なぜならばそこに希望を抱いているからだ。
希望は拒絶すればそこで終わる。それを終わらせないでおくには、否定したり拒絶しないことである。そこから始まるものがある。どんな時でもそういうことを気に掛けることだ。それが大切だと私は考えている。
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新型はなんとなくうれしい。そして長く使えるのがいいのはいつも同じだ。愛着がある。
いいものは機能的だと思う。それが気に入る。そこから使う人の姿勢が見えてくる。どっちを選ぶのか。使いやすいものを選ぶ。機能的なものを選ぶ。
誰もが選択基準をもっている。みんなの意見も参考になる。
新型モデルを出す力がこの業界にまだ残っているようだ。それでは期待しておこう。それも楽しい。時々かえるのがいいと私は思う。
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どうしてそんなにほがらかなのか。驚くことが多い。普通なのだ。あのテンションが当たり前なのだ。
信じられない。現実なのだ。とても驚くことが多い。なぜそんなにハイなのだろうか。わからない。もっとゆっくりと落ち着いていてもいいのではないか。どこかに行くにもそれでは大変だろう。
起伏があるのだろうか。それが平均なのだろうか。安定しているのだろうか。ほがらかさの内面に何かちがうものがあるように見えることもある。親切さの中に違うものを感じるのは後ろめたいのだが、みんなそういうメカニズムで詐欺にあっているのは確かだ。
暗い詐欺師はいない。おれおれ詐欺はみんなたぶん明るく朗らかではないのか。少なくとも表面的にはそうだろう。演技なのだろうか。
そして、こころから朗らかな人たちがいることも現実なのだ。そこには大きなギャップがあるようだ。でもあまり変わらない。生きているレベルはそれはある種のハイレベルなのだと私は考えている。
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誇りをもとう。そんなキャッチフレーズが聞こえそうだ。
今の日本は何を基本として行動しているのだろうか。私たち日本人はもうほこりをなくしてしまったのか。そんなことはないと激しく語ってもそれは、どこか違う風が吹いている気もする。
本気ではない。
ほこりを本当にもつことを考えていない。日本ってもっともっと日本らしい姿があったのになあ・・・、そんな声もきこえそうだ。だれかが呟いているのだ。だれだろうか。狂気の指導者でなければいいのだが・・・。
まだまだ危険性が潜んでいるのではないか。
赤軍のような行動があるときにでてくることはあるだろう。グローバル化した世の中では、それは多様な形をとるだろう。そんな危険に対してどんな防御がいるのか。先手必勝である。教育が偏っていればそれは正しい発展をしないし、教育がうまくいかなければそれは、破滅を意味する。価値観が違うのは、それはやはり育つ環境に左右される。
この世の中のために生きる。
そんな基本がなければ世界はどっかに飛んで行ってしまうだろう。ひとつの重要なキャッチフレーズが今はない。米国の大統領はどんな人なのか。どんな人がそういう大事な職務を遂行できるのか。それは米国民のためではないか。少しずれているような気がする。
狭い了見でしかない。広く見えても狭い。そんな米国の姿がある。これからの世界をどういう形でリードするのか、一つの国の問題ではない。何かいい方策がなければならない。
それらをどう探すかだろう。
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慣れというのは、怖い。なぜかというと、こんなに便利になった・・・と数年前には心からびっくりして喜んでいた通信速度が、今は受け入れられない。それだけではなく、不満がたまってしまう原因になってしまう。
そんなバカなことを・・・とは、言わないでほしい。当時、すごく進んだシステムと思っても、陳腐化するともうだめだ。慣れだし、周囲との格差がなくならなければ、決して満足することはない。どんな形でこれからの情報化に対処したらいいのだろうか。どんどんスピードアップすることはいいのだが、地域差・デジタルデバイドなどの差別が出始めたらもう悲劇であろう。
なぜそうするのか。それが国際基準だからだろう。しかし、どうしてこんなに巨大な産業にあっという間になったのだろうか。どこにそんな急激な変化要因があったのだろか。
デジタル化で不満を生まないようにすることが大事だ。そのためには何をどうしたらいいのか。ちゃんと考えてみることにしたい。
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日本にも同じ風習がある。こころ付けというものだ。でも世間を知らないで、金額を間違うと逆効果になってしまう。
