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2008年8月

新たな発想のために

疲労困憊している状況の中で、まだまだやり続けている。

そんな疲れが実際の成果を低下させているにも関わらず、本人は加速的に目的達成に近づいていると勘違いしている。

休もう。

調子がいいなと感じたら、それは効率が落ちている証拠だ。だから頭と身体を休ませよう。

この身体は、細胞からできているのだから、多くの細胞の力が調和して総合的に機能を発揮しなければいけないのだ。いけないというよりも、そうでなければ最高のものは成果として出てこないということだ。

私たちは一つのことを続けると大抵は飽きてくる。よく40年間もサラリーマンで働き続けられるのか信じられない。そういう当事者は、みんなそう想っている。よくまあやるなとか、よくまあやったな・・・、とかであろう。

家族のため、子供のためという使命だけでは続かないことだ。なぜ、そういうみんなが信じられないようなことが、みんなほとんどの人がいとも簡単にできるのか。それは・・・・、・・・。

それは、・・・。それは、新たな発想があるからなのだ。どんなルーティンワークの中でも、気持ちがわくわくするような発見が必ずあるのだ。みんな、同じように出勤し、仕事をし、終わって帰宅する、という毎日の中で、いろんなことがでてくるのだ。それらが、この社会をひとつひとつ動かしている。

省エネ。省力。環境。3R。人事。技術。発明。いろんなことがある。私たちの身の回りにはほんとうに興味の尽きない課題、問題、その中から、自分たちの仕事でもテーマがあるのだ。難しくはないし、興味をそそられるものばかりだし、簡単にできることばかりである。

新たな発想は、アホらしさからも生まれる。知恵を工夫を何につかうのか。お笑いに使う。それはもっともっと宇宙開発とか海洋利用とか環境改善などにも使えるものだし、決してなくはならないものだ。

新たな発想とは、そこここに落ちている落ち穂を拾い集めるようなものではないだろうかと私は考えている。なぜならば、どこにでもあるものなのだ。ひとはまず生きていることが大切だ。いきていればなんでもできる下地があることなのだ。おふくろがいっていた・・・、・・・。

いのちあってのものだね・・・、あとなまえをかければいい・・・、と。

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自分の心を探る

一番恐いのは、自分のこころである。

なぜならば、私がやっていること、やろうとしていること、考えていることが、すべてわかるからである。

決断するとき、エゴがある。駆け引きもある。本音とたてまえというものもある。みんな分かっている。「そんなちょろいやつかよ、おまえは・・・」と笑われて軽蔑されそうだ。だから時々ではなく、いつも自分のことがあまり好きではないと感じるのだろうか。

同じひとつの人格なのに、二重人格というのであれば、それは仕方がないし、もし、この反復作用がこころの中で起きなかったら、たぶんだれも何もできないのではないか。思惑というものがなければ、・・・。

自分の心理を探るのはちとはずかしい。それは、いままで子供のころからずっと知っているからだ。どんな時にどんな振る舞いをし、あんなときはそんな言い訳がましいこともやってきたし、あるときはしどろもどろでなにもできなかったし、・・・・。つまり、もっとしっかりしろよと叱咤激励されている関係なのだ。

だから、もうひとつの父や母のようでいやなので。好きなのだけれども、大好きなんだけれども、知りすぎているのがいやなのだ。

そんな自分のこころを一番よくしっているのは、さいきんは私自身ではない。私の奥さんが最近は、どうも自分のこころとたち代わったのではないかと思うときがある。そして、おなじようにそんなことがいやだし、大好きでもあるのも、共通しているようだ・・・。

ああ・・・、なんか自分の心理なんて、下手に探るものではないな・・・・。ほんとだな・・・。

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なぜここにいるのか

いまなぜここにいるのだろうか・・・・、・・・・。

わからない。

いつもくりかえし、このぎもんはわいてくる。そして、いつのまにかどっかへいってしまう。

なぜ、いま、ここにいるのか。

それは、きのうもここにいたからだ。それでは、あしたはどこにいるのだろうか。このぎもんとおなじようにふいっとどっかへいってしまうのだろうか。

いま、ここにいる。それはたしかなことだ。

そして、あすはわからない。でもずっとまだまだ、ここにいたい・・・。

なぜなら、いっぱいゆめややりたいことがあるからだし、うみややまでもっともっとあそびたいからだし、しらないほんももっとよみたいからだし、・・・。もっとかしこくなりたいからだし・・・。

そして、なぜじぶんがいまここにいて、これからとうぶんいるとおもうのかなど、そんなことをときあかすというより、もっとかんがえたいと強く意識しているからなのだ。

きっとこたえがそこに、みえるようなきがする。いつかは・・・。

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アフガンの日本青年

食べ物を提供する。農作物をつくってアフガンの子供たちに食べてもらう。

そんな想いのようだと感じた。そうでなければだれが、危険な地域に足を踏み入れるだろうか。NGOという専門家集団の組織をとおして、仕事と安全という重要な内容を十二分に理解していたものだともおもう。そして、それでもやりたいという強い意志と実績を作ってきたときに、ようやく何かできそうだと感じたのではないだろうかと思われるそんなときに、パワーゲームの餌食になってしまった。

私は、福田首相が「決して許されるべきことではない・・・」、そう明言したと記事で知った。許せない行為だ。その通りだ。そして、その報復を考えるなら、どんなことができるのか・・・。何もできないのか。力で報復するのが昔からのやり方である。理不尽に対する抗議というのは現実的に難しい。日本は国際協力を数多くこなし、今や援助大国であり、そのノウハウの蓄積も多い。いろんな専門家集団がいる。みんなりっぱな先生方である。

へんな言い方をすれば、国際協力の理論家であり、それぞれの専門分野での大家である。国際的な知名度も高い人たちの集団でもある。そして、現場をしらない人たちでもある。二つのことを同時にはできないのだ・・・。決して非難しているわけではない。

