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2008年7月

期待は己のわがままでしかない

こんな風にしてほしい。そう願う。

それが通じるわけはない。彼女はもうそんなことを考えてはいない。私はそこからどこにいけばいいのか。もう行くところはあるのだろうか。そんなに依存しきっていたのか。安穏としていた己の頭がどこかで破裂するのが聞こえるし、見える気がする。

そんなものだったのか。実はすべてが仕切られていたのだ。仕組みをつくるという仕事をしてきたのに、だれかが作っていたのだ。私の想いは踏みにじられている。それでも生きて行けというのか。そんなに馬鹿にされても人はいきていかなければいけないのか。

何かおかしい。この世の中はもっと威厳があり厳しいはずだ。そんな不正がちょっとの官僚気味の風味で覆されるのか・・・。夢の悪夢のようだ。そんなことでいろんな貢献がグローバル、環境、平等社会とか言えるのか。恥ずかしくはないのか。

・・・・・・・・・・・・。

ずっと思っているのは、ひととはなに・・・、かということ。だれもそんなことを考えているやつの話を聞こうとはしない。そういう自分もどこか離れすぎていたようだ・・・。ヒトを信用する気持ち・・・、そんなものを忘れている。淡い期待でも己のわがままでも気持ちはしっかりとその心をうつしだすものだ。めったやたらに気持ちを扱うのは止すのがいい。私はそう思う。

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きもち

ひとの気持ちはなんだろう。

人ってなんだろう。生きている気持ちがある場所か。それともひとはそれが何かわからないものかも・・・。なんなんだ。人ってなんだ。ヒトの気持ちとはなんだ。

気持ちはこころか。そうではない。気持ちは社会の心だろう。決して一人だけのものではないだろう。

気持ちをみてみる機会がいつもあるわけではない。ブログにほんのちょっとの間、漏れてくるものだ。

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現実のギャップ

今、頭の中で考えていること、それはかなり進んだレベルのことだ。

現実は、いくつも下のレベルだ。そこまで違うのか。そんな感じだ。やはり、どうしたらいいのだろうかなんて考えてしまう。参加型事業。住民が参加して決めていくシステムのことだ。それは口でいうほど楽ではない。

現実のギャップを知ること。そこからすべてが始まる。現実のギャップ。それは、大きいのだ。すごく大きい。だから無力感もすごく大きくなる。なぜ、そんなことがギャップになるのか。そんなことがわからなくなる。

現実のギャップ。それをしらないと解決できないことがいっぱいある。

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地区運動会

夏から始まる秋の運動会。それは、予選会のようなものだ。もっと小さい地域での大会。それで市の運動会への予選にするようなのだ。

今更そんなシステムはいらないのでは・・・。だれもがそう思ってもなおらないのはなぜ。面倒なのだ。地区の活動はすべてボランティアであり、仕事優先だから、なかなかうまくはいかない。もちろん、選ばれたひとがその期間、推進役となって頑張るからやれるのだ。

でも、もう何か時代遅れではないのか。みんながそう思っているようだ。でも変わらない。地域のお祭りはすべて楽しくわくわくするものでなければならないと私は思う。

平和な時代の夢のようなことかもしれない・・・。

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オリンピックを開催する国々

途上国にとって、オリンピックは国際化への大きな転機になる。

それは、日本が実証済みだ。国民に勇気を与えた。国民に国際人というイメージを少なからず与えた。伝統文化と国際化を認識させた。

年寄りに日本という国の変化と経済力を認識させ、若者に希望を与えた。

オリンピックを開催する国々は、そんな日本の実例を参考にしてそれ以上の成果を出してほしいものだ。

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ひとを大切にすること

人を大切にする。

一番の主役。それは人だ。この社会を構成するいろいろな要素の中で、やはり人が一番だ。誰のために何をするのか。ヒトのために働くことで、自分の生活を充実させる。ひとつのことを何かためにやることは、社会の役にたつ。

ひとを本当に大事にする。そんな世の中には人間魚雷はない。特攻隊はない。自爆テロもない。そんなことをだれがなんのために指示するのか。なんのために思想誘導をするのか。

ひとをだいじにする社会をつくるのが一番だ。

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五輪に向けて、もっと自信をもとう

オリンピック。私は市川監督の東京オリンピックを映画で見た。

それは、すべての老若男女にとって血湧き胸躍るというものだった。そんな感動が再び北京で見られると期待している。結果は良いに越したことはないが、そこに至る過程が実は大事なのだ。

挫折。オリンピックに出たい。そんな選手になりたい。選考に通らないものが大勢いるのは当然だ。まずは、天才級のエリートのスポーツマンである。そこへ行けるのはそういう恵まれた人たちであり、決してあきらめなかった人たちである。

そして、世界にはそれ以上の人たちがいる。ひとの意志の力がどんなに大きな影響を与えるかがわかる。でも、だめなことも、そういう中でもある。先の上には上がある。心の中にイメージされるものが違うのだろうか。

世界の多くの地域で、オリンピックを目指して頑張っている人たちがどのぐらいいるのだろうか。数知れないだろう。相撲もオリンピックになってほしい。いろんなスポーツを見たいし、自分で参加できる種目があれば、それは素晴らしいことだ。

いま、オリンピックとパラリンピックは同等のものだと認識されている。そこに至る努力の過程が大切だという証明である。スポーツは私たちに感動を与えてくれるものだ。そこにスポーツマンとしての認識がしっかりしていれば、強さ以上のものが、イメージとして渡したちに伝わってくる。確実に伝わる。ひとの心はかなりしっかりしたものだ。上を目指すとか改善努力をするとか、古来の伝統を自分のものにして、それを世のために活かそうという人のこころがあれば、私は必ず人々は感動する。

北京オリンピックがそこに迫っている。みんなが期待している次の世界へ向けての一歩になってほしい。テロへの恐怖なんかは、オリンピックに出る選手の努力と意欲がかき消すだろうし、そんなことを画策している人たちは自分の子供たちへオリンピックのあの感動を止める権利なんかない。そんなものは、選手の燃える心の前にかき消されるものだ。