それは、海外では相場がわからないのだが、いろいろな例があるらしいので、あまり気にしないほうがいい。米国なんかではあからさまに日本料理店がチップ、サービス料がうんぬんとあけっぴろげにいう。恥ずかしい気分になり、とても情けないとしゅんとする。
どこでも同じで、いいサービスを提供してもらったら、何とか御礼をしたいと思うものだ。でも、海外ではホテルにチェックインするときに外貨がないことが多い。そんなときは、仕方がない。
心の中でありがとういう。
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老いることは、醜くなることだろうか。醜さを隠すために美容術があるのだろうか。
すごい剣幕で怒られるだろう。それは、根本的にまちがっている。だからどんなに怒られても仕方がない。そして、それは、醜いのではなく、年相応に老いることが大切だ。いくら若さを強調しても逆に老いの醜さに焦点をあてるようなものだ。
ではどうするのか。
現実を認めることだろう。自然体で時間を過ごす。ありのままの自分を見つめる空間がある。そんな時空の中にいる自分の過去、現在、未来をみれれば、それは楽しい。変化とは楽しいものだ。うれしいものだ。小さな子どもがすぐに大人にはならない。
ひとつひとつ身につけていつの間にか大きくなり、自然においていく。
でもそこに子供のころの心はいつまでもだれにでも残っている。というようりも変化しないものがある。生まれてから死ぬまで同じ個体であり続けるのだから、当然だ。
だれもいくら駄々をこねてもだれも何もできない。それが己というものだ。みんな同じだ。老いた人たちの美しさは、日本古来のわびさびという言葉に代表される。そこにひとつの理想的なイメージが美容法としてもある。
若さを強調するために老練な格好をする。それはつまりあこがれを意味している。そんな憧れの姿をごまかす必要はこれっぽっちもないと私は思う。
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ひとつのことで二つの利を得る。
そんなバカな。そういわれそうだ。確率の悪いことを意味するので、二股をかけないようにと注意される。
ひとつずつ。急がばまわれ。いろいろな格言がある。
今話題のトレードオフ。
それは、まさにそのとおりなのだ。でもお互いにひとつの条件を見て判断するのではなく、対立点を踏まえて共通の利害をも視野にいれて探し出すというのがみそだ。
だれでもわかることなのだが、つい、こうなのだから、ああなる・・・。なるほど・・・(面倒だからそういうことにしている・・・)。
でも違う。
こころの中で不満が募る。一石二鳥というのはいやだけれども、トレードオフの解決策は探したい。
国際政治の場では、常にそこまでの基本的な考えが浸透していなければ、国際会議は単なる言葉の交流ということになってしまう。こころは同じなのだと私は思う。表現手段としての言語は考え方や人の心を変える力はない。
ベースは同じだ。
一石二鳥というトレードオフの解決策を見出そうではないか。みんなで協力していこう。
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捕鯨船に乗っているという人が子供のころ近くにいた。
すごく勇ましい仕事だと思っていた。でも自分で捕鯨産業にいこうとは思わなかった。なぜならば斜陽産業としてのイメージがその当時から漂っていた。いまさらクジラの時代でもあるまい。そんな気分だった。
世の中変わる。
すたれゆくものが私たちの郷愁を誘う。
いま喝采を浴びている産業はそのうちに滅びる。今、何もないものがこれから発展する。町の万屋が今、時代を席巻している。なぜか。必要だからだ。便利だからだ。時代に合っているからだ。でも何となく、薄っぺらなy歩の中になったということは否定できない。
さみしい気がする。
それはそれでいいというなら、そうでないものが埋め合わせをするものがなければならない。便利さは不便さを味わって初めてありがたいと思うのだ。決してプラスだけでプラスを語ることはできない。マイナスがあってのプラスである。
鯨の肉は捕鯨船に乗る労働者の誇りではないのか。
そういう船内での報酬の分け前があってもいいだろう。それは、自分たちの誇りとしての外部へのPRになるのだ。そういうことも否定する狭い了見で日本は滅びるのだろうか。
けっしておいしいと思わない鯨肉をうまく調理する人たちがいる。クジラにとってもうれしいことだろう。食料資源を大事にして共存することは当たり前のことだ。同じ哺乳類の牛馬とどこが違うのだろう。クジラ牧場をつくらないと食べてはいけないというのか。クジラが将来知能を人並みにもって批判するときに人はこたえを用意しようとしているのか。
