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2008年9月

アジアの真価

日本を含むアジア地域の力は大きい。

それは、この地域全体に流れている食べ物であり、衣服であり、文化ではないのか。太平洋の島国でも大陸から渡った痕跡がそこかしこに見える。

日本の神社仏閣は同じような形でもっともっと素朴なものが島しょ国にはある。そして大陸には山岳地帯、海岸地帯、砂漠や広大な陸地をもつ平野もある。その根幹には大河がある。自然の恵みを長年にわたり、運んできて人々の生活をはぐくんだ河川である。

もともとの文化はどうも中東から来ているらしい。そこから東西南北へと分散したのであろう。どんどん自然条件の厳しいところへと人々は移動して、生活の場を築いてきたのだ。

アジア地域の住民はどこか共通している。宗教の流れもあるだろう。仏教と他の宗教とのかかわりもあるだろう。どんな心情が仏や神々というものを創造したのだろうか。荘厳な人間の行いでもある。

無限大の世界。

時空をかけるこころの存在。

そんなものが多分、どこかの宇宙の果てからやってきたのではないか。生物としてきたのか、神々としてきたのかは知る由もないが、何か神秘的である。

そういう源流が、すべての文化の発祥地がアジアにある。このアジア地域の共通の意識があるように思う。そういう一体感がもっと具体的になれば、そこにこの地域の真価がでるのだと、私は考えている。

アジアの真価に期待しようではないか。そのいいところは心ねの優しさではないかと私は想うのだが、どうだろうか。

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日本のゆくえ: 自由でおおらかな社会を子供たちへ残すために

これから、この国はどこへいくのだろうか。

だれが一体、この国の舵を取っているのだろうか。国民ひとりひとりがその権利をもっているのだが、一票ではあまりにもなにもできない。ほとんど無力だ。

そんなとき、私たちはこの国に未来はないとか、行く末を案じてもなにもできないわが身に失望して、無関心になるのだ。

無党派層。

日本の未来を握っているのは、そんな無力感に包まれた私たち一人一人なのだ。本来、自分の生活が政治の動きによって早急によくなったら、それは怖い世界でしかない。または私利私欲の真っただ中にいるとしか考えられない。

だから、私たちは、まずキャスティングボードを握っていることを忘れてはいけない。しがらみのないことは無関心であればいいということではなく、臨機応変に最良の選択ができるということである。

そんな簡潔なことを、もし無関心ということで、その本質を忘れているなら、とても情けない話である。

日本のゆくえは、そういう無党派層といわれる無関心な私たちがこの手に、私たちひとりひとりの手中にあるのだ。

それは、私たちがみることのできない未来の日本の姿であり、できるだけ自由でおおらかな社会を、私たちの子供たち、その子供たち、それは未来の大人たちであり、今をいきる私たちのこころそのものを伝える人たちに伝えていくことである。

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人事は世界共通の関心事: ・・・でも政治の目指すものはちがう

ひとのことは、どこへいっても一番の関心事のようだ。それは政治の世界では当たり前のようだ。そこに政治力というものがあるとすれば、それは人事を扱う技術のようでもある。

政策はない。人事のみ。そんな国家があるのだ。ほとんどがそうかもしれない。なんのために内戦がおこるのか。現実の苦難に立ち向かう国民を支援するのではなく、敵をつくり、そこを倒すことによって勢力を増やす。それが、国家の権力を奪取する唯一の道であると信じているのか、それともそれしかないのか。

たしかにどこにいっても、ひとのことは大切だ。それが人気を得る手段として効果的である。人気がなければ政治はできない。簡単なことではない。そこにはなにがあるのか。仲間、協力者、味方に有利な人事ということになろう。

それが保身につながる。でもそこにこだわっていると、大きな過ちを犯すことも事実だ。大切なものを、私たちはこの世界共通の関心事である人事についての基本的な考え方を見直す必要があると私は考えている。