北京オリンピックに向けてみんなでもっと自信をもって、地球が震えるような感動を世界へともたらそうではないか・・・。もっともっと自信をもつのだ。

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日本の技術者教育とワシントンアコード

技術とは地域の発展にとって極めて大事なものだ。

それは、一夜にして手にすることができないからである。我が国の戦後の推移をみると、昭和30年代に技術者教育という重要テーマに取り組む試みとして、工業高等専門学校(工専)が各地に設立された。それは、戦後復興に向けた具体的な取り組みであると私は考えている。ひとつ上の技術者を育成する。それまでは高校レベルでよかったものを、向上させるという必要性から来ている。コスト、期間、品質という経済原則からできるだけ早期に養成する必要性に迫られたという状況が目に浮かぶようにわかる。

今、進学率が高校全入という時代から大学全入という状況に変わっている。なぜか。それはいろいろな面で国際化が進みつつあり、先進国と途上国との間の技術者の交流が必要となっている。そのためには基準の統一による質的保証が要求されているからでもある。途上国にとっては、技術力の向上はもちろん、国際的な活躍の場が拡大するというメリットがある。先進国にとってもメリットは何か。それは、やはり技術力の質の保証にあろうと私は考えている。

生活するためには、生活空間での慣習が大きな要件を占める。公共の場で唾を吐かないとか、煙草を吸わないとか、日本の数十年前には想像もできなかったことが、大衆の中に浸透して当然のこととなっている。そして、世界へといって活躍できる。もし、まったく住む土地の慣習が否定されるなら、そこにおける交流は進捗しないだろう。

日本の技術者教育においても同じだ。ワシントン合意という国際的な枠組みの中で、技術者を養成する。そこに、大きな変化がこの日本でも起きていることが明白である。

しかし、なかなか浸透しないのはなぜか。あまりにも技術軽視の風潮が続いているからではないか。これからの技術経営という分野の重要性が私にはよく見える。工業高校と工業高専と大学工学部、そして大学院工学系との関係が、技術というスケールではひとつであり、いずれもモノづくりを適切な方向へと進めていくには、すべて必要だと私は考えている。そしてそこに技術者としての差別があってはならないし、それぞれの技術力の必要性と重要性をしっかりと認識して、今後の技術者教育にかかわっていかなければならない。

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地域の活性化について

どこへ行っても、地域経済の振興促進がテーマになっている。

とくに、商店街は活気がない。どうしてだろうか。あの勢いはもう数十年前のことだったのか。夜は、早く帰るように11時に終わるように条例ができたりした。それが、今はだれも街に出てこない。

みんな廃れたところには足を運ばない。危ないからだ。ひとが大勢いるところへと集まるのは自然の習性だ。

いろいろなことが対策としてある。そしていろいろな取り組みが行われている。ここで注目すべきは、同じことをやっても成功と失敗がある。地域の差か、それともヒトの差か。それは両方だろう。ひとに焦点を絞る。地域は人間の住む空間であり、そこで生きる。そのために必要なものは、仲間だ。仲間の集まるところ。それがヒントだ。

私の商売は魚にかかわるものだ。それは魚とひとを主役にしたものだ。主役はそこで何をするのか。演出が必要だ。他の役者もちがう視点でみれば、大きな役割を持っている。大切なのは、そこに力を集約することだ。

ひとが住める街。ひとが子供を育てる町。ひとが遊ぶ町。そんな地域がみんなの心をつかむのではないか。あんなに廃れていたところが、こんなに変わった。あんなにしょぼくれていたひとがそんなに活気にあふれてうれしそうにしている。私たちはイメージを膨らませることで、この世の中をありのままに知ることができる。

災害もある。そこから立ち上がるシナリオもいる。いろんな場面がある。どんなケースでも体験することには学びがある。自分では望まないマイナスの場面も数多く人生にはある。そういうものも、大切なかけがえのない経験である。そういう類似の体験をしない人たちに自分の経験したことをありのままに伝えることで、なにかを発見できる。

そんないろいろな発見が実は、どんなひとにもどんな場面にもある。どうしようもない状態は普段結構あるが、決して好きな状況ではない。いやだ。でも仕方がない。そこに、ここにあるのだ。どうする・・・。なんとかしなくては・・・。

つい焦る。焦ることもあまり自分ではやらない。やれない。そういう状況で条件が迫ってこなければそうならない。パニックなのだ。そういうのも嫌だ。でもなるのは人なら少しも不思議ではない。

地域の活性化も同じではないか。悪くなることを想定しては進めない計画だ。それが基本だ。すべてうまくいくという見通しを検証して進む。そして結果がでる。同じことをしても成果はちがう。何が違うのか。条件か。主役たちのイメージがちがうのだと私は思う。

なぜ・・・。それは、主役、つまり地域住民がそうなのだが、観光なら訪ねていくるお客様を主役にすることだ。農業や漁業なら食べ物をおいしく消費者に提供することだ。安全安心な食糧を収穫し提供する。それは、主役がそこにいる。主役をそれを必要としている人たちだ。

そんな地域があったら、みんなそこに行きたいと思うだろう。利害関係から健康を損ねることもある。地域を支える企業は、ときに主役を勘違いしたことを覚えているだろうか。どっちが先かは、先住民が先にいる。企業があってひとがきたのではない。ひとがいるから企業がきたのだ。そこを公害の汚れた街にしていいのだろうか。先住民は何も言わない。息子が雇われているから・・・。そこから出る廃液は海を汚し、そこに棲む生物に危害をあたえる。それを先住民がたべる。

とてもおろかなことをしてきた。もっとだれかがそこに気づくべきではないか。今、専門家だけが増えている。マスコミはスクープをとるのが生きがい。サラリーマンは自分の一日の仕事をなんなくこなすのが生きがい。地域のことをだれも考えない。だれもやらない仕事はどんなヒトがやるのだろうか。