そこに報復措置としての理論があるのか・・・、ということだ。

私たちの国際協力という活動のねらいは何か。それは、平和に貢献することだ。どんな些細な分野での国際活動、援助活動、支援活動はみんなそこに集約されるのだと私は考えている。

それなら、日本はほかの国々の日本の行動に対して、どうのこうの言う前に、日本の国際貢献という大綱に沿って行動するのが当然のことである。私はそう想う。すべての日本人は、そういう大義のために何かあったら仕方がないとあきらめてもいるし、己の身にもし降りかかってきたらそれは・・・。でも起こっては欲しくない。

世界の人々は日本と同じようにいろいろな人たちがいる。いろんな人たちがいて、いろんなことを想っている。アフガンの青年農業技術者がその夢を託したのは、そんな土地の地域の住民たちだったのだと思う。

だから、NGOの活動が重要になる。だから、個々の考えが大切なのだ。そこにこそ次の時代に夢を運んでくれる若者たちが集まるのではないだろうか。そういうことこそが、日本人としての今回の許せないことに対する報復となるのではないか。

アフガンの日本青年の志をそこで受け継いでいくことができるのは、この日本人のたましいでしかない。許されるべきことでは、決してない・・・。

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テリトリーの大切さ

周囲2メートル。これはとても私的な空間ではないか。スクランブル発進が挙行されるのではないか。

私たちは、自分の空間をもっている。物理的に許容できる範囲が多分2メートルではないか。そこまではまあだれでも仕方がない・・・。

大都会の電車の空間なんてそれを侵害している。だから、田舎から都会にいくと、その差になれるまでぎこちないのだ。いやでもそれに慣れることが都会人なのだとでもいってごまかすしかない。そうでなければ生活できないのだ。

テリトリーはだれもが必要とする。そこに入っていくにはどんなことが必要だろうか。裸足で土足で長靴で入っていくのだろうか。相手によるようだ。場合によっては、ハロウィン事件のように笑顔で近づいても相手が恐怖心を抱けばそこで悲惨な結末になる。

どんな状況でもどんな土地でも、自分がそういうところを動いている限り、自分を守るための知識を持つことが大事だ。決して、人種とか、教育レベルとか、そんなものではない要因がある。もっともあっけらかんとして無頓着というのもいいのかもしれない。

気づいたときには末梢されているようなことかもしれない。

でもテリトリーに関係して、船とか飛行機とか、乗って身体を預けてしまったら、もうそれは自分では何もできないという状況が私たちにはいっぱいある。そういえば新幹線だってそうだろう。高速バスだってそうだ。わが身を預けるということは、その時間は貨物になるということだ。

自分のテリトリーはもうその時には無意味になる。テリトリーとはそんな空しいものかもしれない。そして身を守り実をみのらせるにも大切なものだ。

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気配を感じるとき

どうもいろんなことがこの世の中にはあるのではないか。単なる想像だけだはないと思うときがある。UFOとか、魔物とか、天国と地獄とか、・・・。ほんとうにあるのだろうか。

私が一度死にそうになったときどうだったろうか。覚えてはいないが、そんな三途の川に近くまでいったのではないか。まだまだ涙がでて死にきれない。そんな感覚はいつもある。せっぱつまるとそれは自分では選択できない状況になる。みんなに依存しなければ生きていけない。そんなとき、ありがたいと心から思う。もしだめでもそう感謝しただろう。ありがとうといっただろう。

そんな境目のとき、こころはどこかへ飛んでいくのではないだろうか。それとも、もともとそういう種をまき散らしているのだろうか。緊急事態にそういう信号を発信するために、ふだんからそういう活動をしているのだろうか。

気配を感じるときがある。それは、自分の父や母だったりする。会いたいと思う気持ちがもう子供のころから植え付けられているから・・・。

ひとのこころというのは、とても不思議な大切なものだと、私は思う。生きているという証がそういう五感を授けているのだろう。

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キャラクターの世界

たしかにわかりやすい。インパクトのあるのは鉄腕アトムであり、サザエさんであり、鉄人28号である。

今はなんだろうか。ビジュアル系というキャラクターだろうか。とにかく目立つことがその目的である。際立つにはその才覚がなくてはだめだ。特徴が際立つことは、タレントだということだろう。それは、一般にどっちの方向でもいいのだ。いいとか悪いとかではなく、目だつことが才能なのだ。

馬子にも衣装。その通りなのだ。普通ではだめなのではなく、回りが普通だったら、おかしい方が目立つ。回りがみんなおかしければ普通でいいのだ。そして、そこにある何か理論的なものを理解していることが大切だ。たったそれだけだ。

あとは勝手に動いていく。キャラクターがひとりでに仕事をしていく。イメージを売り込み、どんどんどんどん大きくなっていく。

そういう世界がある・・・。

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空想の世界とは

現実に戻ろう。だれかがそうつぶやいた。

そうか、おれたちは今空想のスペースにいたのだった。すぐに現実になった。

でも何か動きがぎこちない。それは当然だろう。考えてみてもすぐわかるだろう。スーパーマンやスパイダーマン、ウルトラマンや仮面ライダー、そしてハンコックなんかが、この現実に戻ったら、それはまるで何もできないことにいら立ちを感じるだろう。

だから、空想の世界がある。作り話ともいう。そこに人間の心理をうまく使って、空想の説明をしていく。納得するのは、この世の中に悪がいて正義があるという前提にたってのことでもある。そこから空想する。破壊しようとするものとか、殺戮を繰り返そうとたくらむものとかがいる。彼らも超人だ。だから普通の人を守るために超人が必要なのだ。