もう一歩、踏み出して、少なくともだれのためにとか、なんのためにとか、考えることが重要ではないのか。

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日本の政治

敗戦ショック。日本人の心に大きくのしかかっていた重荷はなんだったのだろうか。

戦死者の慰霊に対する諸外国の反発があった。一方、軍隊への国民の参加が必要なくなり、経済界・産業界へと主力を投入できたことから、経済大国へと変化した。

ここにギャップがある。欧米諸国とのちがいは文化の差でもあり、敗戦によって人種差別や文化的な差別を受けると覚悟していた節がある。意識下にあるものは、ふだんの生活で試される。日本の商社マンはそういう中で戦ってきた。日本の外交官も同様である。

日本の政治はどこを向いているのか。もともと中国を手本として発展してきた日本社会である。それが欧米列強の力のもとに開国したのは、中国が同様に翻弄されてからではないか。抵抗する日本という国は、どうしても敗戦という痛手を受けなければ、今の道にはこれなかったのではないか。

神の国、日本。そんなイメージがあり、国家の困難なときには神が手助けしてくれるというようなことがあったのだ。でも、それはちがった。民主主義というものが敗戦によって浸透してきた。みんながそれまでの日本の良さを忘れて、否定してきたのだ。でも、それは脈々とつながっている。

そして、そういう伝統を認めた上で、やはりひとは平等だということ、公平なんだということを全体で再認識しなければいけない。そのためには、何が必要か。制度としての平等を真に示すことではないか。だれに対してといえば、それは国民に対してであり、世界に対してであろう。

国の制度そのものを変えることだ。国民が本当に主役なのだから、そこにひととして生まれながらに格差があるというのはおかしい。そんな議論は、北朝鮮の例と同じでまったく感情論で流されるように思う。

でも、そこから新しい日本がはじまると私は考えている。なぜならば、ひとはだれもが平等だと認めることで、だれもが自由な選択の中で人生を送れるからだ。そこに私は例外はないと思う。

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この世について

生あるものは必ず・・・。みんないつかは無に帰すのだ。

その時、何を想うのか。なにもかもなかったことなのだろうか。

この世の中のいろんな出来事、心の葛藤なども、そんなものでしかないのか。

この世に何を残しているのだろうか。何もないのがいいのだ。

無になる。無我夢中で生きることが、その時に想うことではないのか。

始まりと思うのか、終わりと思うのか。それはわからない。でもいつかかならずやってくるのだ。

時空へ旅立つなんていう気持ちになっていれば、それはすごいことだ。

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闊達な議論を望む

一人の国民として、何を政治にのぞむか。それは、闊達な議論だ。そんなものありはしないというなら、それはそれでいい。どうむ日本人は形をばかり重視しているようで納得できない。もっと自由でおおらかな考え方でいいのではないか。

所信表明も選挙が見えているので、それに合わせた臨戦態勢をしくのは当然のことだ。売られて喧嘩は買わなければ男ではない。何かへっぴり腰の野党第1党だ。リーダーの性格ではないのか。

安全な石橋をたたいて渡ることしかできないのではないか。もう半分は野党のものなのだから、もっと闊達な議論で堂々と政権を奪取することが、急務ではないのか。それしかないのではないか。これで後退するのだろうか。あと一歩だったと、自負するのだろうか。責任はだれにあるのか。

これで天下分け目の戦いだし、結果がどうあれやめるという姿勢ではだれもついてはいかない。国民の気持ちを分かっていないようだ。

王監督の反省の弁を聴いていないのだろうか。あんなに力があっても総合力として発揮されないならそれは監督の気持ちの持ち方、つまり戦闘態勢にあるかということだ。なければそこに空気は集まらない。

太郎が一郎に所信表明し、宣戦布告したのなら、それに呼応して相手になるべきだ。何か後ろ向きで逃げていくような格好が感じられるのは私の勘違いだろうか。

闊達な議論をすべきだ。失言なんて下手な手だしをしないでもっと大きな強く明るい日本の政治家であってくれ・・・。頼むぜ・・・。

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流れを読む

あまり先を読むのは好きではない。でもリスク管理は大切だと考える。それは、この世の中の流れがどうもいろんなところで結びついているように思うからである。

団塊という言葉は嫌いだ。それは気がついたら、椅子取りゲームの椅子がすごく少ない世代に生まれてしまっていたからだ。仕方がない。競争とかはいつものことだ。すぐに比較される。組み分けで差別される。それは数の多さがなせる技なのだ。