主役は、もっともっといっぱいいる力のない人たちかもしれない。地域を元気にしていくには、ありのままの姿を受け入れてそこから、新たなものを見つけていくことではないか。地域の活性化は知らぬうちにやってきて、また去っていく。そして、またやってくる。本当の主役がいる限り、またやってくる・・・。

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日記の付け方

日記。それは三日坊主の代表だった。

それが、今、何かを毎日ノートに手書きで書き、そして、ブログにも別途の目的で書いている。どうしてそんなに好きになったのか。

それは、ある秘密を会得したからだ。自分の気持ちをコントロールすることは意外に簡単だ。素直になることだ。そして、表現することの難しさを知ることだった。つい冗談を記すことがときに大げさになる。それが、すべての基本になる。ありのままを記す。気持ちを素直に表す。そこに、エコひいき的な妄想があってはいけない。続かない。

続けるには、自分の手で、頭で文章をつづることだ。それは楽しいことだ。主語と述語とその他の方法で表現できることはいっぱいある。

そんな楽しいことを、他人の誹謗中傷につかってはもったいない。私は、いつも誰かを批判するとかいうのではなく、世間の事実を知り、そして書くという作業を続けたい。

文はどんどん短くなる。そういうのがわかる。頭が勝手にばらんすをとったりする。手が勝手にうごく。そんな感じを味わうのもいいものだ。

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ほんとうのこと

実はあれはウソだった。

そんなことを告白されたことはないだろうか。そんなことは信じないというのだろうか。だれも嘘はつかないと信じているひとはほとんどだろうか。どのぐらい、信じているのだろうか。99%が信じていても、残り1%がノーならそれは、完全ではない。残りの1%のほうが正しいかもしれない。

さあ、あなたはどっちに掛けますか。そんな状況を経験したことはありますか。私にはない。でも、いつもそんな状況を想定している自分がいる。ちょっと前までは、悪いことを想定するのは愚の骨頂のようしぐさであった。今は違う。どんな状況が考えられるか、それこそ普段考えないような非常識なことを想定するのが、幅を広げるのだ。そこに専門性の磨き方があるようだ。

ほんとうのことは誰も知らない。だから、ほんとうらしく話すことによって信じる人が増える。そんな実益のないことになぜ力をいれるのか。それは、そこに真実があるからと考えているからだ。

宇宙は、そこにある。海洋もそこにある。真空と水圧の差はどんなものか。研究を進めるにはどんな着想で計画の構想を練るのか。

ほんとうのことは誰にもわからない・・・。

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地域に生きる

その土地に命を懸ける。

そんな情熱が住民みんなにあるなら、怖いものはない。恐いものはない。どんなことでもやってこい。そんな粋を感じる。

そこに生きるということは、しかし、簡単ではない。つまり難しいし、困難が付きまとう。いろんな意見があって一筋縄ではいかない。あっちをたてればこちらがたたない。そんなとき、自分が何をしたいのか、それが不明確なことが多い。自分で何も考えていないのに、地元のために生きる覚悟ですとか、親のために来たのに、地域のために尽くします・・・なんて言ってしまったら、どうするのだ。約束をするとそこで縛られる。オリンピックで金メダルをとりますというようなものだ。とらなくてもいいのだ。そこで精一杯やってくれればいい。私はそう考えている。

できないことを自分を鼓舞するために言い聞かせるなら、それは許そう。でも自信もないのにゆきがかり上、そういってしまうことも、私たちにはある。それはそれでいい。でも、そのしっぺ返しは自分にはねかえってくる。その結果を受け入れる度量がもしないなら、それはぎゃくのことになる。自己コントロールができないなら、自分のことをそう扱うことはできないだろう。

限られた地域コミュニティに生きるのは難しいし、そこに信頼の人生のカギがあることも確かだ。ひとはそこで死ぬと決めた時、新たな生き方を得られるように思う。

地域に生きるとは、自分の生きる空間をカテゴリーを確保することだ。それは、あるひとつの境界を越えることによって可能となる。でもとても難しいものが。自分だけではない。そこには家族というものがあり、知り合いというものがあり、遠く離れた親せきというものがある。

地域に生きることが本当に大切なのだと今心から思っている。

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地震国ニッポン

今朝もラジオをつけたまま寝ていた。ニュースが地震を告げていた。

この前の近くだ。どうも最近多い。どこか地球の地殻を刺激しているのではないか。そんな現象が地球規模であらわれてはいないだろうか。電磁波の観測網が張り巡らされていることを知ったのは最近だ。そこに関東地方での異変があるらしい。誤報だとはいったが、それはわからない。

地下鉄。こういう不思議のものを地震国では使っている。活用している。乗りモノはどんな奴でもそこに入ったら、自分の身体をモノとして預けることだ。だから、すべて結果を受け入れる覚悟が必要だ。航空機しかり。船しかり。バスしかり。そして地下鉄しかり。

個人の地中移動車なんていうのがマンガであった。モグラのようなものだ。そんな中に閉じ込められたら、・・・。想像しない。もうそういうことはあきらめるしかない。そして、今日もまたそういう便利な危険いっぱいの社会に身をゆだねて平気な顔をつけて心ではずみをつけて動いている。

だから、夏のビールはおいしいのかも・・・知れない。

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日本平のからす

この里山には、からすがいっぱいだ。

からすは頭がいい。意地悪もするようだ。だから、頭上にとまっているカラスには気をつけよう。そして警鐘をならすように、鳴き声を上げる時期がある。

少し経つと、小型のカラスが大きいからすと一緒にいるのがよくみられるようになる。さも子ガラスを心配そうにみている気配を感じる。

里山とはカラスがいてこそ、そういえるのだ。豊かさがなければ、野生の鳥獣は住みついていけない。ヒトの入らない空間を残してやる必要がある。これからもずっと・・・。

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見えないものがいっぱいある

最近、何か見えないものがいっぱいあることに気づいた。

なぜか。生きてきた歳月のせいか。その通りだろう。そして、探す気持ちがそうさせる。多くの先人がたどってきたものの一つの道のように思う。

そして、地方の土地柄のおおらかさとか、そんなものも、その一つのようだ。見えるものだけを追ってきた毎日が、やはり、ここに来るためには必要なことだと知った。

見えないものがいっぱいある。

自分の住むすぐ近くに周囲に数多くある。里山であり、里海であり、川である。そんな環境で地方のその土地を住みかとして活動している。そこにいっぱいある。そして、やりたいことが次々にでてくる。それらをすべてやる必要はない。それらの中でできることをやっていきたい。ほんのちいさなことでもいい。