そういう世界が実は、軍隊ではないか。普通のひとではない。武器をもち、身を武装している。それは、もっと強いやつらが侵略してくるからだという。本当だろうか。侵略するためではないのか。攻撃は最大の防御という論理を実行するには、強力な不戦の軍事力が必要だ。だれにでもわかる。

力があれば、力を誇示したくなる。下手な理屈で論破する必要もない。実に簡単だ。力こそが最大の交渉手段なのだ。交渉しないこと、話しあわないことが最良の解決策なのだ・・・。

どこかおかしいのではなく、こういう発想そのものがおかしい。空想の世界で、もっと真実というものの大切さをシミュレーションしてもらおう。空想することで、それは疑似体験ができる。映画は視聴覚に訴えるし、小説も同様だ。

そういう世界がひとつの文化として、この世の中の書籍や雑誌になって、活躍している。

空想力は構想力であり、創造性を磨くものだと、私は考えている。

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私の夢

どんなことでもいいから、日本一になりなさい。

小さいころに学校で言われた。その先生の眼は輝いていた。なんでもいい・・・。そう続けていっていた。みんな子供たちは、キラキラした目で、聞いていた・・・。

そんな頃だろうか。私は一つの夢を心の中に抱くようになった。普通になりたい・・・、ということだ。落ちこぼれになりたくない。おいてけぼりになりたくない。いくらがんばっても中間から上にはいけないようなそんなプレッシャーが戦後生まれの団塊の世代にはある。数の魔法とでもいうのだろうか。正規分布のカーブでそこが異常に厚いのだ。簡単ではない。だから、なんとか普通のところにとどまりたかった。

全国模試とか知能テストが行われていた。私は普通のゾーンにとどまりたいと願った。それは大人になっても普通に生きていけるかどうかというリトマス試験紙のようなものだったのだ。

つまらないとは私は思わない。必至になってやっとできそうなことだから、それが私の夢なのだ。今でもそれは変わらない。普通の大人として、普通の家庭で普通に暮らしていくのが私の夢だ。

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限界ということ

もうだめだ・・・。限界だ・・・。

もう酒はこれ以上飲めない・・・、ということではない。

そうではなく、何かを真に望んでやりたいと頑張っているときのことだ。もうだめだ・・・。限界だ・・・。ごめん・・・。だれに謝るのか・・・。自分だろうか。期待する自分と期待する友人知人だろうか。

力をだしてできること。それにも限界がある。何かを考えて知恵を絞ることにも限界がある。サラリーマンは相撲とりは自分の力で勝ちあがれるから羨ましいと思うときがあるという。でもそうだろうか。力の差を感じたとき、プロでもアマでも、そんなときが限界なのではないか。

そして大事なことは、限界を感じるのはだれかにその力の差を見せつけられるからであり、自分の力のなさを嘆くことから始まるようだ。そしてもっと大事なことは、自分の思いとは別にそれは限りなく力が接近しているということなのだ。

差がないほど、当事者たちは力の差を敏感にかんじるものだ。ああおれはだめだ・・・、と。そう想った時が実はチャンスなのだ。だからあきらめないことだ。好きなことなら、どんなことでもあきらめないだろう。だから、すきなことをやるのが一番いい。

限界ということを分析してみよう。もっともっと不思議なことがそこにはある。

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気力をもらう

忘れることだ。そんな言葉が私に聞こえた。

そうだ。

何を私はしているのか。暖簾に腕押しばっかりだ。それでもいいし、それしか今私にはできない。だれが何を言おうともそれしかできない。やれるかどうかわからないし、それをやるしかない。そしてそれをやることが私の挑戦なのだ。

いつ諦めるか。そんなことを想うこともある。でもあきらめない。なぜならば今が一番若いし、今しかできない。どんなことも成果を得ようと思ったら今という時しかない。今何をするか。それが問われているだけなのだ。酒を飲んで文句をいうか、それともそんなことを忘れて何か科学のことをほんの一瞬でも考える力があるのか。

そうだ。

それしかない。気力だ。気合いだ。でもだめかもしれない。100のうち99はだめだろう。でも1はOKかもしれない。それならやればいい。やってみれば、そんな不安も期待も忘れて純粋に何かを考えることができる。

ひとはそんな才能をもっている。自分を忘れて自分の力を出し切ることができそうだ。少し気力がでてきたようだ。

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本当の人生とは

だれが一番真の人生を送ったのだろうか。

私は本当の人生を感じたい。しぬまでに本当のことを知りたい。何が真実かを知りたい。

言いたいことをそのまま話すだけが真実ではない。言葉にならないこともあるだろう。アナウンサーは時間との勝負をしている、時間の制御者だと自負しているという。そんなこと何の役に立つのか。関係ない。そんな埃は誇りではないし、勘違いだ。

ほんとうの人生とはいろんな所をみて自分で考えるしかない。どこにもあるように私は思う。そして本当の人生を送っている人たちがいっぱいいる。ああこの人たちは、このひとは本当に世の中を楽しんでいるし、苦しさ、つらさも知っている・・・。そう感じるひとがいっぱいいる。

ほんとうの人生を味わうにはどうしたらいいのか・・・。そんなものがあるかどうかはわからないのだが、私はそんな人生を感じたい・・・。本当にそんな人生があるのだと信じてからこの世を終わりたい・・・。いつもそう考えている。

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利己主義

もういやだ。俺は利己主義でエゴの塊のようなものだ。

友達がいない。親友はいなくなる。

どうする。

どんどんいなくなる。

病気なんて今の世の中にあるのか。どんな病気でも治る。そうではないのか。

だれも治せない病気なんてないはずだ。

利己主義だった。自分がすべてだと・・・。

みんながいるのにどうしてそんな・・・・。

利己主義はみんないっ時はなるものだ。でも気づくはずだ。自分一人でいきているのではないし、一人では生きていけない。みんな分かっている。それでも見栄をはるのはどうしてだろうか。

