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2008年6月

今年の夏

今まで何回夏を迎えただろうか。年の数だけだ。それは、海にいった回数と同じではない。今年の夏はすぐにやってくる。

海はいい。

そこで、泳いだり、日焼けをしたりする。くらげの出る前にもっと海を楽しむのだ。泳ぐだけではない。サーフィンもある。ヨットもある。ボートもある。もっといろんな楽しみ方を学ぼうではないか。

この海に親しむことによって、海だけではなく、宇宙空間へもつながる夢が私たちにはいっぱいできるのだ。海とは、それだけではない。時間と空間の縮図のようなものだ。アインシュタインの理論もきっと海にヒントを得ているに違いない。でも、何かつまらない。

今年の夏は、きっといい夏になる。オリンピックも楽しもうではないか。マラソンの野口が二連勝する可能性は大きい。そうなったら、本当に祝福してやろう。

今年の夏は、きっといい夏になる。そして、世界に夢を与えるだろう。

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きっとあるもの

きっとある。

自分のできることがきっとある。できないことがあれば、できることもある。できることがあれば、できないこともある。

きっとあるもの。それは、自分が何かに夢中になっている姿だろう。何かに懸命になって挑戦している姿を想像できるだろうか。出来るわけはない。それは、想像するものではない。自分で汗をかいて実感するものだ。

きっとある。人生を感じることがあるはずだ。日々の生活がとてもいとおしくなることがあるはずだ。それは、ひとが心を感じるときだし、身体の存在を感じるときだろう。いつも、私たちはきっとあるはずだという想いときったあったことを感じているはずだ。

きっとあるもの。自分の未来を見れることだろう。自分の思うことが現実になることだろう。そして、もっともっと、現実の世界に想いをもってくるには、想像力をできる限り、奮い立たせることだ。そんなことはだれにでもできる。やろうと思えばだれにもできることだし、現実になることだ。

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もしもオリンピック選手だったら

もし、私がオリンピックの選手だったら、そうしているだろうか。後輩の指導に当たっているだろうか。でもそれはわからない。なぜならば、そんな想像を超えることだから、とんでもない。

もしも、マラソンの優勝者になったら、とても真正面に自分を見れないのではないか。それはありえないことだから。もしも、100mの優勝者なら、もう飛んで帰ってこないだろう。どこは飛ぶかは、帰れないような宇宙だろう。そこで終わるのでいい。人生はそれでバランス以上のおつりがきても足りないし、そこで終わりになれなければ・・・・。なぜならばありえないことがあり得ることはない。どこかで、釣り合いをとらなければならない。それは、人生の終わりを示すことになる。

でもありえない。私は絶対にありえない。そんなことはできない。ありえない。そんな努力をしていない。資格がない。それでも、もしそうだったら、・・・・。もうやめよう。そんなことは・・・。

でもあるなら、どうする。・・・・。応援で我慢しよう。精一杯応援しよう。頑張れニッポンだ。

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資格と仕事

私たちの現実の世界は、実力主義である。だから資格は意味がない。本当の仕事は実力でやるものだ。たとえば、建築士がいる。構造計算と意匠ではまったく違う。そして、建設部門では土木があり、建築がある。両方を持っている資格者も多い。それでも、私の知る限り、どちらかを主力に置いている。

だから、資格で仕事はできない。仕事をしてから、仕事ができるようになってから、資格がついてくる。それと、もうひとつ、資格を取って、仕事をできるようになることもある。それは、個々の興味と実績を積みたいという意志しかない。

資格は必要だ。それが、建築士のように占有権がある場合は、それで飯が食える。でも、できない人もいる。ほとんどの資格は、実力を伴わない。実績も伴わない。そんなときは仕事はできない。でも、ひとは知識を得ることによって、想像力がつき、それを現実にするための創造ができるようになる。

だから、そこのメカニズムをようく知ることが大切だ。要は、否定するのではなく、すべてを肯定することで、次につなげることが重要なのだと私は考えている。つまり、己のことを肯定することで、でききるかもしれない、できるという接点がわかる。

どっちでもいいのだ。資格と仕事はどっちが先でもいい。そこで興味を失わないだけの継続性をもてれば次に確実につながる。

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北京

北京。東京。

オリンピック。

スポーツの祭典。だれのためのものだろうか。多くの優秀なアスリートたちのものだけではなさそうだ。それは、熱狂した1964年の東京五輪でわかる。すごいお祭りなのだ。

高校の先輩が走り高跳びの選手ででたらしい。それで、教室でみんなで見た記憶がある。おれもオリンピックの選手になるぞ・・・。そうは、私の場合は思わなかった。走るのが苦手、運動神経も並みでしかない。だから、悪いがほんの少しも思わなかった。でも、なれたらいいなあと感じたのだ。なんのあてもないのにそんなことを感じさせるのが五輪だ。

もしそうだとしたら、単に否定するのはよくなかったのか。もっとできないなりに努力していれば種目によっては可能だったのだろうか。・・・・否。答えはノーである。だから、楽しみ方がある。見て楽しむ。スポーツはそういうものだ。野球、サッカー、バレー、テニス、ゴルフ、みんなそうだ。

スポーツでは何も道具のいらないもの。それが、子供心の条件だった。手が出ない、足も出ない。そんな中でまだキャッチボールをしたりしていた。ボールとバットがあった。素手でかまわない。

才能があれば、スポーツへ進む。それが一番可能性がある。才能がなければどうする。働きアリになる。そして見て楽しむ側に回る。そう考えるとスポーツってあまり、束縛を受けないものになるが、もし仮に才能があったらどうするのだ。期待される新人なんかはどんな心境になるのだろうか。

スポーツマンは、変わるようだ。変身できるだけの才能をさらに持っているようだ。変に心配というか、偏見の目でみてしまう。アイドルと同じようにどうしても見てしまう。最近は有名人というカテゴリーでくくられる。その中で、すごく転身のはやい人もいる。それも才能なのだろうか。有名になるとか、オーラを持って生まれてきたとか、もともと高貴な生まれだとか、そういうものを振りかざす必要もないほど、才能に恵まれている大勢のスターがいる。

