どこへ行くのか
懐かしい気持ちはだれでもいつでも持っている。
他人のものはよく見えるのも同じだ。いろんなことができても、満足しないのもみんなに共通のものだ。どうしてそんなに欲張りなのかと思うと恥ずかしい気がする。
でも当たり前のような気がする。だれでもそうなのではないかと私は思う。こういう気持ちがみんなの想いとかけ離れたと自分で感じるのは、いつものことだ。そしてそれが特別だと思うのであれば、もうそこに自分の感性が普通ではなくなる。大勢がわからなくなる。老いたという意味だと私は思う。そんなとき、いやそんなはずはないと一度は否定するだろう。そうでなければ自分の意志で認めることは不可能だ。そこからは、自意識がなくなる。そして自分が自分でなくなる。そうしたらどうなるのか。もう己の考え方という意見とかなくなるのではないか。とても嫌な世界だ。
どこへいくのか。
そんなときに私たちの心はどこへとんでいくのだろうか。どこへも行けないかもしれない。そんなものかも知れない。もう、どこへいこうとかいう意識はなくなるのではないか。己が人であるということを忘れてしまうのではないか。
そうなら、いったい私は誰かという世界だ。
そんなことが実はいっぱいあり、当たり前のことなのだ。健康に気をつけようというと、そうれはそうだと10人いれば7人はそういう。でも、10人のうち、8人は決して健康を満喫はできない。みんな子供のころ思った自分ではない。もうその想像の域を超えているのだ。とても子供たちがイメージできる世界ではない。すべての考えや思いを取り払うすごい現実がある。
どこへいくのだろうか。どこへも行けない。足が普通に動かないのだ。
そんなばかな。
どうして若い時のおこぼれを少し残せないのだろうか。みんな使いはたしてしまったのだろうか。そんなことはない。いつまでも心は子供と同じだ。多少カラオケのレパートリーが増えてもそれは大きな変化ではない。単に時間が情報を与えてくれただけだ。
どこはいくのか。行きたいところへいく。それはどこか。
それは、こころのなかにある世界だ。どんなものよりも広くて大きな空間であり、どこへでも行ける時間がある。時空をかけることができるのは、そんな時かもしれない。駆け巡るために生きているのにできないのだ。それはとても悲しいことだ。もっと、精一杯生きたい。
どこへ行くのではなく、精一杯生きることが自分の行き先だと、私はそう思う。
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