北京。東京。
オリンピック。
スポーツの祭典。だれのためのものだろうか。多くの優秀なアスリートたちのものだけではなさそうだ。それは、熱狂した1964年の東京五輪でわかる。すごいお祭りなのだ。
高校の先輩が走り高跳びの選手ででたらしい。それで、教室でみんなで見た記憶がある。おれもオリンピックの選手になるぞ・・・。そうは、私の場合は思わなかった。走るのが苦手、運動神経も並みでしかない。だから、悪いがほんの少しも思わなかった。でも、なれたらいいなあと感じたのだ。なんのあてもないのにそんなことを感じさせるのが五輪だ。
もしそうだとしたら、単に否定するのはよくなかったのか。もっとできないなりに努力していれば種目によっては可能だったのだろうか。・・・・否。答えはノーである。だから、楽しみ方がある。見て楽しむ。スポーツはそういうものだ。野球、サッカー、バレー、テニス、ゴルフ、みんなそうだ。
スポーツでは何も道具のいらないもの。それが、子供心の条件だった。手が出ない、足も出ない。そんな中でまだキャッチボールをしたりしていた。ボールとバットがあった。素手でかまわない。
才能があれば、スポーツへ進む。それが一番可能性がある。才能がなければどうする。働きアリになる。そして見て楽しむ側に回る。そう考えるとスポーツってあまり、束縛を受けないものになるが、もし仮に才能があったらどうするのだ。期待される新人なんかはどんな心境になるのだろうか。
スポーツマンは、変わるようだ。変身できるだけの才能をさらに持っているようだ。変に心配というか、偏見の目でみてしまう。アイドルと同じようにどうしても見てしまう。最近は有名人というカテゴリーでくくられる。その中で、すごく転身のはやい人もいる。それも才能なのだろうか。有名になるとか、オーラを持って生まれてきたとか、もともと高貴な生まれだとか、そういうものを振りかざす必要もないほど、才能に恵まれている大勢のスターがいる。
スポーツもお笑いも、この社会に本当に必要なのか。この社会の重要な産業としていつまでも継続するものだろうか。それは、ひとえにわれわれ消費者のニーズにかかっている。
北京オリンピックは、ぜひ成功してほしい。日本の選手団を私は応援している。いくらか資金を支援しなくてはいけないかもしれない・・・。そういう価値も十分あると私は思うし、それ以上のものをこれからの人生できっと、自分も得られると考えている。