見て、考えて、行動する。そこに新たなものがまた待っていて、見えなかったものを見せてくれる気がする。

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動物の能力と限界

ワンワン。キャンキャン。まるで家族の一員だ。それ以上かも・・・。

でも、そんなかしこいペットもやはり思考力はない。限度があるのだ。運動神経はすごいし、もし私にあんな俊敏は反応ができるなら、オリンピック選手も夢ではない。ペットはどうしてオリンピックに出場できないのか。人間ではないから、できない。馬術なんてあるが、ヒトが主役の競技だ。

あとはよほど大きな動物をのぞいては、寿命の差だろうか。それは限界がある。ヒトと同じ一生ならかわいそうではある。残してあの世に先にいくのは忍びないだろう。

しかし、その能力はすごい。気配を読む。年齢を重ねると学習したことが蓄積される。

限界はヒトと同じように病気になる。歩けなくなる。そんなとき、なにかかわいそうだと思う。そこに限界がある。人も同じだ。限界はそこにある。いつまでも・・・ことはできない。

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ミクロの世界の映像化

小さなものを大きな画像で魅せる。それはとても興味のあることだ。

人形を配置して、それを見せるのではなく、映像にしてみせる。つまり、映画と同じようなものだ。海は池でそこに模型の船を浮かべて、実物のように映像化する。

ぬいぐるみの映画も同じだ。そしてCGによる映画も考え方は同類だ。実写でできないことを再現する技術は、ポスターとかにも応用されている。動く画像と、動かない写真、どちらも用途によって価値は変わる。どちらも訴える力を持っている。

ミクロの決死隊という映画をみたことがある。おもろかった。おもろーっだ。そんな魅力をどうやってひきだしたのか、顕微鏡をのぞくときの想像力ではないか。やはり、イメージがなければ発展はしない。

「バックアタックの瞬間」というタイトルの映画をつくったとして、サブタイトルは「・・・血流の変化、その時ヒトの体はどう変わる・・・」なんていうものだ。もし、そんな映画で科学的な解説を入れて制作したら、ほかの競技のときはどうだろうか。水泳なんか・・・、柔道なんか・・・、格闘技なんかでは血液が外へ傷口を通して流れだしたりする・・・、そしてそれを修復するチームの働きも描き出されるだろう・・・。

脳は臓器の一部。神経臓器という術語があるかどうか不明だが、どこで神経情報をどんな風に処理していて、最後にそういう情報が断ち切られる状況をミクロの世界で映像化できるのだろうか。

自分の体の中に、自分の細胞で作った防疫隊を派遣するのも面白い。そこで指揮をとれるのか。がん細胞をやっつけるための特別チーム編成なんかもあるだろう。

こう考えると、ミクロの世界の映像化は大きなマーケットを私たちの好奇心と興味と研究心の中に変化を誘発してくれそうだ。そうしたら、引きこもりとか、親とのコミュニケーション不足とか過剰とかいう問題も起こらないかもしれない。いろんな妄想がこの私の頭の中を駆け巡っているので・・・、この辺で・・・。

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自分のこと

わが身とわが心はどこで認識されているのか。

自分にとって恥ずかしいという気分は、行動を制限したりするし、もっと世間に主張したいとう気分は行動を拡大しようとする。普通は、どっちでもない。自分のことはわからない。そこで終わる。

なぜならば、考えてもしょうがないという結論だからだ。

私も、あなたもそして彼も彼女もみんなが自分なのだから、同じなのだから、収拾がつかない。この考えに至ると、それは宇宙論では済まない。空間のゆがみでは説明がつかない。

静寂のなかで、もう悟りを開いた先人に教えを請うしかない。

自分のことをしっかりと理解している人がいたら、その仕組みをぜひ聞かせてほしい。しぬまでに自分のことを理解せずにいるのはなにかおかしい。

本来、生まれてくる前に、私はこういうものですと完全に理解してこなければならないと私は思うのだが、どうだろうか。

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ひとが発電所になる日

自分で使うエネルギーは自家発電で供給する。そんな法律がもうすぐ制定されるかも・・・。これだけ人間が多くなると想定されているなら、自然のエネルギーを使うだけでなく発電人間計画を進めたらどうだろうか。

みんなが発電所になる。60億人が一斉に1mも位置エネルギーを持ったら、そこにはすごい量のパワーがあることになる。もうそんな時代に入っているのではないか。ロスのないエンジンは永久に稼働する。燃料の供給がなくても稼働する。食べなくても済む人間も現れるかもしれない。

CO2タイプとか、H2Oタイプ。ハイオクタイプなんていうのもあるかも・・・。

そしてもう旅行して動く必要はなくなっているのだ・・ろう。情報が瞬時に入る。そのまま判断できる。不正も何もない。法律で決まったことはすべて厳守される。信号は100%守られる。もし赤信号で渡ったらそこで処刑される。裁判なんてない。必要ないのだ。

なぜならば、面倒な人間の責務という概念を取り除いている・・だろうから。必要ないのだ。ヒトとしてやるべきことは、法律で決められているから、すべて義務となる。あいまいな判断を個人に求めることはない。世界遺産は変形を加えてはいけないとか、落書きもだめだとあれば、それはちょっと硬いもので傷つけてもそこで処刑される。法律で決まっているから、ヒトの意見を求めることはもうない。

ヒトは、考えることを中止する。ひとが発電所になるような日は、もうこの世の終わりかもしれない。無駄の多い、無理のいっぱいある、ムラの多い社会が、そんなにいいものだとはだれも想像だにしなかった・・・だろうに。