友がまたひとりいなくなったという。さみしい・・・。でも私はまだいきている・・・。あんなに大けがをしていきている。なんか申訳がない気がする。一度、・・・・。

利己主義すぎるのはもう卒業したのだけれども、そのときはもう遅いのか・・・。いつもいつもそんなタイミングでしかこの世の中は動いていないのか・・・。

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さぶちゃん

私が肩の力の違いを感じたのはサブちゃんの投げる球だった。野球部に所属していたのはやっぱり違うとそのとき肌を通して感じた。ちからの差はどうしようもない。それ以来、私はある種の劣等感と尊敬の念を彼に抱くことになった。

私が数年前の早朝、東京へ仕事に向かうとき、車が一台とまった。そしてどこへいくのか、えきまでいくのか、送って行こうかというやさしい言葉が続いた。いつものことだからいいとお礼をいってバスがきたので別れた。

そんな急にいわれても、・・・。

一年前に私はこの自分の家族のいる静岡に帰ってきた。落ち着いてから、・・・・。形をつけてから、・・・。自分の気持ちをつけてから、・・・。会いに行く・・・。そう考えていた。まさかあんなに元気で健やかさの模範みたいなサブちゃんがどっかへ行くはずはない。そう・・・、信じられない。一緒にうまい酒を飲もうとずっと思っていたのに・・・・。

まちがいであってほしい・・・・。まだそんな気持ちだ。さっき4時間前ぐらいに聞いたばかりだ。とても信じられない。みんないってしまうのか・・・。

そのものだった。強い意志の塊だった。そんな風に思う。まちがいであってほしい・・・。

でもきっとやるだけのことをやってきたのだと私は考えている。ひとは病気になる。怪我もする。私は事故で「あんたまだ生きているの・・・」といわれた。しぬわけないよな・・・。そんな冗談をだれがした・・・。そう言ってまた会いたい。きっとそうなのだ。悪い冗談だ。きっと・・・。さぶちゃん・・・・・、・・・・。

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米国大統領

この世の中で一番偉い人はだれか。

アメリカの大統領だという。でも本当だろうか。一番偉い人はどんなことを考えているのだろうか。大衆を動かす力を持っているのだろうか。どんなマジックを使えるのだろうか。本当に偉い人なのだろうか。

そういうことを話題にするものではないような感じがする。絶対に私たちがなれないもの、それは米国の大統領だ。人類創世期の首領のようなものだろうか。それとも単に世襲の世界なのか。映画の世界の続きなのだろうか。どこでも世襲が当たり前になっている。

それが、崩壊するのは歴史が物語っている。どこかで大きく社会は変わる。まるで遺伝子の使い古しが捨てられるような現象に見える。

新しい遺伝子が必要なのだ。これからの社会を引っ張っていくには、それまで頑張らなければならないのが米国の大統領だ。この世界のリーダーとして平和と戦争に深く突き進みコントロールしていかなければならないのだ。

歴史は繰り返すという。ひとは己の力と誇示したいとだれもが想うものだ。そんなとき、たぶん歴史が繰り返すのかもしれない。学習しても忘れるのだ。なぜなら本能が最後には勝つのだとだれもが知っている。

本能の中に平和というDNAを埋め込むのもやりすぎだ。どうすればいいのだ。米国大統領は米国市民でなければ選べない。

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不自由さについて

自由がいい。自分のことは自分でする。

不自由さとは、そういうことができないことを意味する。怖い。でもだれでもそうなってしまう。個人差はあれども、最後は動かなくなる。

でも不自由なのは嫌だ。元気なうちに終わりたい。そういうことをおふくろはいつもいっていた。動けなくなってひとの世話になるのはいやだ。そうしてご詠歌を隣組の婦人会でいそがしくやっていた。

自由を妨げる。それはだれかの邪魔になるからだ。そんな不自由さは、戦うしかない。闘えない不自由さは老衰によるものか。老衰してもその不自由さと闘わなければいけない。生きている間はどんなことでも、やらなければならない。生きていくことはやはり、戦いなのだ。

それも自分との戦なのだ。いくら知恵をしぼってももうだめだということはある。でもそれでも生きていくには戦うのだ。命ある限り戦うのだ・・・。

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食べること

モノを食べるのは命を維持するためだ。

そんなことを言うと、なんと野蛮なといわれるかもしれない。

でも、それでいい。

これからいろいろなことが解明されて、病気もなくなり、やがて死もなくなるかもしれない。ヒトが死んだのはいつごろか21世紀ごろの科学がまだ発達していなかったころのことだ・・・・。そんな会話が聞かれるのももうすぐではないか。

でも、それはいやだ。

なぜならば、生まれて消えるのは生命体の定めである。いつかいなくなるから、いつか消滅するから・・・。だから、がんばる。ひとの命は継続するものだ。だから、そこに命が伝わり、文化とか伝統も継承されていくのだ。

食べることは、だからその命を支える重要な活動なのだ。それがすべて必要なくなって単に生きているだけなら、どうなるのか。細胞の衰えもなくなるなら、それは後期老齢者の問題もなくなるだろう。でも、肉体的なものと精神的なものはどうするのか。もし生命の誕生は継続するなら、この世の中はヒトであふれてしまう。

新たな消費税、命税というようなものが出てくるのではないか。それとも、身体を動かしひたいに汗して働く必要もなく、ごくごく一部の人が活動することでいい時代になれば、もうミニチュア化していくだろう。今のありの大きさぐらいなら、これから20倍ぐらいになっても十分だろう。人類1000億人は新たな惑星に移動するのではなく、この地球上に居住できる。それを進化というだろうか。