捕鯨船の乗組員はクジラ肉のおいしさを知っている。そこから、もっと鯨肉の普及にちからを発揮する糸口としてどうして寛容なこころがひとかけらもないのか。批判の批判では非難の的になるだけだ。もっと長い基本的な視点での物事の見方が大切ではないかと私は告発したNPOの方々にいいたい。どこが本当に悪いのか。
違法なのか。
何も調べていないで単に批判しているのか。他に難癖をつける糸口がみつからないからなのか・・・。
もっと日本は国際的な視野にたって考えるべきだと私は思う。
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人を好きになるのはDNAの中に刻み込まれているからだと私は信じている。といいうことはそういう遺伝子がなければひとをすきになることはないということになる。
どうしてそういうことを許すのだろうか。基本的なひととしての要件がDNAになければどっかで途切れることになる。ひとの遺伝子ならそうらしくみんなに公平に備わるべきだ。不公平であって悪いものの一つだろう。
ひとりでは生きられないのが人というものなら、それはなくてはならないものだ。そんなDNAを欠いた条件で生まれさせて良いわけはない。だれでもひとをすきになる権利はある。
そういう基本てきなものを奪うことは許せないし、許されないことだ。そう思う。
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人。文化。
がいて文化が生まれたのか。この宇宙の文化が地球上に人を生んだのか。どっちだろうか。どっちでもないのだろうか。
地球の丸さを見るとやはり、どっかから爆発して生まれたものだろう。そして一番安定しているのは赤道付近だろうし、陸地の中心となるところだろう。中東が人の歴史をつくってきたのだろう。どこには、昔どんなものがあったのだろうか。宇宙から何かがそこに届いたのだろうか。それとも水分が海となり、タンパク質を駆使して人を作ったのだろうか。
ひとの文化の発祥地が中東だとすれば、それは何かがあるのだし、そこに帰るのかもしれない。
発祥地は最後に戻る土地なのだと私はおもう。
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どこでもドア。
そんな世界がすぐそこにあるような気がする。
こうしたいと思えばすべてが実現するような気がする。でもそんなに便利になってどうするのだろうか。すごく便利ととても不便というのは、シチュエーションによって変わる。とても一筋縄でくくれるものではない。またそうしないほうがいいと私は思う。
みんな一緒。
そんな世界があれば、私はいやだと叫ぶだろう。同じところと違うところ、同じでもそこに至るプロセスの違いも重要だと思う。そこからまたいろいろな所へ発展するためには、一番ベースとなる考え方が大切なのだ。薄っぺらでもある段階までは同じものができる。いくら重厚でも薄っぺらかも知れない。それは本質をどうつかんでいるかによって変わってくるのだ。
みんな一緒のスタイルをまねするのも一つの訓練としては面白いかもしれない。携帯・デジカメはそんなものかもしれない。使い方とどう使いたいかで変わるものがある。若い人の使い方はなくてはならないものという気がする。私はまだ重要性を無視しているのだが、そろそろ降参しなければならない。そんなところまで発展してきている。
これからどういう方向へ進めたらいいのだろうか。もちろんあの世までもっていくことを望んでもそれはこの世との交信はできないだろう・・・。そんなことを考えると現実に達成してしまう人も出てくるかもしれない。死後にお父さん葬式はどんなスタイルでしますかなんて問い合わせが子供たちからあったら、・・・。どうこたえるのだろう。
ちょっとまってて。今、帰るから・・・。そう言っているだろう。
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成功の話はあまりない。それはすべて予定通りにいくこと。ほとんどがそうだ。そのために始終気を引き締めている。時に心技体が揺るぐことがある。
失敗はそんなときにでてくる。絶対に必要なこと。必須科目のテストをうけること。時々夢にみる。試験が終わっていた一般化学。あわてている自分。進級できない。もう一年なんて御親にいえない。瞬時にいろいろなことが頭を駆け巡る。
だから、必要なことをやったあとの結果は、右だろうが左だろうがいい。それは失敗とはいわない。またやればいいのだ。取り返しのつかないことをひとは防げない。みんな同じだ。そういうことを頭に入れよう。
泥棒にあなた荷物はみていないと悪い人がもっていくでしょう。気をつかなさいといわれたことがある。重要書類が入っていた。間一髪だっだ。
出張に必要なもの。自分の体とそして引き締まったこころが必要だ。もちろんその次にチケットとお金がいる。でも、一番必要なのはやる気という心だ。
成功も失敗もそこにはない。引き締まった心があればいい。忘れるな昨日の書類カバンの1式をフロントに置いてきたことを、忘れるな。