私たちは少し寛大な心をもつように反省する時期にあるのではないかと、私は考えるのだがどうだろうか・・・。

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プロの世界とは

どんな集団にもプロがいる。そこで、既得権益を保護している。同じ仲間同士がうまくやっていくのは責任でもあるような姿がそこにはある。

仲間外れにする。脅しである。実際にもある。そうやって異端者を外す。権威を持つ。そこからプロというカテゴリーを作るようになる。そういう組織を持続するには、新鮮な息遣いをさせることだろう。汚い空気と新鮮な空気とどっちがいいですか・・・。野暮な質問ですね。もちろん汚れた空気がいいのだと思うのは私だけだろうか。

その汚れに気づいている人は内部にはいない。では外から見てもらうことが健全性を維持する条件だろう。プロの世界はそんなことに気遣う必要があるし、すぐに権益に絡んでいる人は己から外れるべきだ。

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底のない網で魚がとれるのはなぜ

まき網という漁法がある。大規模なものからそう大きくないものまでいろいろである。対象魚によって変わるのは当然のことだ。説明するまでもない。

イワシまき網。サバまき網。有名なのはマグロまき網である。カツオも同様にまき網でとる。大量に一網打尽だ。それで、資源に対して脅威となっている。もっとも漁獲は漁船数と漁獲量に比例するから、量を減らすか船の数を減らすかだ。

そのまき網には魚群を取り巻くときの底網はない。マグロはもぐって逃げるのではないか。それはちがうようだ。魚は水圧と水温に敏感である。躊躇する。違う水質のところへいくにはすぐにはいけない。富士山の6合目で十分休みをとり、身体をその高度に適合させる必要がある。同様にマグロも水温の違う水圧の違う環境にすぐにはいかないし、いけない。

だから、ある水深まで囲ってやれば、それで事足りるのだ。魚網を使わない漁法もそういう魚の生態をよく理解すれば可能かもしれない。いるかに誘導させるなんている漁法はすでにあるはずだ。

ひとも同じだろうか。網の囲いのない透明なあみですでに捕獲されている姿はなんとなく哀れである。だれかさんに泳がされているのは、みんな同じだろう。泳がしているひともいるかもしれないが・・・。

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新たなマリンスポーツについて

そんなのどこが面白いのだろう。ふーん。そんなもので・・・。

スポーツはたいてい最初は興味がない。そして何か面倒だ。できるだけ道具のないシンプルなものがいいなんて思ったこともある。でも、ヒトは道具を使う動物だ。道具をうまく使ってスポーツを楽しむ、多くの人たちに広めて楽しんでもらうことが、ひとつの役目だ。

柔道。野球。籠球。排球。ゴルフ。スキー。パラグライダー。山登り。ハイキング。ソフトボール。テニス。卓球。空手。弓道。洋弓。スケート。

そして、マリン関係では、・・・とか、水関係では、水泳だろうか。これはマリンとは言わないのがふつうかも・・・ね。水上スキー。ちょっと古いかな。ウエーキボード。ダイビング。シンクロ。遠泳。古式泳法。サーフィン。釣り。ヨット。クルージング。カッター。あとどんなものがあるだろうか。もう思い出せない。

だいたい地上でできるものは海でもできる。ただ陸上で登るのは水中では沈む方向だ。素潜り競技なんかが最近盛んらしい。潜水病になる必要はないから、それはいいかもしれない。でも聴覚障害を持つ人は多いようだ。圧力と呼吸に逆らって水中を楽しむには大きなリスクもある。ところで、新しいアイデアってあるのか。新たなマリンスポーツの可能性はあるのか。

なにか度肝を抜くような新マリンをお見せしたいものだ。もちろん今は空っぽだ。

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うぐいすはいつまでなくのか

うぐいすはまだ鳴いている。いつまで続くのか。周年鳴いているのだろうか。

鳥の声も小鳥たちが巣立つと変わる。親鳥の警戒音はよくある。ことりも無邪気な鳴き声は若さをも表わす。うぐいすも上手下手があるらしい。だんだんとうまくなるようだ。

どのぐらいまで鳴き声が聞こえるのか。温暖化で季節はなくなりつつあるのか。それとも、もっと北の方へと動いていくのだろうか。

いつまでも鶯が鳴ける自然環境を持続しなければならない。それが私たちの務めだ。

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花火大会の夕べ

花火はきれいだ。でもあのドーンという大きな音が煩わしい。

今日は、日本平祭りだという。午後3時から日本平桜通りは車両通行止めだ。準備に余念がないのはどのイベントでも同じだろう。もう一年前とか半年前から準備しているはずだ。何もないのがいい。

ある情報によると、電磁波が乱れているらしい。それが何を意味するかというと、地殻のひずみが大きくなっていることを示すらしい。日本は古来地震国であり、滅多なことでは驚かないが、事前に揺れるということがわかると、また難しさが出現する。今の情報では、すぐにあるかもしれないといったものだったが、どうも誤報らしい。でも・・・。でも・・・。でも・・・、である。あるかどうかはわからない。地殻のひずみを支える力の均衡がくずれればすぐにでも起きておかしくはない。

気圧によっても変わるだろうし、水圧の変化でも変わる。ならば、温度の変化でももちろん変わる。それが引き金になるような要因なら、どんなことを注意すればいいのか・・・。

ひょっとして、花火のドーンという音波で地殻の均衡が崩れてしまうことはないのか。もしそうなら、もう花火はできない。温暖化で氷が融けて大洋の水量が増大する。地殻への圧力が増す。バランスが崩れる。マグマに変化がでる。地震を誘発する。そんな図式もあるだろう。

花火大会の夕べに、そんなことをちょっと考えさせられた。

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季節は知らぬ間に変わる

もう夏だ。疑うべくもない。

いつ、梅雨明けするのか。そんなことをぶつぶつ言っていたのはつい一昨日ぐらいのことだ。それでも、いつの間にか梅雨は去り、夏の暑さが否応なしに襲ってくる。温暖化防止という掛声で、何か空調温度を低くするのは気が引ける。