スポーツもお笑いも、この社会に本当に必要なのか。この社会の重要な産業としていつまでも継続するものだろうか。それは、ひとえにわれわれ消費者のニーズにかかっている。

北京オリンピックは、ぜひ成功してほしい。日本の選手団を私は応援している。いくらか資金を支援しなくてはいけないかもしれない・・・。そういう価値も十分あると私は思うし、それ以上のものをこれからの人生できっと、自分も得られると考えている。

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俳句

雀の子、スズメのこ・・・・。小林一茶の句が、絵本にあった。

ときどき思い出す。それは、無意識のやさしさなのだと、私は思う。意図することではなく、何もしなくても持っている大事なもの。それが、この一茶の句にある。

みんながリスクを抱えている。それを心配するこころがそこにある。それが、わかる。今の世の中はどんなことが大切なのだろうか。つまらないものが大切だというと、天の邪鬼のようだが、すべて表裏一体なのだ。そのことに気付かない人たちが多い。天真爛漫な大人たちの心の中には、どんな深刻なくらい人生を送っている人たちにも負けないぐらいの闇もある。それが大人なのだ。どんな暗闇にも光はある。

・・・そこのけ、そこのけ、お馬が通る。はたして、主人公はスズメがお馬さんだろうか。それとも絵本に書いてあった一茶さんだろうか。それとも、その周りの子供たちだろうか。

私は、絵本の中のこどもが主役だと想っているから、この場面を忘れないで覚えているのだと思う。

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むかしからの音

どこか電車のなかで、轟音の中で、頭の中に刺激してくるものがある。音楽というのは、ある種のマッサージではないのか。音波を空気や私たちの体の骨・皮・筋肉・血管・内蔵などをとおして脳に届ける。だまっていると、たしかに血流の音もわかる。心臓の鼓動だ。音源はいっぱいある。呼吸音も同じだ。むかしからの音もそのなかにある。クラシックといわれる新しい音楽は、そういう私たちの身体の構造を踏まえて創られたのではないだろうか。なぜならば、脳学者が言っていることが、8割かた当たっているのだ。クラシックのある種のものは、脳みそに直接訴える力をもっている。創り手がそういうことを自分の感性として磨き、まとめたものなら、たしかに意図が伝わる。今、昔からの音について想うと、そう納得できる。

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モノづくり

なにかとんでもない世界に迷い込んでしまった。

泣いている自分がいる。映画とかTVのドラマを見て感動している。

モノづくりの先生方が意図したものが、伝わったのだろうか。それとも感受性の問題だろうか。時代の問題意識が共鳴しているのだろうか。

すべて、そんな形でシミュレーションが創作者の中では行われているとしたら、・・・。どんな効果が社会的にあるのだろうか。理想だけではないもの、娯楽目的のもの、いろいろだ。でもどんなジャンルでも心を打つものがある。

アドベンチャーものしかり。戦争ものしかり。恋愛ものしかり。家庭ものしかり。伝統ものしかり。やくざ映画とか、農民物語とか、サラリーマンものとか、政治ものとか、・・・。いろいろなネタがある。そしてそれぞれが感銘を与える。

モノづくりは、心理的なものでは意味がないと、常々おもってきたが、こちらのモノの方が、つまり心理的なものの方が影響が大きいと最近は変わってきた。

なぜか。

それは今はわからない。でも、最後は実体のあるものに変わっていうための、大切なモノという位置づけに変わりはない。私の考えとしては・・・、であるが・・・。

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こころとからだ

ひとは恋をする。年ごろになると、男性も女性もそれなりに変化する。

そして、変わるようだ。こころとからだがその変化の象徴になる。それは、こころが体の変化を感じるのか、からだが心の変化を察知するのかわからない。でも、それは両方があってはじめて恋になるものである。

こころとからだはやがて、ふたたび変わる。老いる。そして・・・。

無から無へと移り変わる過程で、何かが活動し、次の世代へと動かすのだろう。

私たちが深層心理といっているのは、たぶんこのDNAの伝達の中で行われているのではないか。もし類人猿から人間になったとか、その前は・・・、その前は・・・、ずっとさかのぼると、有機物になるのだという。タンパク質ができた時点にずっと蓄積されたものが、そこに詰まっているらしいというのは、真実味がある。

とすれば、ちょっと工夫すれば、古代からのすべての変化をそこから取り出せるのではないか。家系図というものはそんなことから残されているのかも・・・。天皇制とか、貴族制度とかあるのは、そこに何か隠された才能が伝えられているからかも・・・・。

なぞは深まる・・・。

こころとからだの神秘さは、こんなことを空想していると際限なく広がっていく・・・。小さなウィルスが人類滅亡計画を今画策しているのだとしたら、それに対抗するDNA情報もきっとあるのではないか。

でも、人間はその前に、目の前の現実の中で争うことの方が優先プログラムとして決められているようでもある。

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小説家という仕事

偉人の中にはかならず小説家がでてくる。

私は何か想像で物語を作っている人が、どうしてえらいのかわからなかった。小さい時の話だ。なぜ、小説家は偉大なのか。現実にも多能な小説家が政治家になって活躍している。

なぜだろうか。いやなやつの種類に他人のあらさがしをするというのがある。でも、今はそういう視点が必要なようだ。ちょっと勘違いをしている日曜朝の番組もあるが、それはそれで仕方がない。大臣を呼び出して、生放送の中で詰問する。そんな場面を見ていると、何か公共の電波を使って、このヒトは何をやっているだろうかと憤慨する気持ちになる。もちろんそこでチャンネルは変わる。

何か大衆とか国民とかいう言葉にへつらっているのではないか。正義の味方としていつもいなければならない。それには、過去に罷免の数の多い省庁の大臣をいじめることで、正義のヒーローになろうとしているのか、そんなことはあり得ないので、無意識に勘違いしているか、大衆をバカにしているのだろう。