そこにあるエネルギーは数の比ではなく、爆発的に拡大するようだ。発散するところがなくなるという感覚だ。東大安田講堂。あそこに吹き出したものもあり、浅間山荘に吹き出したものもある。

時代の動きは、そういう当たり前のことで決まっているようだ。少子化はベビーブームの逆の現象だ。ということは力が全体としてなくなることだ。

そして、競争もなくなり、総合的な力が減少するということが見えている。そこでどうするか。リスク管理の分野の重要性がそこにある。原因がわかれば解決できる・・・。

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選挙の行方

二大政党政治。それが理想の形だろうか。どっちへいくのかあまり大きな変化を望まないということだろう。こっちがだめだったら、そっちへ変えるという選択しかない。

同じ穴のムジナということだろうか。国民はどっちを選択するかではなく、ヒトを見て選ぶべきだと私は思う。なぜならば、いい人がやはりいい政党を選ぶからだ。力のある政治家はまっとうな考えの政党にくみするだろう。

仲間がいて初めて認められるともいう。

でも、あまりにかけ離れていては国民はついていかないだろう。そんなとき、脅迫するような政策を突き付けられるなら、バラバラの政治しかなくなる。内向きの態勢と外向きの構えが必要なのはみんな分かっているだろう。

バランスのとれた政策、独自性のある主張、政治を行うには、自立性が不可欠だ。それがないから、今の日本は宙ぶらりんなのだと私は考えている。バランスのとれた政治力、軍事力、国民力が大切なのだ。

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心技体

相撲道。そういうものがあるのだ。日本文化の中にあるのだ。

モンゴルと日本。相撲というものが通じているようだ。横綱が優勝した。その中で相撲道という言葉を使った。もともとそういうものだったのだ。教育があまり浸透しなかった時代に、一人前にいきる知恵を子供たちに授けるには、強い肉体とそこに心をはぐくむ必要があったのだ。

それは、親や祖父母であり、地域の伝統風習であった。そこから、弱者を救うサーフティネットもあったのだ。弱いものはいじめられても、それは温かみのある接し方の一つだったのだ。どこへ行っても、もし知能が低ければ、順応することができなければ、それはとても嫌なことである。

心技体を鍛えるのが相撲道なら、それは日本に古来から伝わる精神であり、大陸からその伝統をもってきたのだ。

心と技とからだ。

この三つが必要なのだ。この世の中をいいものにしていくことにつながるものだ。体の技が優れていても、心の技が劣っていれば、完成はしないし、進歩もない。

白鳳の優勝はそんなことを考えさせてくれた。大鵬、巨人、卵焼き。巨人の王選手は、白鳳もアジアの人だ。地域の文化として発展するのがいいのだ。そこに共通するのは、心技体なのだと私は考えている。

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辞任劇の裏側にあるもの

組閣5日目に辞任する大臣。その裏側にあるのは何か。

そんな疑問がわいた。なぜならば、ありえないことだから・・・。優秀な官僚出身の大臣がどうしてそんな無分別なことをするのだろうか。まったく理解できない。

ここまでは、一般的なコメントであろう。

しかし、その裏を探れば、あ一連の言動、つまりごね得、単一民族、日教組ぶっ壊しなんということが、一度に出てくるわけはない。恣意的に出したもの、またはそういうたくらみに乗せられたということではないのか。それは、混乱する政党間の争いそのものではないのか。

国民不在という絵にかいたような失言をまるで優等生のように実行している。なぜ・・・。ここでふたたび同じ疑問が起きるのだ。

決して反省もしていない。それが政治家の主張の核となっているという。若い者の支持もあるという。半々の反応が何を意味しているのか。世論調査の信頼性があらためて問題ではあるが、これはある一定の前提条件に従って得られたものであろう。