そんな心やさしい日本人は、大勢いるらしい。私もそのひとりかも・・・。そんな甘ったれで、隣国にバカにされてしまう。いやもうバカにされっぱなしだ。大人の判断というけれども、はたして、泣く子と地頭にかてる目算はあるのや、否や・・・。

季節とどうように日本の命運も知らぬ間に変わるのはちと困る。この日本という国の民としてもっとやりたいことがいっぱいある。だから、判断は慎重にということと、泣く子供と地頭様にはそれなりに勉強してもらうことだろう。成熟した日本は、協力することによって、利益をもたらす世界でも珍しい国になっているのだ。

そんなことを知らずに、北も南もリショウーバンラインではないだろう。国民の生活に一日1ドルもかけないような国が、実はその数万倍もかかる国民のいる国よりも強いのはつまりあとがない生活だからだ。だめならしぬしかない。

でも、そういう論理はやはり豊かさと余裕のある社会には勝てない。栄養失調でまいってしまう。短期の精神論ならタケヤリでいいかもしれない。でも長期になると、もう栄養失調で体力も知力もなくなる。

いつまでも続かない。知らぬ間に消えているのは、どっちだろうか。

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自分でみるおもしろさ

どうしても面倒がってしまう。いろんな仕事があるとつい人任せにする。そうしないとやっていけないような仕事をみんながやっている。

この連休3日間、私は何もしなかった。メールを見なかった。気にしないで休むことにした。いつも追われているとつい少し、やすみの間にアドバンテージを取ろうなんて欲を出す。休み明けにつかれてしまう。そして、やすみの間の進捗も焦りでしかない。

そんな日々を長い間おくってきた。そして今、すべて自分でやっている。覚悟がいる。自分がわからなければ進まない。もちろん誰かに聞くのがいいのだが、すぐ近くにいて代わりにやってくれることはない。

自分ですべてやる覚悟。

これが大事だと思った。時代の落し物になりそうな感覚を一刻も早く払しょくしよう。そう決意してしばらくたつ。なかなかはかどらないものだ。何かに目に見える形で自分の仕事を評価させなければ、それこそ水流の中で抵抗しているわが身のイメージしかなくなる。気持ちを失えば流されるだけ・・・。そんなのはいやだ。

そして、自分ですべてをやると自分ですべてが見られる。自分の目で新たなものを見る。私は、必ず周辺を見て回る。それは楽しいからだ。会社が移転するとそれは楽しい。数か月は昼休みが退屈しない。いつもいくつかの散策コースをもつ。

自分でみること、それを違う媒体を通してみると、その落差が面白いと私は思う。時代の遺物になるまえに、自分でやることの楽しさと面白さを今、感じている。

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普通のひとと芸能人のちがい

普通の人になりたい。普通の女の子に戻りたい。そういったのはキャンディーズだ。すごい人気があった。寝る時間なんてなかったのではないか。

解散したら事務所が困る。芸能人はみんなそんなことで悩んでいるのではないか。それとも普通の人のまんまで芸能人をやっているから、戻る必要もないかも・・・。そんなひとも稀にはいそうだ。

日々の生活はちがうのか。寝る時間はあるのか。眠るのか。酒を飲んでばかりいるのではないか。怒りっぽいひとがおおいのではないか。見栄っ張りな人がおおいのではないか。いろんな性格の人がいるだろう。なんら違いはないだろう。

でも違うだろう。大きく違うだろう。

それはもって生まれた才能がちがう。そうではないか。努力だけでは芸能人にはなれない。人前にでることが芸能人だろうか。そうではない。タレントは才能という意味だし、・・・。文化人かもしれない。有識者かもしれない。

自分の意識をもつことがその分かれ目ではないか。普通のひとでいたい。そう普通のひとが願っているのを聴いたことがあるか。芸能人は一度やったらやめられないのではないか。時代はどんどん変わる。それは、すごく早い。そして忘れる。

おごる人たちが芸能人か。平凡さを笑う人たちが芸能人か。みんなの批判にさらされるのが芸能人か。そうではない。

みんな同じだ。この社会のシステムの中の分担だ。何かをやってこの世の中の役に立つ。それが私たち一人一人の使命だから、それを望む大勢の人たちのために少数の芸能センスのある人たちが働いてくれているのだ。

でも、ちょっとちがうのは、一生の終わり方が違うようだ。おごりが生活を乱し、命を無駄にしているような芸能人が多いのはなぜか。ヒトは、一日一日を当たり前にいきること、質素にできるだけ質素な生活を楽しむことで、何か大切なものを手にできるのだと私は思うのだがまちがっているだろうか・・・。

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手をあわせる気持ち

不思議なこともある。ヒトは年取ると何か手を合わせたくなるらしい。

私は数年前にそんな気持ちに襲われた。たまたまタイにいった。その時に買った。合掌しているお土産の仏像を買った。気をつけなければいけないのは、お土産の中にはコミカルなものもあるので、自分の気持ちとは裏腹になにか仏様を侮辱しているものには注意しよう。そうは考えていた。でも大丈夫だった。

どうして、そういう気持ちになるのか。手を合わせるという単純な動作の中に静的なものもある。心を集める。そんなことだろうか。心をどこかに届ける。そんなことか。でも違うだろう。狩猟民族は手を合わせるだろうか。農耕民族は手を合わせて神や仏に祈るだろうか。

それはみんな同じようだ。神仏は私たちヒトの心に宿っている共通のもののようだ。手当をするという言葉がある。病気を治療するという意味がある。母親が子供の熱のあるおでこに手を当てる。子どものこころが変わるのが見えるようだ。手を合わせる。つまり、自愛ということだろうか。自分を大事にしていかなければ、何もできない。そのために・・・。