公共のコミュニケーションの方法をこれからはもっと研究していいのではないか。

昔ながらの手法で国民の前に大衆の前に顔を数多くだすようになると、何かが裏で動いている。もうそんな時代ではない。世論は、もっと公正な方法で抽出することができるはずだ。偏ったコメンテーターの意見で、意図的に影響を与えるようなことをしてはいけないだろう。

小説家という仕事は、そういう面で客観性総論としてはあるのかもしれない。

でも、才能がなくなってそこで転身しているだけなのかもしれない。そうだ・・・という答えがすぐに返ってきそうな気がする。でも、ひとつのこの世の中の職業としては、独創性があっていいと私は思う。

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プロの仕事をする

どんな時にもいい仕事をしたい。そう考えている。それはとりもなおさず、プロの仕事をすることだ。

では、プロとは何か。素人に毛の生えたようなものではないのか。難しい。秀でている才能があり、最善の仕事ができる。他の人にできないことができる。みんな嫌がる仕事を進んで出来る。みんながやりたいことをよりよくできる。単なる名称だけのものもある。

文化や芸術では本人がそれを主張するしかない。もちろんその成果を認めてくれるひとやそしきや権威が必要になる。でもそれでいいのか。他人の評価を受けようとすることで、判断できるものではないはずだ。医者はプロだろう。お坊さんもプロだろう。政治家もプロだろう。職業はこの世の中にあるプロの製造場所である。大勢のプロがいるこの世の中は、とても楽しいものに思える。

食べ物のプロ。魚、肉、牛・豚・鶏、野菜・農産品・果物。生産者のプロがいて流通のプロがいて、消費する消費者というプロがいる。それを批判する批評家というプロもいる。みんながプロなのだ。こと生活に関しては消費者はプロの中のプロである。とうことは、みんながプロなのだ。

教育の世界では、先生がプロであろう。それは、きびしく鍛練された精神と肉体を駆使してよその子供を教育する。この社会の次代を担う世代をはぐくむものだ。それでは、大人はこの社会の生活のプロだろうか。素人ではない。でも最近だれも私はプロだとは言わない。後ろめたさがあれば、それはプロとしての面汚しになる。

私は、みんながプロとしてこの世の中を生きていくことで、私たちの社会がよくなっていくと信じている。プロの仕事をするには、そういう決意と覚悟がいる。

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地域の産業

自分の住む土地は、いいところが良い。だれしもそう願っている。それは、時としてそういう風に思わない土地に住まざるを得ないときに、そう感じる。ということは、反面教師の土地も残っていくということだ。

すべて一律とは私は思わない。時と場合によって・・・・。みんな同じだ。TPOによって変わる。一日何をしたいか。そう問われれば、何もしないでいたい・・・、と答えるのは、何もしていないときに多い。結構時間がない時は、あれもこれもしたい・・・、いっぱいあって・・・、そして何もできないことへの言い訳にする。

結局なにもしない。何もしていない。そんなとき、地域を考えると、他の地域の人たちが、あなたの住んでいるところはいいところですね・・・、といわれるとうれしい。自然に顔がほころぶものだ。私もちがう土地にいくと何か心があらわれるような気がする。そして、自分たちの住む土地のことを考える。

地域の産業は、そこに住む人たちが支えるものだ。世界の潮流は、コントロールするというような考えが大手を振っているようだ。理くつの通らない条件のところにスキー場をつくる。そんなところで誰がスキーをするのか。この温暖化の進む地球で、どうするのか。自然の理を無視するというミスマッチがいいとかいう評論家がいそうだし、真剣にそんなことを考えている資本グループがいるのだ。

でも、それをいうと自分の土地を変えようとしているのかもしれない。自然の理を無視して、無理じいをしているのだ。どうしてそんなことができるのか。地域の産業をつくるということなのだろう。でもそれは、まったくの砂上の楼閣でしかない・・・。

だれが、いつ気づくのだろうか。お金があれば何でもやっていのだろうか。もっと、ヒトは質素に天命にしたがった生き方を大事にすることだ。ほとんどの人が生まれて死んでいくという中で何かをするにしても、もっと違う方が、地域産業の創出になるだろう。

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電子辞書のキーが動かない

電子辞書を買った。

キーが3つ動かない。何か機能が複合してそうなっているのかと思ったが、単純に故障のようだ。あんなに壊れにくそうなものが、やはり動かなくなる。品質管理に問題がある。もしそれが宇宙開発に使う部品にでたら、それはとんでもないことだ。

みんなそう想う。そして、そういう特殊なものには起こらない体制がチェック機能に含まれていると想像し、そのまま納得したりするだろう。そんなことが起こりうるし、どんなことでも起こりうる。もともと確率の小さいことはわが身には起こり得ない。そんな選択のあるものには、該当しないという確信が実はそうではない。

どんなことも起こりうる。いいこともわることも両方あるのだ。どうしてか。この世の中の一員だからだ。

どうして辞書でこんなことが飛ぶのか。それは、おかしくも何ともない。オシャカものはどこでもある。どんな優良企業でもある。でも否定し続けた1か月、自分の使い方の不慣れだと90%思っていた。そんなに信用していいのかという気持ちは、自分は事故に遭わないというようなものと同じだ。幸運だ。そう思おうとする気持ちはいつもある。

でもあるのだ。パソコンしかり、重宝すればするほど、動かなくなった時の損失は大きい。機械はいつか壊れる。それが当たり前だ。常々そう言っている自分の身になると、それはとんでもないことだ。どうして、バックアップを取らないのか・・・。面倒なのだ。