食べ物もアリの大きさなら、体重10グラムなら食糧は0.1グラムもいらないだろう。そうしたらこの地球上の資源はほぼ無限大になる。

それでもグルメは伝統として残るのだろうか。

そんな世界は地球の寿命100億年の今半分だから、崩壊寸前にあるのではないか。やはり宇宙開発を地道に進めていくしかないだろう。それとも、人間は時間を克服して、複数の空間を利用することができるようになるのだろうか。

隣人はちがう時空の住民なんていうのも現実的な解決方法かもしれない・・・。

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オリンピックのアカウンタビリティ

今の若い者はとんでもない。私らの若い時に比べたらなんと情けない・・・。これは、私が小学校3年か4年ぐらいの時に聴いたものだ。

その当時、なぜおれらはそんなことを言われなければいけないのだ・・・、と不思議に思ったものだ。戦後に世の中は確かに変わった。その変化の度合は正義と悪でいえば大きなパラダイムのシフトだったのだ。

今、そんなことはみんな忘れている。だれも言わない。けれどもやはり日本人の和の心というものがどうも廃れてきているように思う。でも、オリンピックはそんな疑念を振り払ってくれる。日本には大勢の若者が国際舞台に立って堂々と勝負を挑み、兆戦を受けている。どこからそんな力がわいてくるのか。どうして途中であきらめないのか。

予算がスポーツ振興に回るのは27億円だという。そして、各スポーツ部門ごとに3分の1は自己負担だという。それらを入れて42億円。中国は480億円の予算だというのだ。人口比で行けばおかしくないというのではなく、やはりいろいろな交流を図る上で、そういう負担はこの社会で賄っていくことだ。

スポーツの効果はだれでも知っている。いまさら言うまでもないだろう。スポーツ振興費は医療費の軽減なんて回りくどいことを言う前に、戦争などの軍事費を平和目的で利用することになるものだ。国際協力の最たるものではないか。ODAが一時の軍事的な貢献の代替として機能していることはみんなが知っていることだ。

それは、健康とか若者の育成とかいうだけのものではない。国際的な結びつきでも、そういう若い時の天才たちの交流でもっと違う形で進展するものではないだろうか。

いろいろな形で国際的な交流を行うにはスポーツはなくてはならないものだ。食べ物の食糧として相互安保ととともに、スポーツはお互いに競い合う形で理想的な貢献をしていけるものであり、アカウンタビリティはすでにあるものだと私は考えている。

もしないとすれば、それは私的な目的でつかわれたり利用されたりする場合ではないのか。

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天才たち

うらやましいもの。スポーツの天才たち。

体操のできる兄弟が有名だった。学校でも、地域でも運動会やレクレーションの大会があると模範演技をする。すごい兄弟だった。私はただただうらやましかった。

そんな天才がいっぱい集まるとそこでも差がでるのだ。とても信じられない。まるで子供と大人のような違いもある。どうしてなのか。身体能力はやはり総合的なものだろう。自己コントロールというソフトの部分がとても大きいものだと思う。

プレッシャー、重圧。どちらも同じことだろうが、最近はなにか続けてつかっているようだ。責任感とか義務感とか・・・。その原因のようだ。そんなことを感じたことは私はない。そういう場に立てないからだ。いけないし、選ばれないし、兆戦もしない。才能がないからだ・・・。

はたしてみんながそうなのか。みんなが生まれながらの天才なのだろうか。遊びの中にかれらはなにか感じるものをみつけたのだ。何かをみつけてまるで遊びのような楽しさを捕まえたのではないか。私はそう想った。

楽しいのはどんなことにも勝る。いくら何を言われようともそれは自分の心と身体が知っている。そこでいろいろなことができるようになるなら、その虜になってしまうだろう。同じことを感じて、楽しいぜ・・・という友が近くにいれば、さらなる何かが開けてくるのだろう。

大人とこども。そんな差がもしあっても、そこでさらに学ぶことができるかもしれない。それだけそこに集中する力をもっているならば、・・・。

天才って、たぶんそういう楽しさを知っていて、ちょっとの苦しさの先に勝利がまっていることを知っているのだ。そしてそれまでの過程を楽しんでいるのだ・・・。

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健やかな心と身体の意味

すべてが充実している。そんな状況が私たちみんなの夢の一つではないだろうか。

自分にはどうしてもできないことがあり、身の回りにはいとも簡単にやってのけるひともいる。私もそうしたいのだ・・・。でもできない。何が違うのだろうか。

オリンピックを見て考えた。どうしてあそこで差がでるのか。単なる運だろうか。すでに決まっているものだろうか。

いやそうではない。ひとつひとつのことを経て結果がでてくる。満塁なら、やはり「ああ、だめか・・・」とだれもが想う。そして、一瞬の間に、「やはりそうか・・・」と思うのだ。

でも、そうだろうか。考えが勝利からそれたときに「勝敗はつく」ともいえる。懸命にそのことに精を出す。それだけではないのか。勝ことを胸に、その過程でいろいろな不安が頭をよぎることも窮地に追いつめられることもすべてひとつのプロセスとしてイメージしているのだ。勝つことがそこで待っていて、そのための試練なのだ。

そして、次のためにつないでいくという気持ち、へこたれない気持ちが一番大切なのだ。弱点を情報としてつかむ。そういう観察力があって技術をカバーするのだと思う。ひとは機械ではない。知恵と工夫ができる。あるものを使い活用することができる。

私たちにあるのは健やかな心とそれを宿らせている身体だ。これら二つがあれば、きっとできるのだと私はずっと考えてきた。

今、できていないのは、次にできるようになるためなのだ。そんな簡単なことなのだ。しっかりと階段の一つ一つをみて上り下りする。そして往復するという目的を達成するだけのことなのだ。