左手から右手に体温を伝える輪をつくることで、もっと存在を意識させようというアピールだろうか。どうもそうではなさそうだ。そういう気持ちがどこから出てくるのか。

敵意のないことを両手を合わせることで証明しているのではないか。まあ時には、意味の不明な気持ちになることもある。そこに、すべての理由をみつける必要もないだろう・・・。なにかずっと時代の先になっても、ひとは手を合わせてなにかをさがしているようなきがするし、その姿はとても崇高な気配を漂わすものでもありそうだ。

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視点をかえるとは

いつも同じ風景を同じ心でみている。時には古い感度の悪いカメラでのぞいてみるのもいいかもしれないと、ふと思った。

つまらない。そんな人生はいやだ。でも、生活はすべてに優先する。

七十億の人類が、十億人が飢え苦しんでいる。社会の中で生活している私たち人間は、そこでしか生きられない。もちろん他の国の社会に行くことは可能である。でもいやだ。どんなに裕福な暮らしができるとしてもいやだ。同一性のある自分の生まれたこの国で死にたい。

それは畳の上で死ねるかは、その人の行い次第だと、母がいっていた。死の世界について話を聞いたこともある。三途の川があるという。天国と地獄があるという。しんでから、審判が下る。これは、この世の中をどう生きるかという大問題だ。

でも、食べ物がない。子どもにお乳を飲ませられない。働かないと生きていけない。日本は平和だ。あんなに勇猛果敢で怖い日本人はどこへ消えたのか。もう明治の生まれの人はあまりいない。視点を変えよう。

視点を変えてみよう。それは、世界戦略だという。米国の世界制覇戦略の継続戦術もある。中国の世界制覇戦略。欧州の世界制覇戦略。日本の米国従属戦術。そんな中で日本は「俺をバカにするな」と叫んでいるようだ。世界戦略は、日本の戦略はなんなのだ。米国従属戦術を超える国家戦略はあるのか。日本国憲法が日本のこれから生きるバイブルだった。それは、戦略をつくりあげる責任を放棄した結果だ。平和はそんな土台のあやふやなものだったのだ。

視点を変えようではないか。次の1年。次の5年。そして、その次の10年がある。そのぐらいはまだ見れそうだ。どんな社会になるのか。その前に、グローバル化という黒船に脅されて本体がなくなるかもしれない。日本という国が昔・・・、そんな物語が米国の田舎町でとかブラジルのどっかで日本人の末裔たちが文化を守っていることになるかもしれない。

視点を変えよう。これから、何をすべきかを真剣に考えよう。

視点を変えるとは、自分の生き方をしっかりと見つけて責任を果たすことだと私は考えている。

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気になるものは風

海の日が近づいている。昨年は海の中に入ってみた。

今年は、どうも気になるものがあってしょうがないのだ。それは、ウィンドサーフィンだ。もう忘れてしまった。風上に進むヨットの原理。揚力が働いて進むのだ。それは平面的なものだから浮き上がりはしない。でも原理は同じだ。進むのだ。風上へ。

そんなことを、もういちど体験したい。体力が問題だ。どうもコツがあるらしい。でも急に海水につかるのはよくない。海水でなくとも淡水でもかまわないのはもちろんだ。でも、私の住むところは半島であり、内海もある。だから盛んだ。いろんなマリンスポーツがある。

今年の夏。私の気になるものは、ずばり「風」だ。

この気持ちを書道であらわしてもらうとしたらどんなデザインになるのだろうか。東京メトロの車内広告にある「電車に網」(見た人はすぐわかる・・・)はすごいインパクトだ。あんな感性がひとにはあるのだ・・・。

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何のために働くのか

答えは、なんのために何になりたいのかという質問に対するものだ。

簡単だった。

一人のこは、いろんなものになりたいといった。そして、なんのためにかという理由に「おっ母さんに楽してもらうためだ」といった。

涙がでた。

K-1の選手になりたい。そして、サッカーの選手にもなりたい。野球の選手にもなりたい。りっぱな大人になりたい。

いろんな思いはあるものの、それらはすべて母親のためなのだった。

はっきりとそう恥ずかしげもなくいえるその子に何か光明をみたような気がした。いままでぐずぐずとしていた自分のこころが洗われるようだった。もっと率直に自分の心を開いて向かっていく勇気が必要だ。

今は、あまりにも他人のしぐさをみて、批評するだけの社会になっている。自分を振りむいてもらいたいと思ってもだれもいない。そんな社会に、もっと、明確な答えを出すのがいい。

最後に鳥羽次郎さんが歌った。     

・・・・・・・おれの夢はよう・・・、おれの夢は「おっ母」を楽させることだよう・・・。そんな夢のような番組をみた。信じられないことがあった。もちろん、他の子供たちの夢も素晴らしかった。

歌とか、音楽は、クラシックから歌謡曲まで、ヒトの心をうつものなのだと、改めて思ったのは私だけではなかったようだ。

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少年よ宇宙を感じよ

少年だったころと今と、あまり変わらない。三つ子の魂、百までも。このことわざは正しいと思う。ほとんど生まれたときに、つまりおっかあのおなかのなかにいたときにほとんどの才能は決まっている。

生まれたときには、その基本的な構造は済んでいる。成長がうまくいくかだけで、その他は完成品だ。成長は波がある。でも、親はもうだまって見ているだけでいい。一番大変な作業を終了したのだから、それでいいのだ。あとは、その子らが自分で自由に大きくなる。私たちはそこに教育というインフラを整えてやればいい。

少年よ、宇宙を見よう。夜空を見上げるのがまずはわかりやすい。そこで、そらにある星がどうのこうのと覚える必要はない。

少年よ、そこに広がる空間をこころに取り込め。そして、その広さとは何か、どこに終わりがあるのかを考えよう。水平線と地平線などの向こうにも空間は広がっているし、私たちの頭上には宇宙がずっとある。

少年よ、時間を知っているか。生まれてから、このかた時間と話したことがないだろう。時間とお話をしよう。それは、過去と現在と未来だ。過去に自分は現在を今として認識しながら生きてきた自分の証だ。