どんなシステムがここに当てはまるのか。リスマネの方法で官がて見よう。それも簡単なものに・・・・。

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飯よりも好きなもの

何をおいても私たちは食事をして栄養を取らなければ生きていけない。

1週間どころか、3日間ぐらいで終わりになるのではないか。それは命と同じ価値を持っていると言えよう。食うことで命を維持する。

では、それだけでいいのか。

やはりだめだ。こころのケアがついていかない。

では、どうするのか。それは趣味を持つことだ。それも飯よりも大切だと言えるようなものを持つことだ。そうすれば人生はまた違うものになる。

それで、ひとは変わる。変身である。そんなことができるのか。だれにでもできる。

趣味を持つことで、健康に良いことは、こころが豊かになり余裕が生まれることだろう。そしてあくせくしなくなることだろう。飯よりも好きなことってでもどんなことなのか。

そんなものがあるのか。

やはり仕事だろうか。

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拉致問題について

もし自分のこどもが拉致されたら、とても黙ってはいられない。もし、生きているなら早く返してもらいたい。なんと穏やかなんだろう。どうして取り返さないのだろう。

どうして取り返せないのだろう。そんなときに日本人は税金を国家に払っているのではないか。どうしてもっと国としての姿勢うんぬんの問題ではないことに気付かないのだろう。

取り返すのだ。自分たちの身内が拉致されているのだ。現実は神隠しでもなんでもなく、隣国の国家権力で誘拐されたのだ。誘拐事件は大罪である。この世の中でもっとも卑劣なものだ。どうして、日本はそれができないのだろうか。世論がわかないのだろうか。日本海を一億の日本人が泳いでいったら取り返せるだろうか。国民総出で同胞を取り戻すのは、今しかないのではないか。

その意志をしっかりと示す必要がある。断固として、やりぬく決意が必要だ。日本人の魂を見せてやるのだ。同胞を取り返すのにどんな手段でもやりぬく決意と覚悟が私たちにはあることを見せてやろう。

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われ先に

今、世の中は変わりつつある。

買いだめはもうしないだろうと私は思う。

なぜならば、今の日本人は配慮が行き届いている。われ先にという気持ちはもうありえない。

やはりみんなのために自分がやる。

数年前までは、個人個人が認識しない限り、この問題は解決しないといわれていたことが、今や、地球温暖化防止のためには、何が大切か、それは一人一人がエコに配慮することだと小学生はもちろん、幼稚園やまだよちよち歩きの赤ちゃんまでいう。

そんな時代になった。価値観が変わった。あるがままに生きるという姿勢と、ある目標に向かってゆっくりと進むという時代になったのだ。

今、世の中は変わった。

そして、ヒトに基本・原則が戻ってきた。そこにあるのは、充実した人生ではないか。われ先に進むのは、うらやましいように感じるか、それとも気恥ずかしいと感じるか、または、ありえないと感じるかで世代がわかるような気がする。

私は昔からのろまで競うのが嫌いだったから、そうしなくていい世の中は歓迎する。

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世の中は進む

わが身がどこにいようとも、世の中は進む。関係ないとは言わないが、それはそれで進展する。だから、気が楽といえばそうなる。

みんな個々が主人公なのだ。スパイダーマンでもスーパーマンでも、ウルトラマンでもないけれども、普通の人間がこの世の中ではヒーローなのだ。そうでなければ、だれもこの世の中の出演者として了解はしないだろう。どんな役割であろうとも、そこに必要性を探しながら、OKするのだ。世の中は、ひとりでに進むものではない。そこにあるものを考えながら進んでいる。決して無視はしないし、いやできないのだ。この世の中に生きているひとりひとりを無視はできない。出演者はそれぞれの価値をもっている。

だれに焦点を当てるのか。それが物語をきめる。だれもが主人公になれる。そして誰もが脇役になれる。そして誰もが傍観者になれる。でも順番が回ってきたら、自信をもって引き受けよう。みんなそれぞれが、自分の世界では主役なのだから・・・・。

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エコとリサイクルと3R

三つのRと知っているかい。そんな言葉が巷に知れ渡って早数年が経過する。それは浸透しているが限度がやってきたようだ。エコという環境の問題提起は、いろいろな人が行っている。

その中でリサイクルならわかる人、エコのほうがわかりやすいという人、いやそれは3Rでなければいけないという人、いろいろであろう。ヒトは結局、何を課題として取り組むのかが関心の的になる。政府は国民の関心の高いもの、評価されるもの、そういう中で独自の政治的な判断で物事を進めるのだ。

環境がらみの問題は多い。すべてがそうであろう。社会環境なんていうのはどんなことでも対象にしてしまう。そんなほうがいい。多くの専門家が集まり、興味を持っているものの方がいい。エコはそういう意味で、こんな話のときに、それは経済のことかという人はいないだろうし、いても容易にエコに結びつけていけるものだ。どんなことでも関連しているのは、これからの世界にとって大事な分野になると言わざるを得ない。

エコロジストであることは、これからの社会にとって必要最小限の要件かもしれない。でも、本末転倒の判断はよくないだろう。とくに日本の社会でクジラを盗んではどうにもならないだろう。兵隊は豪州の本部とは違うというところをぜひみせてやるべきではないのか。もっと違う視点で行政のプロを負かしていけばいいではないか。生半可な知識では日本政府の百年にわたるクジラ論議・理論を負かすことは不可能だろう・・・。

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ウェブログ

ウェブログの省略がブログだそうだ。実は私も知らなかった。たしかにログブックというのは航海日誌とかいろいろな記録をさす言葉だ。ウェブのログぶっくという意味だという。

でも、ブログは何なのだろうか。個人が公共に対していろいろと問題のない範囲で公表し公開するものだと私は理解している。個人情報を秘密にするかどうかと問いかけれられる時代である。サービス業に従事する組織の代表者でも公開しない人もいるようだ。どうしてだろうか。いろんな要素があるので、ひとまとめにどうのこうのとコメントするつもりはない。

でも、それでいいのか。これからの社会に貢献しようと考えるならば、個人情報はできるだけ、公にしていかなければならない。それが、当然のことであろう。利害関係から中傷誹謗をうけることもあるだろう。いらぬお節介をせまられても、それはもっと目標に向かって前向きにあるべきだと私は思うので、できるだけ公開する。それには覚悟がいる。飛行機に乗るとか、新幹線に乗るとか、仕事上での乗物に乗ることと同じだ。あることを目的としてやるには、その代償を覚悟していなければやれない。それが条件となる。最低の条件であろう。