それが、ときどき有頂天になって、一段を見ないでもできるとか、注意が散漫になるのだ。それでは、できないこともあろう。条件に依存するのはいつもいい条件ではないから、うまくいかないこともある。確実にこの身体でみて心で感じてやることが基本なのだ。

だから、基本はどんなひとにとってもすこやかなこころが大切なのだと私は思う。身体はそういうこころが宿るスペースなのだ。

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なきたくなるほどうれしいこととは

今、こうして生きている。いつかいなくなる日が必ずくる。何年かあとの自分がそこにいるのもたしかだ。そんな自分にもし会えるなら、もし今の自分が何十年か前のの自分に自己紹介できるならどうだろうか。「私はあなたの未来の姿です。」・・・。そんなことが言えるならどうだろうか。

なきたくなるほどうれしいだろうか。もし意にそぐわない姿なら、はずかしいと思うだろうか。そして努力しないだろうか。いじけてしまうだろうか。逆ならどうだろうか。米国大統領になっているとしたら、どうだろう。大リーグの選手になっていたらどうするだろうか。確約されていたらどうするだろうか。

そんなことは望まないし、うれしくもない。私はそう想う。なぜならば、不安と期待の中で、結果は自分の意思でしか決められないし、それはプロセスとして進めることだから、その一つひとつに意味がある。

そんなことがわかると、それはうれしいことだ。期待と不安は私たちの活力の源なのだと私は考えている。

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非難すること、されること

対峙して非難する。面と向かって批判する。それはいいだろう。その非難の仕方はいいだろう。そして非難される方も面と向かって、モグモグするだろう。それもいいだろう。

今、問題はインターネットで面と向かわない、対峙しない形での無責任な非難、批判があまりにも多いことである。そして、心理的にはこういうインターネットのような状況では当然おこるものだということである。

そこに各個人が責務という形で、この社会で何が大事なのかをしっかりと自信をもっていればそういうことはない。グローバル化というところで日本社会では通用していたことがそうではない。良いと思われていることが、実は他人の権利を侵害していたとかいう反対のことがある。ひとのマネをする。他人の畑のものは自分のものではないのだが、人助けという意味では恵みというものもある。

他人に恵みを与えることは難しい。他人から恵みをうけることも難しいものであり、容易なことではない。そこに相互協力という作用がある。

お互いに助け合うことだ。それは、ヒトとしての能力を最大限に払わないと実現しないものだと私は思う。それは、時として誤解されるからだ。私利私欲で行動しているといわれればそうかもしれない。みんなが自分の身を守るのが第一であり、他の人の命より自分のものが大事だろう。

それが制度化されれば公共の利益のために自分を活用することであり、ある種のいいわけは立つ。戦争は公益のためか、戦士は公益のために戦いに参加するのか。いろんな疑問がある。

それだからこそ、基本てきな考えをしっかりともつことが大事なのだ。非難や批判は耳を傾けてこそ中身がわかるものだろう。そこに批判する人のエゴはすぐ見えるものだろう。それを感じてわが身の行動に活かすことが大事なのだ。

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個性的なこと

私たちは生き物だ。ヒトという生き物だ。

それは弱肉強食の世界である。当然のことだ。菜食、肉食、雑食などと分けられるが、そこまで進化していない生き物がいっぱいいる。

個性的なヒトはたくましさと、その生の喜びを表しているようだ。スポーツ選手の鍛えた身体はまるで宝石のように見える。

個性は私たちの誇りだ。だれもがどんなヒトでもそれは必ずある。そんな個性をいいとか悪いとかではなく、そういうそのものとしてみていきたいと私は考えている。

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感動を与えるもの

実現できるかどうかわからない。そんな状況で果敢に挑むすがたがある。簡単にできる環境、能力をもっていとも簡単に勝利を獲得することもある。そして、体調を崩してたまたまだめになることもある。

私たちはどんな一つ一つのことでも感動をもらう。そこに理由があれば、それを理解して、心を揺り動かされる。

仕方のないもの。そうあきらめなければいけないこともある。政治経済の世界は、そこに紛争もある。そういうものを避けて通ろうとすると、通れないこともある。ソフトにモノわかりのいいだけでは、いいようにいじられてしまう。そんな状況をどうすれば納得いくように解決できるのか。

それは、確実に基本を学ぶことであり、その基本とは何かを理解することだと、私は今回のオリンピックを見て感じた。日本は中国にもう抜かれている。日本のGDPは世界18番目だという。それはそれでいい。成長して成熟していく過程の一つである。この後どういうプロセスを選択するのかが問題である。

そんな基本を学ぶことで切り抜けるという確信を持てるような教育や社会の考え方が私たちの日々の生活で私たち自身が感動を受けるのではないか。

ひとは自分で考えること、自分で動くこと、自分で他人のことを考えること、自分のことを考えることなどで、日々の感動をほんとうに得ることができる。私はつい最近そう感じた。

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冷戦ふたたびか

オリンピックが終われば戦いが始まるのだろうか。どうも冷戦というのは、いやな感じだ。

話し合いがない。一方が拒絶し、他方がそれを理由にしている状況は何も解決しない。交渉の席に立つ。それは、いつもいつも責められて非難されている隣国も知っている。その立ち回りはうまい。大陸に位置するという国民性だろうか。

強い身体能力は同一民族だろうから、よくわかる。ほとんど形態的には変わらない。たぶん、絶対同じ生物の同一のものだろう。ロシアとUSA、そして欧州。冷戦がまたるとするなら、まず当事者から話し合いという手法を奪い去ることだろう。

下手な理由でそれは十分かもしれない。疑心暗鬼。そんな人間の心理をつくことで簡単に冷戦に入るのではないか・・・。そう言っておけばだれも、そんな簡単な幼稚なことでそうすることはないだろう。