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だれも大事なものを持っている。それはひとりひとり違う。そんな小さなことは関係ないぜと啖呵を切ることも関係ないぜ。そんあことが大事ではない。そんなどうでもいいことを長々と心に留め置くつもりもない。今、ここに生きている。そういう感覚を実感したい。それが人間ではないか。でも違う人たちもいる。せせら笑いが聞こえる。そんなとき、とても人に生まれて不幸だったた感じる。そんなことがあるのか。同じ人でも違うのか。俺ダメ人間でだれかは将来有望な人なのか。そんなことは信じられないのだ。
大事なものは心にしまっておこう。いつまでも自分のこの心にしまおう。私はそう言いたい。なぜ、なぜだろうか。自分のいきたことを誰かに伝えたいからだろう。それは、そのままには伝わらないのだ。そんなに世の中は甘くはない。そういう微妙なこともすべてkじょの世の中の動きに大きく関係している。
そこにフィクサーが生まれるのだろう。それはそれでいいとは言わないまでも、それが現実だ。人は死ぬ。一度はしぬ。そうなのだ。
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この道はいつかきた。そんなことを想う。
でも初めてだ。なぜ、そうおもうのか。心の中に残像があるのだろうか。それとも私たちはリサイクルしているのだろうか。この身体はこころというものを得て初めて活動できる。
とすれば、人のこころもローミングしているのかもしれない。
いつか来た道のメモリーがどうしても残ってしまう。
無意識のことなので、対策がまだないのかもしれない。
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何でも分かっているというのは、嘘だ。
ほとんど分かっていない。
科学的に追求していかなければならないことがどんどん増えている。それは、普通のことが、本当は異常だったということにもなるし、本来そうだったが受け止める私たちの知識が不足していたり、まちがっていたのだ。
気候変動という。地球は自転しており、公転している。そこから、地球にへばりついている空気は動かされている。東から西へ、極地から赤道部分へ流れる北東貿易風であり南東貿易風である。
北半球と南で違うが流れは一緒だ。たしかに、地球そのものの温度変化というよりも、表面の空気層が温暖化しているならば、気候も変動する。
異常気象かどうか。
それは、私たちの行動が起こしたものか、大きな環境変化か分からない。そういうことを科学するといろいろなことがわかってくる。私は異常なのか普通なのかその微妙な差で私たち人間は敏感に感じ取って対処することができるか、とても興味がある。
単に不安をあおっているなら、それは異常な人間心理が原因といわなければならない。
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脚光を浴びる。そんな恥ずかしいことはできない。そう私は子供のころ確信していた。なぜそうなのか。それは貧しかったからだ。
子供心に親心がわかるのだ。そんなことは当たり前なのだ。もっと違うところに子供と両親の気持ちがある。それは、子供たちの問題だ。それは大人たちのもんだいだ。なぜ、そうなのか。それは、まさにこの地球の動きに比例している。
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懐かしい気持ちはだれでもいつでも持っている。
他人のものはよく見えるのも同じだ。いろんなことができても、満足しないのもみんなに共通のものだ。どうしてそんなに欲張りなのかと思うと恥ずかしい気がする。
でも当たり前のような気がする。だれでもそうなのではないかと私は思う。こういう気持ちがみんなの想いとかけ離れたと自分で感じるのは、いつものことだ。そしてそれが特別だと思うのであれば、もうそこに自分の感性が普通ではなくなる。大勢がわからなくなる。老いたという意味だと私は思う。そんなとき、いやそんなはずはないと一度は否定するだろう。そうでなければ自分の意志で認めることは不可能だ。そこからは、自意識がなくなる。そして自分が自分でなくなる。そうしたらどうなるのか。もう己の考え方という意見とかなくなるのではないか。とても嫌な世界だ。
どこへいくのか。
そんなときに私たちの心はどこへとんでいくのだろうか。どこへも行けないかもしれない。そんなものかも知れない。もう、どこへいこうとかいう意識はなくなるのではないか。己が人であるということを忘れてしまうのではないか。
そうなら、いったい私は誰かという世界だ。
そんなことが実はいっぱいあり、当たり前のことなのだ。健康に気をつけようというと、そうれはそうだと10人いれば7人はそういう。でも、10人のうち、8人は決して健康を満喫はできない。みんな子供のころ思った自分ではない。もうその想像の域を超えているのだ。とても子供たちがイメージできる世界ではない。すべての考えや思いを取り払うすごい現実がある。