情報は興味のないものは、無意味だ。それが公証の役割を果たしたり、その人の覚悟を表現している。それが実は大事なのだと私は考えている。まさにブログはそういうものをまず試験的に乗り越えるための試金石のようだ。そこで公表することの責務と義務を負う。現実で考える材料になるし、それは何よりも自分に対する評価と信頼でもある。

だから、それが決して人気取りとか、セレブのブログである必要はまったくない。どれだけの人が目にするかそれは普通の人にとって一人でも自分以外の人が見てくれているという現実が本当に重いものだと今私は感じている。それは趣味であっても、それだけではないもっと違う覚悟をもたらすものだと私は今痛感している。

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漁船遭難

日本の漁船員は優秀なひとが多い。最近は漁業につく若者が減少し、漁業者の高齢化が進んでいるがそれはどこでも同じだ。単なる経済的な理由ではもう船に乗りメリットは確かにない。これは商船でも同様だ。

しかし、船舶の乗組員の危険性は高い。だから、高度な判断が要求される。沖ではだれも助けてはくれない。それが最近は変わった。依存することが可能になった。今、ここにいるという位置情報がすぐに提供できる。魚がどこにいるかもわかる。それでも、基本は同じだ。

波浪は怖いし恐い。それは、映画でも究極の大波というような漁船映画がある。そんな時の判断と実際に起こることは、すごく大きな差がある。現場では現場でしかわからないことが多い。そういう知恵はやはり、若い人たちに先輩たちが伝えていく大切な産業維持の基本ではないだろうか。すべて泡になる。水泡に帰す。それは日本のクジラ産業しかり、カツオもマグロも同じような状況になるかもしれない。

どんなに技術が発達しても過信してはいけない。最後は人間の動物的な感覚が必要だ。海で生きることは本当に大変だ。そして、一度でたら、一度乗ったら、あとは天命にまかせるしかないのは飛行機も他の乗り物も同じようなものだ。三角波の科学的な情報・知識は生かせなかったのだろうか。もっと真剣に反省する必要がありそうだ。・・・・。

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ちから

ちからはちからを呼ぶ。それは本当だと思う。

最近、地方は活力がないという。しかし、今、そういう無力感の漂う地方の底で流れているものがある。地方のちからだ。それがいまに脈々と表に出てくるのだ。もうすぐだ。そんなちからを感じているのは私だけではないだろう。

あなたも同じことを感じているか、もうすぐ感じると私は疑わない。それは、地方の良さというちからである。それは、どうやっても無力になんかなりはしない。

そんなちからが、いまの日本には国中に満ちあふれている。

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おかねを通してみる世界

世界の動きを経済でみる。会社の活動を財務でみる。たしかに大事なことだ。どんな仕業もそこに集約されて成果を出さなければ、いけないことになっている。

だから、過ちを犯すことになる。社会の一員としての責務を侵すことになる。そんなことが多くある。だれもが、すべての法律をしっているわけではない。だれもが有能な法律家の指導を受けて活動できるわけではない。

だから、私たちの祖先は社会的な責務を形を変えて伝えてきたのだろう。それが、たとえ一時的に社会の流行にのっていなくても、それは生活するという条件である衣食住を得て、子供を育てて、そして、生きるということの大切さを教えてくれているのだと、私は思う。

もし、おかねだけを通してしか見ない世界は、たぶん歪んだものだろう。最初ははっきりとしていたものが、次第におかしな曲面を描くようになれば、それを平面としてみるには、誤りを作らなければならない。そこから、はみ出すのは、実は批判する本人なのだということをしらないでいる。

金融商品を売る。金融商品をプロジュースする。それは、どこかにある夢を使って、巧みに操れば飛ばない飛行機もうまく人を運べるというようなものではないのか。お金を稼ぐ。限度がある。支払に不安がある。そんなのは当たり前だ。私たちは、そういうときに、私たちの先祖がどうしたのかを忘れている。みんなでかたまって一致団結して困難に立ち向かうことではないか。一人ではできないことが、二人、三人とあつまれば可能になる。

一番の敵はさみしさかもしれない。ヒトはどうしても他人に依存し、この社会に守られて生きているのだ。だから、さらにそこで自助努力を手放さないための戒めと具体的な方策を持って生きなければいけない。

怒りっぽい人は、絶対に怒らない・・・、とか。早合点の人は、絶対に即決しない・・・、とか。いろいろあろう。私は、おかねを通してこの世の中をいつも見ていると、モノとヒトがいてカネがあるという構図を忘れてしまうのだと改めて思った。

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自信過剰

あまりあっても困る。それは自信だ。

ときどき自信過剰になって、得意になっているひともいる。それは、何かあまり批判するのは好まないが、そんな雰囲気の時にちょっと行き違いがあると、それはとてもいやーな気分になる。やはり過剰なものはよくないようだ。

腹八分目というのは難しいが、そこで制限するのが、ひとのこころとからだのために効果的だと昔の人たちが理屈抜きで言い伝えてきたのだろう。でも、今は飽食の時代と言われて久しいが食べない人はまったく無視しているようだ。それも、他のやりすぎによるものだろう。過剰な状況はよくない。プラス方向でもマイナス方向でもそれは同じだ。

自信は、自分と他の人たちとの間でみんなが同じ条件で自分であり、一方、他人である。だからそこのバランスがとれていなければそれは無意味なのだ。

そして、適度になければいけないものだ。どの程度だろうか。まあ、ちょっと足りないぐらいがいいのではないか。

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海を生かす

海と魚、そして人。海洋民族は、狩猟民族だろう。大海原を命の限り、航海したのだろう。そこで食べ物を採取し、やがて住み着く。それらが今の島嶼国だ。小さな島国はあまり変わらない生活をしている。舟がある。カヌーで簡単なものだ。ダグアウトカヌーは彫りこんであるが、もっと簡単なものは丸太そのものだ。単に、滑らないように腰掛けの切り込みを入れたようなものもある。

周囲にあるものを使って対象に近づく。追い込む。釣り上げる。引っかけるということだ。網に絡み取る。いろいろある。海を生かすにはそこにある資源を活用するという目的がなくてはならない。食べ物がなければ海からいただくことになる。それは、活用することになる。時に魚の餌食になってしまうことも、お互い様のような危険といえようか。