少年よ、宇宙を感じてみよう。どんなものかわかるなら、そこにいきたいと念じようではないか。この30cm四方もない頭の中に、今、自分の頭の上にある空を超えてそしてずっと上の上の上のはるかかなたに数億光年の空間があり、その先は時空の曲がり角なんかがあるのだという。無限大という概念はないなら、そこにはどこか限界がある。

ここが宇宙の終わりです。そんな標識を見に行こう。

少年よ、そのサインボードを見ても、それが世界遺産に指定されていたら、落書きは止めよう。でも、心の中ならいいかもしれない。そこに大きな真っ赤なもので端っこ(宇宙)と記そう。

少年よ、そしてまた行こう、そこへ。ときどき出かけよう。そこへ・・・。

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デジタルデバイド

なんとかデバイドとは最近よく耳にする。どうも遅れるというのは、いやな響きだ。若い時というのは、先端をいっているという意識があった。そして、そういうものをまだ知らない人たちが大勢いることを知っていた。

なぜ、そんなことを知らないのか。そんな感じだった。

今、この世の中で最先端を行っているという自覚はない。そして、どちらかというと、遅れている方に入ると思っている。どうしてもっと最先端を走ろうとしないのか。そんな罵声が飛んできそうだ。

デジタルデバイドとは、パソコンが多いのではないか。テレビも同じだし、携帯も同じだ。カメラも同じだ。何かこうすべてが一気に進んでこんな内容が多いのではやれない。使えない。もういいや。そんな自暴自棄の人が増えているのだという。

私も同じだ。もっとわかりやすいものを、もっと簡単なものを世の中に出さないといけないだろう。キャラクターでわかりやすい内容になるのか。親しみやすさがどうも安易に使われだしているようで、怖い。

今、はやっているスタイルはおかしい。面倒だ。そして、何かセンスがない。私にはそう思える。デバイドのないアナログの世界がデジタルやIT産業を救う日がくる。私はそう考えている。

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実力の世界のいいところ

相撲は実力だ。プロは、もうそこには、素人は比較できるレベルではない。雲の上の人だ。プロの相撲取りは、それは神様のようなものだ。

強さがある。優しさがある。相撲のイメージは雷電為衛門だ。絵本でみた。金太郎もあった。クマと相撲を取ってかつのだ。彼が、雷電だという人もいる。でも時代が違うだろう。

実力の世界。それは自分の責任で強さを保ち、強さで生きる。そんな人生が送れる人は幸せだ。みんな自分では何もできない。そしてできるようになってもがんじがらめで実際は己の権限ではない。組織だ。組織なのだ。個人では何もできないし、何もしないのがこの時代の人たちの考え方だ。

相撲は実力の世界だ。そして力がなくなれば人気も無くなる。強さは人気を生む。多少人格や品格がどうのこうのといっても強さだ。サラリーマンにはないものだ。そんなないものねだりで考えるとどうみてもうらやましいというのが実力のことになる。力があってもサラリーマンはその力をすぐには使えない。組織を操るちからと義務をわきまえること、責務を人として認識していることが、普通のひとには必要だ。実力の世界も同じだが、力でなんとかなる。

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海の日にむけて

7月21日は海の日だ。この日は、マリンスポーツのことを考えてみるいい機会だと私は思う。なぜならば、海のスポーツには危険が付きまとう。

海水浴でさえ、それは遭難がある。楽しさの影に水の怖さがある。それは、なれでもある。水に慣れるまではよそよそしいのだ。緊張している。だから事故は少ない。それが、少しなれてくると怖さを忘れる。

みんな同じようなことがある。ダイビングもしかり。いい指導者について、基本をしっかりと学ぶことだ。血液中の変化が気分をなくすこともある。そのた、海のスポーツのなかにはいろんなものがある。

海の日にいろいろとマリンスポーツについて考えよう。

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感じのいい人たち

世の中には、素敵だなと思わせる人たちがいる。それは、その人たちが私たち部外者が望むものを持っていなくとも、外見でみることしかできないというプロテクターで守られている。ところが、ギャップが大きいと、なぜという言葉とともにバッシングされる。

だから、有名人の中にも感覚は同じ私たちの仲間もおおい。つい、気がついたらとんでもないことをやってしまっていた。そんな感覚ではないのか。とくに感じのいいアイドルはその本人には関係なく、社会の人格や品格を持つことを黙って期待されている。

そのままでいい子はいいのだが、中には外見とは異なる子もいる。そんなとき、だれかが面倒をみてきたのだろうと思うが、今は、いないのだろう。世の中、大将もちいさくなって行動を明治に戻すわけにはいかないだろう。そんな中でも逃げ切るひとはいる。だれもが、他人のスキャンダルは面白半分にしか感じることはできない。親身になっていると表向きはいってもそんなことはわからないし、逆に、それがスキャンダルになることもある。

感じのいい人たちは、そういういいものをもってうまれてきたのだから、自然でいいのではないか。ドラマの中での印象は意外と現実に似ていたり、違っていたりするから、それは私たちの一般的な感覚として、いい役者という評価になる。決して、個々にどうのこうのということはない。

ほんとうはどうなのかと、心から心配する必要はないのが一般大衆の一人としての私たちなのだと私は思う。そんなことは、振り払えばいい。そう生まれてきたのだから、自然体で自由に行動するのがいい。私的な時間はだれにでもいるものだ。どんなヒトにとってもそれは生きる支えとして必要なのだ。

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かみなり

地震雷火事親父。日本の風情だろうか。この静岡の午後には雷が鳴り響いた。ドドーンと地震のような響きだ。

雨も降った。でも数時間で収まった。天気予報の通りだった。梅雨前線が高気圧にのまれているのだいう。そして、上空の寒気が侵入して雷を作っているのだという。

でも、もう夏がそこに来ている。これは少なくとも季節の移り変わりの温度変化だ。何か最近のニュースをみていると、夏も温暖化のせいのように思えてしまうのが怖い。かみなりもそれは一つの夏の風情だ。

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ブログというミクロの世界

インターネットが大きく世の中を変えたことに異論をはさむひとはいない。

だれもが認めている