どこへいくのだろうか。どこへも行けない。足が普通に動かないのだ。
そんなばかな。
どうして若い時のおこぼれを少し残せないのだろうか。みんな使いはたしてしまったのだろうか。そんなことはない。いつまでも心は子供と同じだ。多少カラオケのレパートリーが増えてもそれは大きな変化ではない。単に時間が情報を与えてくれただけだ。
どこはいくのか。行きたいところへいく。それはどこか。
それは、こころのなかにある世界だ。どんなものよりも広くて大きな空間であり、どこへでも行ける時間がある。時空をかけることができるのは、そんな時かもしれない。駆け巡るために生きているのにできないのだ。それはとても悲しいことだ。もっと、精一杯生きたい。
どこへ行くのではなく、精一杯生きることが自分の行き先だと、私はそう思う。
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スポーツとは言っても日本の場合は、ほとんどが戦に関係しているのではないか。つまり格闘するためのものと言えないか。柔道、剣道、武道などはすべてそうだ。
いかに有利に戦うか。そのための訓練鍛練だったのだ。水泳も同じだろう。水練といって海上での戦の訓練をしたのだ。忍者による忍術はスポーツのカテゴリーにはないが、総合的な戦術という意味では、より高等な戦法といえる。
時にこれらの鍛練術はダンスなどの文化芸術にもなる。まさに、今のオリンピックで政治とスポーツは分離しているべきだというが、本来の活動はそのものであり、分離する必要はないようだ。表向きの議論はもちろんあるだろう。でもミャンマー政府が国外の人的協力を得ようとしないのは疑心暗鬼というよりも、そういう企てが実際にあるからだと私は思う。
日本のスポーツ・文化・芸術はもうすでに古来の姿を無くしている。だから、本来のものではなく、今の表向きの舞台だけのものとなっている。それはそれでいいのだろう。でも何かさびしさを感じる。もうオリンピックなどの国際舞台を背景にしたスポーツミステリーというような小説はないのだろうか。考えられない時代なのではないか。
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際限のない出来事が続く。災難とみるのか、当然の報いとみるのか。それとも自然の流れと感じるのか。いろいろな見方ができる。
私たちは、この世の中に息をしている限り、どんな災害にあっても立ち直るだろう。ヒトとしてのDNAをつなげるために、数が必要であり、ヒトとしての質が要求される。災害で苦しんでいるようでは、そのほかの災難が宇宙から、たとえばやってきたときに何もできないだろう。
これは冗談ではなく、UFOは何かということを一笑に付すよりも、真剣にみてみるとか考える姿勢が大事だと私は思う。
あとからあとからくる出来事に対してどんなコメントをしたらいいのか。時々わからなくなるが、出来事は毎日毎日休みなく続いてくる。それは、ニュースとして私たちの耳に入るし、そこからこれからの行動も決められる。
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発生してしまえば仕方がない。それまでの準備が試されるということか。地震が中国の中央部であった。インド大陸がアジアに迫るところのひずみだという。
どこにでもある自然災害である。地震はとくに大変だ。そういえばミャンマーのサイクロン被害があった。国際支援をどうして受けないのか。受けれないのだろうか。なぜだろう。疑心暗鬼になっているのだろう。
被災して苦しい時には助けてもらう。それが国際協力ではないか。人命尊重、人権尊重が優先であるのはどこでも間違いない。そういうと、急に災害にあうというのは不平等な扱いを受けていると批判されそうな気がする。
クライシスとは避けることができないが軽減はできる。物理的な損害は防御できないかもしれないが、精神的な復興に向けての対策は力強くやれることもある。もし、そういう自然災害に対して理解をしているならば。たしかに人は脆いものだ。でもがんばれる生き物でもある。そんな貴重な生き物が人間だと私は思う。
クライシスとは、起こりうるものであり、復興できるものだ。そういう覚悟で人はいきなければならない。ごく自然に受け入れるものであったはならないが、被害を減らすことはできる。そこに文化・芸術がついて回るようだ。
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こころに引っかかるものがある。
そんなとき、よく神社でお百度を踏むという表現がある。