生かすためには必要性がはっきりしていることだろう。そしてできるだけお金をかけないことだろう。そんなことが実際にできるのか。それはできる。いいものを手軽に採取する。そのための技術とノウハウが必要だ。

少しだけ、見方を変えよう。遠い海は近い海でもある。そこに住んでいる人がいればである・・・。みんな友達になる。ないものを与えてもっているものを活用してもらう。そして、逆も同じである。海という資源を生かすには、みんなのためにその空間を活用することだ。

もっといろいろな使い方があるはずだ。もっとみんなで考えていこうではないか。

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組み立てること

いろいろな素材がある。それらをどう活かすか。地域振興、とくに地方の活性化という問題はどこに原因があるのか。資本が地域に密着していない現状では、どこにでも飛んでいく。生活を自然の形で残すひつようがない今、多少の投資はあまり関係ないようだ。暑熱下にドームスキー場を作る。極寒の地に熱帯プールを作る。どこか方針が狂っているとしか言いようがない。

そんなことが服装でも起きている。暑いところで、冷房の利いた空間にいると、それはファッションも極寒のものになるだろう。寒いところで、暖房のきいたところにいるとそれは同じことだろう。

でも何かおかしいと感じないだろうか。不自然だ。土地に付帯しない、土地に愛着を感じない企業風土も同じだ。そのファッションスタイルは自然の法則を無視した資本依存の世界でしかない。お金がなければ自然はない。ジェラシックパークも危険動物を人為的に囲ったものだ。自然の猛威でもし不具合が発生すればそれは、そこで終わりになる。

そんなリスクをどうして異常だと言わないのだろうか。よくわからない。環境問題で、CO2がその原因なら一番大きな排出先であるものをなくさなければならないだろう。でもそこが今の経済を支えている。技術を支えている。そんな時代の趨勢はすぐに変化するのだが、今は離れられない。もともと消滅させなければいけないものを、言葉を変えて削減という。1000分の1ぐらいにしなければいけないものを、半減で大幅削減という。それは五十歩百歩だとはだれも言わない。成果がでない範囲の違いを評価することでごまかす。

組み立てることで、いろんなことができる。ファッションも同じだ。でもまずは地域に密着しようではないか。この私たちが住む土地を活用し、そこの生活を楽しめるように、地域経済の振興を考えようではないか。資本は、もうけを追及してどこかへ行ってしまうものだが、そこに地域住民という形で人材を育成していかなければ、まるで係留地のない気球のようなものになる。それは、すぐに老朽化し、どこも逗留すらさせてもらえなくなり、朽ち果てるのは目に見えている。

ここらで考えようではないか。今ある地元の資源を活用する組み合わせをしっかりと組み立てていこうではないか。きっとあるはずだ。ひとがいる限りそれは不滅だから・・・。

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体を動かす

体を一日中、動かさないと感覚が淀む。

そして毎日続けるともっともっとという中毒症状になる。やればいいってものではない。限度がある。適度にからだを動かすことが大切だ。

同好の士がどんなことにもいる。

必ずいる。

どんな些細なことでも、誰にも言わないようなことでも必ずいる。それが罪悪感につながるようなことでも、表彰されるような善意のこもったことでも、どんなことでも必ずいる。それは驚きでもある。

一番わかりやすい。体を動かすことで生きていると感じることができる。

痛みがあって動かせないとき、リハビリがきつい時、そんなとき、体を動かせる、歩ける、走れる、首を上下左右にできる、ラジオ体操ができる、・・・。いろいろなことが、とてもうれしいものになる。

一度できなくなると、本当に些細なことでも、すごく見える。

若さというのはそういう宝庫だ。それが老いてくるとひとつずつなくなっていく。当たり前のことが、できなくなる。

それでも体を動かせる範囲でいつまでも動かしているという感覚を楽しむのがいい。

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未来の生活

近い将来なら、なんとか想像できる。どんな生活を送っているのかが、容易にわかる気がする。それが、未来となると全くわからない。

宇宙。海洋。地中。いろんな空間があるのだから、どうなるのだろう。

今でも砂漠の民がいる。少数だが今もいる。それは数千年前という単位での残存している生活スタイルの一つである。水と電気、そして移動手段。もうひとつ食べ物。これらが生活をどう変えたのだろうか。そこに固執するか取り残された人たちがいるように、これからも近い将来といえる数千年は同じようなものではないだろうか。

それが、未来となるとやはりわからない。

その答えは私たちのこころにあるのではないか。ロハスといわれるように自然回帰になればそれは自然な形の生活が主流になる。もちろん取り残された贅沢派がいるだろう。はたしてどうなるのだろうか。

必要なものを自分たちで手に入れる努力をしなくていい社会、他人依存とかが当然の社会、そして依存するものを支配する社会になれば、それは今の私たちの生活が求めるもののひとつとして容易に想像できる。だが、本当にそうなるのかは、私は最善ではないし最悪に近いような気がしている。

だからそういう選択をヒトはしないのではないか。私たちの細胞には生存するという命令があるという。子孫を残す。そのために生きる。とすれば生きるための選択はたぶん普通の衣食住というスタイルで自然を大事にしたものになるのではないか。議論をすすめていっても整理すれば当然の帰結かもしれない。

未来の生活。それは、ずっと地球の命があと10億年とかいうころを想定したのだ。わからない。その時は、地球存続の問題がでているのか、すでに宇宙の新しい惑星群に拡散しているのだろうか。KIBOというおもちゃのような実験室がその未来をつくるのかもしれない。

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キンギョ

はや3か月が過ぎた。

まだ立ち直れないでいる。生き物を飼育するのは、とても大変なことだ。

わかっているのだが、分かっていたのだが安易に考えていた。しかし、絶対に復活する。今度は準備万端でやる。

そうでなければ金魚がかわいそうだ。飼育環境はまず水質管理だ。それがすべてだ。そして、金魚の遊泳メカニズムを学ぶのだ。

とくに中性浮力が見たい。会得したい。そのためには、立ち直らなければならない。キンギョよ許してくれ・・・。

こんどこそはうまく育てるから・・・、水中での泳ぎを教えてくれ・・・。

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国際感覚

私は東北の田舎の出身である。田舎っぺの典型である。

それが、ひょんなきっかけで国際協力の仕事をすることになった。いつもおどおどしている自分を想像するしかなかったのだが・・・。結果は、国際人になっている。感覚も同様である。