幼児帰りでもすれば話は別だが、そんなことはあり得ないだろう。ありえないことがありうるのがこの世の中だともいう。ではどうなるのか。一度あったことはまた起こりうる。

もし冷戦がはじまっても、それは研究対象となり、たぶんすぐに解決されるという見方は従来の考えだ。ちょっとちがう新規の考え方があるかもしれない・・・。

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本屋さん

インターネットの普及で世界は変わる。本屋さんはどうなる。新聞屋さんはどうなる。みんなマスコミ関連の産業だ。

大きく変わるのか。それとも変わらないのか。

どっちだろう。著者が増えている。研究者の論文が増えている。だからいろんな印刷物は逆に増えている。

現物を本屋さんにいって見て買うことは減ったようだ。それでも、まだまだ本の威力はすごい。リスク管理面でも保蔵のいい手段だ。自転車のようなものか。ひとの健康にいいものは残る。主役は人間だというのがこの世の中の主張のようだ。

インターネットが発達していろいろな情報をそこから得ても、どっちでもいいような情報は自分の身体で感じるような本がいいのだ。自転車とか歩くとかいうのと同じだ。

そういえば、最近、下駄というのはどういう状況なのか。草鞋なんていうものもある。機能はしっかりと踏襲されているのではないか。復活の道は、主役である人間の感覚にあるので、どうも幸先がよさそうな気配もある。

本屋さんも同じだ。

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自然の石段のながめ

崖に石の階段を築いたのは、家康の没後だろう。この有度丘陵の急峻ながけにどうしてこんな石段を作ったのか。それは、久能ざん東照宮のためだ。

ここ何日間かにわたって、訪問している。最初の曲がりをゼロとすると上まで16の屈曲点がある。その中で8から9までの間が長いようだ。私が気に入っているのは、その石垣である。崖面に自然にまとわりつくような形で石垣がある。石段にそってそこは幾重にもなっていて美しいと感じる。

水はけの問題もよく調整されている。大雨のあとも石段には雨水は溜まっていない。すごい職人の知恵が感じられる。

この石段の眺めはやはり、時代劇だろうな・・・。そんなことを考えながら、降りてくる。小説もいいな。もし若くして体力を制限されてたら、私はなんで飯を食おうかと考えたことがある。小説家になろう・・・。そんなことを想った。なぜだろうか。たぶん、この石段をのぼったときに深層心理として、時代劇の様子をそうぞうしていたのではないか。

自然の石段のながめは、なんとなく風流さもある。足元をみつめて降りてくるとき、ときどきなにか気配を感じるのは当時の侍の姿のような気もする。この駿河の土地の宝ものの一つだ。大事にしよう。

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日本女子ソフト金に想う

おめでとう。そんな言葉が自然にでてくるような試合だった。

みんな淡々として戦う。そこに自意識過剰とかスターとかいうものはない。それはいぶし銀のような風合いだった。子どものころから、男のこに負けない練習をつみかさねてきた成果は決してその時の雰囲気で飛ばされるようなものではなかった。

そんな金メダルの日本女子ソフトについて想うことが多々ある。日本は自由になったということだ。たしかに普段、ぶつくさと文句ばっかり言っているのだが、よい面もそうでない面でも自由になった。心がおおらかになっているというのだろうか。

このまま日本は経済成長を続ける道を選択するとは限らないな・・・、と私は想ったのだ。違う道を選択するのではないか。環境とか表面ばかりではなく、本質的な人の道とかいうものに日本人はこれから大きな興味をもって生きていくのではないか。インドの神秘さというものではないが、日本にはそういうものが伝わってきている。

多様な社会がいい。私はそう考えている。なぜならば、優秀さはその逆に支えられているし、対局を見て感じることにより、それらが本物になるからである。

日本女子ソフト金メダルは、そんな想いを浮かび上がらせたようだ。

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スタインボルト選手

ジャマイカは陸上王国だ。強さが違う。競うのではなく魅せるために走るようなものだ。

みんながうらやましがる天才だろう。

まだ22歳だという。もちろん米国で練習しているひとがアスリートには多い。キムコリンズはセントキッツの生まれだが、米国生活だ。カリブの小国の選手は、米国で多くの才能を開花させている。

なんとも羨ましいことだ。天才であり、英雄である。子どもたちの模範であり、人気も絶大だ。だからおおらかであるとともに、その責任も大きい。

彼らをみて世界の子供たちがいつか自分も自分のフィールドでああいう戦いをするのだと決意している。そんな姿がいま地球上にあふれているのではないか。

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勝負の世界

勝ち負けは必ずある。だから、私もときに困ってしまう。なぜなら、負けるのが大嫌いだからだ。

子供のころは、負けるなら恥ずかしくてとても人前にいられなかった。負けるなら死んでしまいたいというような気分だった。それが、体全体を負けず嫌いという風体にする。だから、逆にまかしてやれというように本気でやっつけられる。兄弟げんかもそうだ。みな大きい兄だけだ。だから、いつも負ける。悔しくてくやしくてもう・・・・、くやしくて、くやしくて・・・。

だから負けたくない。悔しがるのはもういい。いつかそう思った。絶対に負けない方法はない。強い奴がくれば負ける。

いつか負け方を学んだ。それから、悔しさはなくなった。まけてもそれを次に活かすのだとしった。試験に失敗することは負けることだった。そして、負けることはそこであきらめることであり、勝つまであきらめないことだと確信した。

それはとても苦しい選択だ。簡単だが、実際には大変だ。でもあのどうしようもない悔しさはなくなった。

勝負の世界は、負けるが勝ちともいう。いつか勝てるのだと信じることだ。負けたときは次の勝利のためにあるのだ。勝った後に負けることもあるし、そういう時代を終えたときに真に勝負がつくのだと私は考えている。

