小説家という仕事
偉人の中にはかならず小説家がでてくる。
私は何か想像で物語を作っている人が、どうしてえらいのかわからなかった。小さい時の話だ。なぜ、小説家は偉大なのか。現実にも多能な小説家が政治家になって活躍している。
なぜだろうか。いやなやつの種類に他人のあらさがしをするというのがある。でも、今はそういう視点が必要なようだ。ちょっと勘違いをしている日曜朝の番組もあるが、それはそれで仕方がない。大臣を呼び出して、生放送の中で詰問する。そんな場面を見ていると、何か公共の電波を使って、このヒトは何をやっているだろうかと憤慨する気持ちになる。もちろんそこでチャンネルは変わる。
何か大衆とか国民とかいう言葉にへつらっているのではないか。正義の味方としていつもいなければならない。それには、過去に罷免の数の多い省庁の大臣をいじめることで、正義のヒーローになろうとしているのか、そんなことはあり得ないので、無意識に勘違いしているか、大衆をバカにしているのだろう。
公共のコミュニケーションの方法をこれからはもっと研究していいのではないか。
昔ながらの手法で国民の前に大衆の前に顔を数多くだすようになると、何かが裏で動いている。もうそんな時代ではない。世論は、もっと公正な方法で抽出することができるはずだ。偏ったコメンテーターの意見で、意図的に影響を与えるようなことをしてはいけないだろう。
小説家という仕事は、そういう面で客観性総論としてはあるのかもしれない。
でも、才能がなくなってそこで転身しているだけなのかもしれない。そうだ・・・という答えがすぐに返ってきそうな気がする。でも、ひとつのこの世の中の職業としては、独創性があっていいと私は思う。
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