それとは違うがやはり、私も同じような行動をしている。自分の願いを想いをなんとかしたい。そう念じて足の裏に刺激を与えることで、まとまらない考えを整理し効果的に活かしたいと思うのだが、それはかなり難しいことだ。
それは、お百度参りの物語の例を見ていてもわかる。なかなか想いは通じないものだ。とかくこの世はままならないとわかってはいるのだが、それが現実だ。
でも、決してあきらめてはいない。いつまでも念じれれば、いつかは通じると疑ってはいない。
ただそこまで強い意志を持てるかどうかはわからない。現実は、今しかないのだから、絶対にできると確信しているのだ・・・。
おかしいだろうか・・・。
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事務所、家庭、外出先、出張。私たちはいろいろな場所を飛び歩いている。
そこで、どこでもITという発想が大事だと私は思う。
パソコン、携帯、電子手帳、電子辞書、デジカメ(ビデオ)、オーディオ、計算機、メモ手帳、スケジュール表などがカバンに詰まることになる。
これらを一つにしないまでも、必要な情報を必要な時にという基本の基本がとても面倒になる。ユビキタスに相当する日本語はなんだろう。いつでもどこでも・・・(なんとか)だろうか。それともそのままひらがなで「ゆびきたす」、または「指喜多巣」とでもした方がいいのだろうか。
携帯と超小型PCがこの傾向を示しているのだろうか。私には、もっと違う「不携帯」という方法が待っているような気がする。
私は、とても面倒がりなので、そういう安易なことを考えるのだろうと奥さんに言われそうだ。でもその通りだから、とくに反論はしない。
でも、発想はそういうところから出てくるとだけ言っておく。
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心が躍れば体も動くようだ。行楽にいくことはまさにそのものズバリではないか。
そんな楽しいことを仕事にしよう。
サービス業を営もう。プレジャー関係では山あり、海あり、川あり、空ありではないか。マリンスポーツが最近とくに盛んになっている。結構危険が伴うのが海のスポーツなのだが、安全に対する配慮が進んできている。楽しみ方がうまくなっている。
ちょっとできないなと思うようなことを、可能にするコツがある。楽しさを教える。安全にやると面白いということを徹底する。基本を大切にする。
それが、心と体を躍動させる。楽しくさせる。さあ夏のスポーツはマリーーーン・プレジャーだ。
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だれかのためにと思ってやったことが、実はちがっていた。そんなことは意外に多い。
旦那さんが奥さんのためにと考えたことが、ちがう立場では、同様のことが起こる。お互いに思いやってしたことが、実は相反することになる。そんな思い違いが、私たちの身の回りには多くある。
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食事ほどこの世の中で大切なものはない。そのために身を粉にして働くのだろうか。いろいろな食べ物が不足する。奪い合う。手に入れるために競い合う。近代的なシステムでも同じだ。
暴力、軍事力、政治力、腕力などを駆使して食べ物を手に入れる。それがこの社会だ。懸命に努力しても手に入らないなら、さらに努力しなければ手にできない。そのために必要なことは、いい仕組みを創りだすことだ。決してむやみやたらに努力することではない。
社会の仕組みに沿わないで努力した成果はどこか違う方向へいく。貧しさゆえに収入も少ない。質が低ければ量で稼ぐしかない。そのうち質が改善されても量を減らさないとなると、物品が不足してしまう。余剰のエネルギーが不健康を誘う。貧しさは必要な栄養を取り上げる。ありまった栄養は私たちから健康を取り上げる。どちらも代償を要求する。
いい食生活とは均衡のとれたものだ。そのためには知恵と工夫が必要だ。
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いま生きている。そう感じるときがある。どんな時か。ふと隙間の時間ができたときだ。
そんな時にひとの生命力ってすごいなあ・・・、と感じる。
こころが荒んでいるときはからだが支えている。そして疲弊する。からだが疲れはてるとこころが励ます。そして疲労する。そういう状態からこころもからだも回復させるには、時を見計らって、両方を一度に休ませてみることだ。仕事はしてもよい。
つまり、あまり差がないことに対して無駄な努力はしないようにするのだ。
そんな状態は病を患うと強制的に起こってくる。ひとそれぞれに対する社会の要請の優先度が変化する。まず病気を退治する。病気と付き合う。健康なひとはあまりあくせくしないことに徹する。それが社会のためであり、自分のためになる。だれでも体調を崩すことはある。みんな同じだ。