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ブログも夏バテか

どうも散漫になる。夏は暑いからいいとかいいながらも、ばてているのだ。

それが夏なのだ。そうでなければ意味がない。寒い雪の降る夏なんて想像したくない。南半球の話ではない。

ブログも少々夏バテのようだ。どうも北京オリンピックが終焉を迎えそうだ。まだ・・・油断はできない。どんなことが起こるかはわからない。優秀なアスリートたちをもし失うことがあれば、それは人類の損失だ。

夏バテどころ話ではなくなる。ブログもばててはいられない。

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さんぽ

久能ざんの石段。坂道とも違う。平坦な道路とはもちろんちがう。

上る時の方が楽だ。

下るときは運動靴の底の弱さが気になった。やはり、トレッキングシューズの必要性がわかった。そして、もうひとつわかったことがある。

なんだろう・・・。

それは、つま先を下向きにしないことだ。

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リスク管理

ときどき想う。リスクマネジメントの大切さ。雷も大敵だ。

どの程度、そこに対応すべきか。頻度か重大さか。

その均衡をどうとり、どう判断するかが重要なポイントだ。

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しらす漁

ドドド・・・ドド・・・。轟音が響きわたる。ああ7時になったなということだ。

久能海岸の朝。静岡からと清水からの両方からしらす船がくる日もある。どうも協定があるようだ。

ほとんどは潮の流れと風むきによって同じ方向に引くようだ。1艘と2艘の方法がある。ときに逆向きに入り乱れて曳くこともあるようだ。それは海況の穏やかなときだ。ほとんど岸辺いっぱいに走る。護岸用のコンクリートブロックにぶつかりそうな感じだ。そこに集中しているのだろう。

しかし、今朝はちがったようだ。ときにうねりがあると、危険であり、離れて操業する。125gで400円ぐらいのようだ。おいしい。生シラスはおいしい。鮮度のよいのは栄養価も高いだろう。少しぐらいお金をだしても味わう価値がある。

やはり、資源が大事だ。そこに漁業のよさがある。漁場が近いということ、それがいい漁場であること。これらがそろえばいいのだ。

しらす漁をみるために散歩コースを変えている。とても興味深い漁だ。

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地元とは

ふるさとが地元の人は多い。そして、小さいころから、その土地のことをよく知りつくし、インフラや伝統文化の変遷なども肌に感じている。そういう経験はとても重要だと私は考えている。

どこの土地でも、その地域をよく見たいと思う。だから、新しい土地に出会うのは事務所の移動だったり、仕事の出張だったり、理由は多様でも、関心は好奇心を満足させることにある。楽しみであり、まったく苦痛は感じない。

そして、最近想うことがある。自分が住む土地のことである。仕事を二十年もやっていたし、自宅もある。それが、この二十年ぐらいちがう土地で仕事をしていた。時間のあいた週末に帰ってこれることがたまにあった。そんなことであった。

そして、今この住むと決めた土地に帰ってきた。仕事をしていた若いときは、事務所から休みの日以外はでないことが多い。だから、あまり知らないし、仕事以外はあまり興味がないという若さのなすがままのことをやっていた。

いろんなところを見てきて、今、ここに帰ってきた。とても感慨深いものがある。なぜなら、ときどき顔見知りにあるからである。それは、どのほかの土地でもあり得ないことである。自分の生まれ故郷でもそれは無理だ。どうしてって、子供のころの思い出と仕事をしてからの人生は大きく違うのだから・・・。

そして、いいところだと感心する。いいところを私は選択したとほめたいところだ。そんな地元にながく住み続けて、そこで何かができないか・・・。

いま、そんことを思案している・・・・。

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我に帰ること

まだまだオリンピックは続いている。

連日、声援を送っているのだが、ひとつ気になることがある。それは、タイトルに挙げた「我に帰ること」である。きっと、みんな初戦にまけるとそれができないままに終わる可能性が高くなる。複数回のチャンスがあれば、初戦で失敗しても実力が出ていないことに気づいて挽回することができる。名誉回復、汚名返上ではないが、とにかく浮ついたまま、気づいたら何にもしないで日本に帰ってきていたというようなことはないだろう。

いかに地に足をつけて対応することの大事さがわかる。オリンピックはいろいろなことに気付かせてくれる。ほとんどは、自分のふがいなさである。そして、どうしてできないのか、そんな程度のことが・・・、と考えてしまう。

いつまでも夢の中では、勝負はできない・・・。

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げんきのいい人たち

生き生きしている人たちのグループがある。

いろんなメディアに顔を出し、その才能をいかんなく発揮している人たちだ。若くして、才能を見いだされて活躍する。

タレントとはそういうことだ。自分で創作もする。企画もする。

そして、その中で主流へと駆け上がっていくのだろう。そんな姿は元気があってうらやましい。思う存分、あるだけの才能を活かしている姿は神々しくさえある。ひととは偉いものだと感じる。

みんな同じ数の細胞でできているのに、どうしてそうも大きく違うのだろうか。ふとそう想うのだが、ここが違うらしい。あまり違わないのだ。ひとが生きていること自体すごく奇跡的なことだから、ひとの世界に日々いきている私たちは、えらいひともそうでないひとも大きな差はないのだ。

げんきのいいのは、それでもいい。ほんの少しのちがいだけなのだが・・・。この解決策はあるだろう。

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文化人と現代人

現代は文化人があふれている。

どんなヒトもすべて文化に通じて伝統に詳しい。自分たちの文化、今の世界に生きることと切り離しはできないものだ。無形文化と有形文化。ひとは無形だろうか。有形だろうか。どちらでもある。

伝統ものを作る姿は、文化そのものであり、現代の良さではないか。伝統がなかったころ、文化が生まれ始めたころ、そのころは文化人は存在しなかった。歴史がはぐくんだ伝統文化、そしてそれを支える現代人がいまここにいるのだ。

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文章心理学