どんなからくりがあるのか。

それは田舎っぺというところにあった。この世界はほとんどが地方で構成されている。都会でも元気があるのは地方出身の田舎っぺである。だから何も変える必要はなかったのだ。たった一つだけ、田舎っぺだというコンプレックスを個性にすればいいのだ。素朴さとか、実直さなどは海外のほとんどの人が持っている。もしそんな田舎っぺという特徴で表される人間性を持っていなかったら、一日も仕事をできなかっただろう。

もともと地域というのは、どんな大国でも世界でも、小国でももっと小さな村落コミュニティでできており、そこにファミリィがある。みんなそういう点で共通の生活感覚を育てているのだ。大国が資源を一人占めするのではなく、小国も少ない国民の数に比例して資源を有効に利用することが大事なのだ。

だから、小さな国への支援が受益者の数が少ないから、援助効果が小さいというのは基本的に間違っている。

どんな大きなもの、長いものもその道のりは一つの歩みから始まるのだ。

国際感覚もいつも私たちの足元にあることを忘れずにときどきは思い起こそうではないか。

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うらやましい才能たち

すごい奴らがいっぱいいる。元総理のお孫さんのロッカー。前総理の息子さんの俳優。今に日本中すべてが有名人の子孫だけになってしまうのではないか。そんな心配をしている。

そしてとても羨ましい。そういう才能がうらやましい。本当は元だれだれのなんとかなんていわなくてもいいのだろうが、現実をそのままとくべつな意図もなく言ってくれるのは、すごいことだろう。力が、才能がなければ、どうしてもこそこそしてしまうだろう。

だが堂々として立派な才能を発揮している。実にすごいやつらだ。そして何か普通の生活感覚で安心な感じもいい。そうでなければ、昔のスターでしかなくなる。自滅するしかなかったのが昔のスターだった。特別な才能はとくべつな健康に恵まれ、とくべつな生き方が保障されているという錯覚を私たちまわりのファンがそうさせていたのだろう。

今うらやましい才能たちは、みんな自由に個性を発揮し生活を楽しんでいるようだ。そんな自由なライフスタイルが実にすがすがしい。私は大好きだ。

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シリアスなコミック

マンガとはとても人生のためになるものだ。そんなことが最近話題になっている。なぜだろうか。それは疑似体験というもので対抗力を育てようというものらしい。たしかに子供のころの男の子の漫画は、それは理想像そのものだった。英雄だった。危機一髪はインディジョンズの比ではない。もっとわくわくしていた。

それが実はいいのだ。決してコミカルな面白さを求めているだけではない。みんな何かを見るときは何か大事なものを簡単に得たいと考えているのだ。結構真剣なのだ。いや一番ものごとを真剣にみたいる時間かもしれない。だから、シリアスコミックは当然のものだ。私はそう思う。そしてそうでなければ買わないし見ないだろう。

今、だから作者は読み手の側に200%立って書いているのではないか。そんなコミックが売れているのは当然だ。シリアスだからと一時バカにされたように感じたのは、それが当然だとだれも気づいていなかったからだ。自分らしく生きるやつに対して、よく使うシリアスになるなよ・・・。そんな言葉を使うのは、その意味をまったく理解していないのだ。

現実はすべてシリアスとは言えない。笑うかごまかすか泣くか。そんなことで紛らわす。マンガはそのままストレートでいい。だから、そういうものがいまもむかしも求められていたのだし、いるのだと私は考える。

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産学官交流

互いに異なることを認めている。

そこから交流が始まる。産学官というグループがある。そこで交流する。産業界は民間である。学問は教育・研究・指導など。そして官は行政である。これらが地域というつながりで、ひとつの目的のために交流を図る。

異業種交流というものもある。

それは、つながりが開発ということであり、知財の活用であろう。ないものを与えてもらい、持っているものを使ってもらう。そういう仕組みがうまく機能することでなにかいままでになかったものが、創りだされる。

創る。作る。造る。つくる。みんな好きだ。

とくに造作とか、創造とか、わくわくすることばだ。そんな活動をどうしたらできるのか。そんなノウハウがなければ何もできない。今、飛び込んでみることにしている。そんな力はないのだが、興味と好奇心はとても止められない。まあ自由にさせておこう。

そんなことを一人で言い聞かせているのだが、なかなかやめそうにない。

産学官という分け方はどうかと思うが、そこに交流があるのは素晴らしいことだ。地域というものをどうやってその土地の特徴を活かし、主役である住人の意思を汲んで地域振興につなげるかは、とても大切なことである。

いろんな人たちがその地域に住んでいていろんなことを地域社会のために実行していることがわかるだけでもいい。専門的なこととか言わずにみんながあの人は何をやっている人だとわかるだけでもいいではないか。

そして共通する地域の産業振興とかいう強い意志と誠実なこころをもっていることをみんなが知ることができるのではないか。

何か恥ずかしさを感じるような地域振興という共通の願いをみんなが担っていくには交流が大事であると私は思う。問題がわかれば解決したも同じである。

問題を提起することが一番の難点であろう。

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小さな我が家

自分のすまい。結構、凝り性の私だが、これはまったくの小さな頓着のない我が家となっている。でも、ほっとする。そしてかなり老朽化してきている。

大きさはとく異論はない。そして、機能もとくにほしいものはない。ちょっと気になるのは、最近の環境関連の設備だろうか。今の時代を生きるのだから、何かそんなエコに関係あることをしたい。ソーラーとか風力とか。何かないだろうか。地下水だろうか。海水をうまく利用する方法なんかもいいのではないか。