生命力そのものは、私たちの個々の意識とは違う。無意識に生命を維持するという至上命令にしたがったプログラムがきっとある。そういうことなら、心が自分だけのものだと決めつける必要はない。
私は自分だから、恥ずかしいのだ。私たちはみんな同じ自分たちである。同じカテゴリーの中でそれぞれが活動している。個別の生命力が全体の力となって、危機を回避する方策を実行している。それは一人の仕事ではない。
私たちみんなの力が継続させるというひとつの方向へ向かっている。それが生命力ではないか。すごい力に私たちは支えられているのだ。そんなすごい生命力が社会をいい方向へと動かすのは自明のことだ。ひとりひとりが、そういう人の生命力の強さ、偉大さを信じることがもっともっと大切だと私は思う。
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まるでタイムスリップしたような気持ちだ。それは、数十年間といわず、もっと長い間、ずっと会うことのなかった小学校の地域の分校の恩師と仲間たちだ。
みんな変わっていて変わらない。そういう時空に瞬間的に移動しているのだ。私は長男ではないため、生まれ故郷にずっと住むことは頭になかった。その仲間たちの半分は長男や長女でその土地に住んでいる。だから、集まれる条件ができている。今回は5回目だという。私は初めての出席だ。
恩師に会うのは、とくに子供のころ幼稚園もなく、家庭からはなたらしこぞうが小学校へと入学したのを想像すれば、なにかとても恥ずかしいと思うし、とても懐かしいとも思う。もうすでにいい年をした大人になった昔の子供たちに恩師は面影を感じているのではないか。たしかに目をみていると、今もこどもの時もすべて見透かされているのではないかとこころの中で思った。
いろいろな可能性を秘めた子供たちの姿がそこにあったことは確かだ。そしてそういうそれぞれの人生を歩んできている。でも、そういうことは関係なさそうだ。
やはり、時空を超えていくことがあるのだと、私はその時思った。ほんのちょっとの勇気が必要である。時空を超えて仲間と恩師に会うには、ほんの少しだけ自分を振り返ることが必要だ。恩師に会いみんながどんなことを想ったのか定かではないが、たぶん同じDNAを持ち続けていると、そう感じたのではないだろうか。
私は恩師に恵まれていた。やはり素直さが大事なのだ。いくら年月を重ねても、自然の中でいろいろな環境の変化をじっと見つめていくことが必要だ。自分たちを信じて自然体でいることが、時空を飛ぶための力と勇気を与えてくれるのだと、私はそうおもう。
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何が地域を支えているのか。それは人々の思い入れではないだろうか。
土地に対する愛着がいい街やいい村にしていくのだろう。
その土地に生まれた子供たちのことを想い、教師になる人、スポーツを振興させようと子供たちへの指導を買って出る人たち、その土地の基幹産業を支える人たちがいる。
どんな要素がひとの心をひきつけ、揺さぶるのだろうか。人々の心根や安心・安全な食べ物の存在、生産、供給ではないだろうか。その土地のことはすべて知っているというような人たちの数が多い。情報が共有されている。農地の整備、道路・橋梁の建設立地条件などは地質、地勢など、いろいろな要素が関係している。地図の上に線を引いて決められる問題ではない。
そういう意味では、都会は失格であろう。だれもが無関心とは言わないまでも、その数は少ない。どうせ住むことを主要な条件で選択した土地ではないからではないか。住環境を求めて郊外に移る。通勤に時間がかかる。愛着は生まれない。仕事の場でしかない。そしてそれも一つの地域の力である。でもバランスが悪い。
では地方はどうか。住環境がいい。でも仕事は地場産業という農林漁業が主体となる。経済力では都会に負けてしまう。人も経済力に引き寄せられて移り住まざるを得ない。そこもバランスはよくない。
ではどうするのか。都会とか地方という区分でみる必要はない。双方を含めたカテゴリーで一つとみることだろう。双方のバランスの悪さが補完しあい、バランスのよさをつくりあげることができるのではないか。
そんなに簡単ではないだろうが、基礎的なヒントになっている。そして地域としての底力を発揮させようではないか。日本も中国・韓国・アジア諸国に負けてしまうと危惧するのではなく、双方の補完で大きな地域の総合力を築き上げることができると信じられないだろうか。
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水槽でみるクラゲはきれいな芸術品に見える。
エチゼンクラゲなどの大型は漁業被害をもたらす嫌われ者だ。そんなクラゲたちを20種類ほど集めたユニークな水族館がある。鶴岡市立加茂水族館だ。こじんまりした建物の中にそんなクラゲコーナーがある。