選挙に出るという。危ないと本人は言っていたので本音だろう。本音とたてまえが本当は逆ではないのか。選挙に勝ちたいために、行った言動ではないのか。

とすると、またまたなぜという疑問が残り、それは消えない。

この騒動で私が、残念に想うのは、それぞれの利益代表組織が反論するだけで何か手前勝手な人たちという感じを受けたことだ。もっと、総合的なものとしてそれぞれがコメントできないのか。場当たり的なマスコミの質問でなかったことは、確かだと思われるがどうか。

だれかが、狙い撃ちしたのではないか。サッカー選手がゴールを狙う習性があるように、オウンゴールを誘い込むたくらみがあったのだと私は考えている。浮き浮きしているときに足を踏み外させる何か癖のようなものをその大臣はもっていたのだろう。

知っている人たちは、どっかでほくそ笑んでいるのではないか。そんな政治でいいわけはない。たくらみであるなら、もっと日本人らしく、正々堂々としなくてはいけない。

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ペットは家族か・・・

太郎ちゃん、一郎ちゃん。公園でそんな声が聞こえる。

犬や猫などのペットの名前だ。どうも慣れないと変な気分だ。ペットは家族なのだろうか。どうしてそうなるのだろうか。

そこには、核家族化というものがある。日本社会の中流化がある。裕福でもないが貧困でもない。まあまあ心理的な圧力に耐えているという状況だろうか。胃袋に何かを入れてやらなければいけないという欲求とはまた別の生きる糧がいるということだろう。

心を癒してもらう。そんなことはおなかを癒してから考えようという時代ではなくなった。本当に切実な問題があるのだ。だから、人間社会はペットが必要になった。それは共存というものなのか、それとも人間の勝手でしかないのかわからない。

たぶん勝手なことだろう。

本来野生で生きるのが動物の姿なのだと私は考えている。そこには弱肉強食の世界があり、平穏な状況ではないだろう。でもおなかが満足すれば、餌として見ないので猛獣に食われるだけではないかもしれない。

ペットがなぜ・・・、家庭に急速に入りだしたのか。小さなウサギ小屋だからか。狭い所にまた余計なものがと私は思うのだが、違うようだ。もっと大事なことがあるのだ。

生き物とくらすことで、その生態に接することができる。犬とひととの違いなんていうものも実際の体験であれば、すぐにわかる。喜怒哀楽もあるようだ。だからヒトの代わりにそういう体験もできるし、もちろん癒してくれるようだ。

だから、ペットはほとんどの家庭でファミリーとして認められている。それでも、寿命が人間の5分の1ぐらいなので、家族全体で理解しておく必要がある。

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チームのために・・・

団体競技である野球、サッカー、バレーボールなどすべて、選手はチームのために頑張ります。そういう人がおおい。

実際にチームに貢献するには、個人が働くことが一番だ。そうすると個人記録が伸びることになる。チームのためにといっておきながら、・・・・。そんなねたみがでてくる。どこでも同じだ。とくに身体能力と努力に裏打ちされてプロの世界では、才能は隠せない。差が出る。

調子のいい時には、ほんとうになんでもうまくいく。そんな時に記録が伸びる。うそのように伸びていく。大スターになる。でも、チームは低迷し万年最下位だ。

バッシングはどこにいく。調子のいヒトに行く。なぜならば、成績のいいことはチームに貢献していることだ。これは間違いない。チームの不振は成績の悪い選手のせいだし、全体のことでもある。そんなとき、成績不振者は首になる。仕方がないことだ。

ねたみというものがある。ひとにはそういう感情がある。だれにもある。そしていじめのこころもだれにもある。リンチが始まるのではないか・・・。

チームのためにみんなが苦労しているのか。オーナーのために働いているのか。少なくともMLBでは己のためであろう。みんな大スターだ。

それでも団体競技はチームが勝利しなければならない。ベームはチームとして参加しているからだ。でも、そこで個人の才能が必要なのだ。

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なにがなくても国連総会へ

首相が指名を受けてから、数時間後に国連総会にでて演説する。同時通訳が働かず、冗談で笑わしたという。なんという男だ。まるでマンガの主人公だ。

でも、日本人は、そんなキャラかもしれない。それが、暑苦しいとか言われてしょんぼりするのもキャラだ。くじけてはいけない。

明るく強い日本。

これがキャッチフレーズだ。たしかに付け入る隙がない。暗くて弱い日本なら、なんとか独裁国家もやっつけてみよう、いじめてみようと思うだろう。どうせ、石つぶてをときどき投げておけばすぐには行動できないだろうとか、そのプロセスはみんな公開されるので、なんともおかしな話だと思っていたのではないか。