防災との関係で水関係は注意する必要があるし、弊害がわかるなら、メリットを活かすように計画を練ればいい。小さな我が家にそんな機能が加わるのはいつだろうか。ちょっと夢もあるではないか。

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忍びの術

気配を消す。

空気を読めないのにどうして気配を消すことができるのかなんて、あほな質問はしないで欲しい。

忍びの世界があった。いわゆる情報スパイであり、時には非常事態に備えた特殊部隊でもあったに違いない。極めて有能な職業集団だったのであろう。今も昔も情報は大切だ。内部情報の問題、倫理でかたずくものではなさそうだ。

利害得失があれば、そこには必ず争いがある。現代でも同じではないか。知的レベルは昔の忍びの域にみんなが達しているのではないか。ただそれをどう利用しようという意識がないだけではないか。気配を消すにはどうするのか。何ができるのか。

大勢の中に入り込みその一員になる。それで気配は消える。周囲と同じものを出すことでなくす。賑やかなグループで一人静かにしていれば異端視されて目立つ、気配を消すどころではない。静かなところではもちろんうるさくするわけはないが、たぶんその静けさが極端に違うのだろう。血液の流れが周囲に知れるのではないか、呼吸とか心臓の音とかがこだまするぐらいに大きく感じられるような雰囲気だったら、とても気配はなくならずにそこに「わが身のありか」としてマークしているようなものだろう。

そんなことが、実は海外にいくと役立つ。その中に入り込むには、まず一番近いところからだます必要がある。それは己自身だ。たとえば魚の群にまぎれることで、獰猛なサメから逃れられるだろうか。銃をもった追跡者(いいか悪いかは別にして・・・)から、逃れるにはどうするのか。飛行機で空の上で何か事が起こったら・・・。

そんな時は、我をどこかへおいといて気配を消すことだ。周囲になにもなくてもマンガの忍者はどこでも隠れる。そんな忍びの術もスポーツの一つではないのか。ICTの一つだろうとすればもっと知的なものだろうか。技術にはちがいないし、処世術で経済学なんかに近いのではないだろうか。

たしかに脳学者の範囲なのかもしれない。

気配を消すには脳がどんな働きをするのか。そのうち空中遊泳ではないが座ったまま浮遊できるようなそんな感覚も同じような気がする。錯覚をさせるという意味では、マジックでもある。ヒトの脳とか認識能力とかをうまく利用するのは、たしかにとても知的なことだと言えよう。

いかに権力者が欲しがる能力ではないか。

私たちはそういう能力をみんなが備えているのだから、社会のために堂々とつかうべきであると私は思う。

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絵の世界

もし許されるなら、絵描きになりたかった。

それもファンコッホとかピカソとかゴーギャンとか一風変わったものが表現したかった。

それは、大きな間違いだった。だれに許してもらうというように考えていたのだろうか。それはだれでもない自分だということに気付かずにいたのだ。だれかが自分の人生に横やりを入れて無理やりに従わせているという錯覚を抱いていたのだ。

それは、でも少し考えると、ひょっとして自分ではなくて社会に対する自分のこころが反映されたものなのかも知れないと・・・、想ったことがある。そうなのかもしれない。自分のこころを見つめないで何が文化を論じられようか、そこに一世を風靡するような画家になれるわけもない。才能を信じることができないのが普通の人間であろう。でもあるかもしれない。できないと理性で考えるとやはりできない。

それは歩くことだって同じだ。一度失った歩行機能を回復するには大きなエネルギーが要る。とてつもなく大きなものが必要だ。精神力がすべてなのかもしれない。あとは身体能力だがそれは五十歩百歩だ。泳ぐ・走る・飛ぶ。そんな軽業師のようなことが、普通にできる。それが世界一になるとすごいだろう。そんなに機能としては変わらないのに競うと大きな差がある。でも、そんな大きなものは望んでいない。できないことはできない。

その代りわたしは絵がとても好きだ。何かを論じるのではなく、単に眺めているだけでいい。それもあまり意味もなくである。いいなあと感じる心が私は大切だと思うからだ。

理由はないけれどもそういう感覚が好きなのだ。絵はいい。

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自分のこととして考えるには

どうも他人事になると、身が入らない。

それが普通かと思うと、世の中にはすごいひとがいるものだ。ほんとうに、ひとごとだとか言うのが、恥ずかしくなるようなそんな熱心な一心不乱にみんなのために活動するひとがいる。

とても驚きだが、日本人の大半はそうなのかも知れない。

それが、周りを気にしてあまり社会とか他人のことに興味を抱かないようにして過ごした結果、冒頭のような発言になったのだ。ときどき私は反省する。

いつも反省しているけれども、なぜか忘れてしまう。

そしてまた反省しなければならない状況になる。それでも私はいいと思っている。それでも時には我を忘れえ何かに打ち込んでいることもある。それはどんなことかというと、国際協力の場である。なぜか、日本にいると動けないという錯覚や先入観があってだめな気がする。そんなことはないのだが、そうなる。

基本とか原則とか、日本の中では考えたくない。

そんなわがままな気持ちがある。貧困撲滅がとても今、問題の大きな部分を占めている。温暖化は地球環境の問題である。地球は水球でもあるのだが、もうすぐ熱球になってしまう。それは、アフリカなど地域の砂漠化の問題であり、資源を追って奥地へと入りこんだ先進国のフットプリントの量に比例して、自然が破壊されている。

そういう中で水の問題も、日本では災害がないとどんなに大切な資源なのかを理解することはできない。

ほんとうに私は穴があったら入りたい。そんな恥ずかしさに身を焼かれるような気持ちだ。でも、そういうテーマ・課題に対して堂々と議論できる仲間もいる。

私は、まず買い物で袋を貰わないようにしようと思う。

小さな一歩から、何事も進む。

自分を時には忘れてこの社会の一員としての自覚をもつのが、意識改革の最初のステップかもしれない。

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ひとのからだ

材料力学に耐力と応力がある。

ひとのからだも同じだろうか。そしてひとのこころもそうだろうか。ちょっとすぐには感覚的に対応できない気がする。鉄や鋼、鋳物、銅、木材、・・