日本海は荒いので、場所の選定が大変重要になる。大きな岩陰になっていて立地条件はよい。近くに漁港があり、水産高校もある。たしかに触手には毒もあるし、嫌われ者だが、これからはその神秘のベールをこの水族館で大衆の目にさらして解き明かされる時がくるだろう。大勢の関心があるときに、いろいろな発見もある。
まず私たちは食料として海洋生物を見るし、環境にどんな影響を与えているのか、その役割は何なのかを知りたいと思う。
いつか飼育してみたいものの一つだ。
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うらやましいですね。季節があるのは刺激になるでしょうね。そんなところに生まれたかった。
そういう言葉を常夏の国のタクシーの運転手がいった。なるほど、違うのだ。日本人の多くは逆に常夏の土地を羨ましがっているのに・・・。
私はどんなことを四季に感じるかというと、春の待ち遠しさである。それはうれしいということだ。かわの橋の上がまず雪がなくなる。そこに集まるのはみんな同じ気持ちだからだろう。どこかに集まるのはそこに人の想いがあるからだ。そういう小さなことをとおしていろいろなことがあることを知った。空想し、実際に見てみたいという思い、行ってみたいという思いを馳せるのはだれにもできるし、みんながやってきたことだ。
何が大事か。フォーシーズンを通して感じることだ。私は多くのことをできるだけ見たいということだ。記録ではない。自分の目で体だ感じることだと思う。そこに四季のある国にうまれたヒトの楽しさがある。
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憲法を読んだのは、子供のころの教科書でしかない。
漫画本がでたことを知っているが、なかなか買う気持ちにはならない。今、インターネットで見れるはずだが、本当に憲法の条文を見たいとは思わない。あまりにも契約の条文とかが多くてそういう文章に辟易しているからだろうか・・・。
でも、大事なことだ。もし大きな出来事があり、行動を起こすなら、根拠が必要だ。法律の元は憲法だ。そこで判断しなければならない。そしてその憲法に改正論議がある。そういう根本を直すと、すべてが変わるだろう。そうなら、なぜ改正するのかという理由が一番大事なのだと私は思う。
でも、あまりなじみがない。世の中が必要とするのはどんなものであり、どんなことだろうか。その行動や活動のもとになるのは、私たち普通の人々の考え方ではないのか。現状に対するコメント、そしてこれからの夢、希望、次の世代への期待などである。・・・・・ということは、一人一人の心に1国の政治も大きくかかわっているし、国の繁栄とか衰退にも関係しているのだ。
何か必要なことを忘れていたような気がする。今日は憲法記念日だったのだ。さらっとよんでみることにしよう。
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結局、休みは何日あっても満足することはない。
連休の過ごし方は難しい。そして、それが楽しい。楽しい休みがいっぱいある。
これが連休のイメージだ。
あんなことをしたい、こんなこともしたい。いっぱいやりたいことがあるのだが、忙しくてできない。ここがミソだ。現実に私たちはこうしたい、こうありたいと思ってもできないことが多い。だから防御本能として、そのダメージをソフトランディングさせるのだ。
あれもこれもそっちもやれる。
何からやろうか。まあ普通に体と心を休めてから、やればいい。いつも懸命に働いているのだから・・・。そういうことになる。まあたまには寝転がってテレビでもみるか。そうしよう。やりたいことは、明日にしよう。そんなことになる。そして休みはまあ飲むか・・・。これが続いてしまう。正月連休も同じだ。まだ明日がある。明日もやすみだ。
そんなうちにもう3日残っているのでなんとかやりたいこともできる範囲だなと思う。でもまだ今日1日はさぼってもいいな・・・。そう思う。そして、ああ・・・もう・・・明日から仕事だ。これで終わりだ。連休の心理ってそんなものだ。やりたいことをすべてやったら逆に疲れきってしまうのが目に見えている。それがわかった上で、いま述べたようなことをこなしている。これでいいのだ。
苦い経験から来ている。連休はだらっとさぼる気持ちで休む。こころを自由にしてやる。それがその後の仕事にも効果的に働くことをもっと前に知るべきだった。大きな代償をはらった。しぬような事故とその後遺症で1年休業し、その後10年、15年を費やして、エネルギーを蓄えた。次のステップに進むには、あふれるパワーとそれを裏付けるエネルギーがなければできない。
連休の心理の中には、何かがある。私は、この心理の中に、立派な人生のライフサイクルアセスメントが入っていると信じている。
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