それが明るくて強い日本になってしまったら、どうすんべ・・・。そんなところで、ちょっと罐をかけてきたのではないか。ナショナリストだと・・・。みんなそうなのだから、いまさらである。

コミュニストではない・・・、とでもいえばいいのに・・・・。どうも視点が違うのだろう。

国際舞台へでていくのは、とてもいいことだ。

そこで明るく強い日本国の首相を魅せるのはさらにいいことだ。これから、国連の場で日本はいろいろと活躍していくだろう。そんな気配を感じるのは、とてもすばらしいことに想う。

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こどもたちの役割り

こどもたちが元気に遊びまわっていること。地域に子供たちの声が飛び交っていること。子どもたちの目が輝いているいること。

子供に役割は本当はないのだが、社会は確実にその存在を必要としている。

次代につなぐには、命をつないでいくしかない。

伝統文化を次の世代に受け継いでもらうとか、次の世代が受け継ぐのは、この社会の鉄則だ。

こどもたちは、元気に遊び、そして大人になるのがその一番大切な役割だ。そのために、社会がこどもたちを保護していかなければならないのだ。それは基本だ。そして子供たちがげんきな姿をずっとこの社会に表していくには、女性たちの健康が不可欠なのだ。

こどもは、これからの社会のたからものだ。

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責任の所在について

プロのスポーツ選手は、いつもその成績に責任を感じながらプレーしているという。でも、いつもいい結果が出るわけでもない。

どうしよう・・・。もし期待に添えなければ、どうしたらいいのか・・・。

大きなおおきなプレッシャーがのしかかってくるだろう。それでもプレーをつづけることがファンに楽しみを提供することなのだ。そこに立って初めて伝わるものがある。

だから、結果はともかく、そこに立ち続けることが、まずは大事なのだ。そんな気持ちでプレーすれば、きっと成果はでるのだ。

リラックス。それが一番だ。筋肉がほぐれて活動も最大になる。成果が出ないわけがない。そして楽しくプレーすれば、そこからまたいい結果が生まれる。

責任の所在は、そこに立つ勇気をうしなったら、おおいに問われる。それを忘れないでほしいものだ。

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失言パターン

どんなパターンがあるのだろうか。失言の追及方法とその発見方法、そして過大戦略に注目しよう。

もとは大したものでなくといい。素材がよければ、なんとでも料理はできる。そんな「シツゲン・ハンター」がいる。ひきょう者のやることかもしれない。動物を湿原地帯に引き込んで、おぼれさせるのだから、たちが悪い。

そのポイントは感情的なことに焦点をあてることだという。だれにも喜怒哀楽というものはある。そこに触れるように探し出す、または陥れるのだという。

農水省は少々手ごわそうだから、国交相にしたら・・・とか、最年少の少子化相にしたらとかたくらんでいるのだろう。でも世論は弱い者いじめは好まない。一見こわもての人物が憎まれ役にはとっておきのタイプだという。

でもひとは外見とは違うものをもっているので、あまりに外見がこわもてだからという理由で的にすると、逆に反撃されたり、柳に腕押しで悪ものになるのは、でっち上げる側になってしまう。

そこに党が絡んでいると、それは命取りになる。

そんなトレーサビリティがもっとマスコミで追及してくれるといいのだが、そんな同業者の仕事を邪魔するような行動は起こさないのが、当然なのか・・・。

また、失言にきゅうきゅうさせられる大臣がでてくるだろう。その時は、それをニュースにする側の取材も同時にやってほしいものだ。だれかが、プロ的にやっているのだ。シンジケートがあるのかもしれない・・・。もう、いくつもストックがあるのではないか。大臣が変わればそこから商売になるので事前投資でもしているのかもしれない。

だれだって、口がうまくまわらないことはある。そんなことにいちいち腹を立てたり、真意を意図的にごまかして報道したりするのは、どんな視点でやっているのだろうか。どっかおかしいのではないか。

もっと自由気ままに許すというおおらかさが絶対に日本人にはひつようなのだし、もともともってうまれてきたのだ。それを不正とかいやなことばで飾り立てるアホがマスコミにはいっぱいいるようなんだ。

そんなんのは気にしないでどんどんしゃべることだ。国民はそういう大臣をしっかりと支援するだろう。

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極東アジアの政界

韓国はすごい経済成長を遂げた。戦争が南北に分けてしまったものの、それは半島のなかでの悲劇であり、そんなには続かない。

北は、資源はあるのだが、国民のいない国家は成り立たないのだ。隣国や世界中から拉致してきたひとたちは生贄でしかない。国民を外からむりやりに持ち込むなんて、人間の考えることではないし、実行するのはもう論外である。

もうひとつ島国の日本がある。第二次大戦で腰砕けでへっぴり腰は永遠に続くようだ。経済大国とおだてられてそれでいい気になっているだけの三流国になり下がっているとしか言えない。官僚は優秀だが政治家がだめなのだ。

極東一家。そんな世界の政治にこの地域が一丸となって打って出るには何が必要か。仲間意識ではないか。韓国、日本は同じ民族だろう。ほとんど変わらない。でもちょっと違う。仲間なのに、そんな少しのニュアンスとでもいえる違いが、喧嘩させるのだろうか。差がないほどに、そのほんの少しの差に敏感に反応するのだ。

男女の関係のようなものだ。坊主憎けりゃ袈裟まで・・・、というのと同じだろうか。ちょっと違うがまいいだろう。似ているのだ。ほぼ同じなのだ。

だから、欧米からは気付かない。この地域が一体となって世界政治に打って出たら、すぐに平和が構築できるほどの大きな力を持っている。

それでは、困るという国々がある。だから、そのたくらみにうまくはまって仲間割れしている、させられているというのが実態だ。

極東アジアの世界は、国際社会でも力とその貢献ポテンシャルは極めて大きいのだと私は考えている。共通認識をもつことが課題だ。

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太郎と一郎

日本の代表的な名前の二人が首班指名を争った。衆院と参院。太郎と一郎。衆院が強いと憲法が決めている。

太郎が首班指名を受けた。がんばりがある。そんなイメージだ。やれるのではないだろうか。私はそう考えている。一度政権をわたすのもいいだろうともいえるが、今ではないようだ。野性的な感じで、マスコミも生まれはいいが育ちが悪いとけなしているし、下手な根拠不足の世論支持率調査は低いし、いいのではないか。いいんじゃない。

あんまり恵まれたお坊ちゃまでは、だめなのだ。令息ではだめなのだ。ごたごたに強い、柔軟な姿勢がいい。太郎がきっといい政権を継続していくと、今私は想っている。そうあってほしいと想っている。願っている。

かたや、一郎は首に白いものを巻いていた。ネクタイの上の白いものが首にまきついていて、何か得たいがしれない。老練な政治家で剛腕なたくらみもうまい。でも、ひとはついていかない。捨てられそうな野党第一党がそうして、わなにはまっている。

若手は失速し、与党出身の首相経験者はものを言わない。恐怖政治の幕開けのような大げさな気配も漂う。どうしてだろうか。

現実的に衆参で別れた指名は、いま天下分け目の決戦のさなかに突入していると想像するのだが、いっこうにそんな気配はない。

どっちが真剣か。どっちが国民目線かといえば、どうもあの一所懸命さが太郎にある。そんな考えを多くのひとたちが感じているのではないか。

東京だけが日本ではない。かつても東京は地方のあこがれだったが、今は地方への時代だ。日本の良さはすべて田舎が守ってきたのだ。ひとが生活する空間が一番いいのはやはり地方だし、地方の良識がこの日本をまもっていくのだと私は考えている。

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ICTと格差社会

ユビキタス化、グローバル化、マルチメディア化。この三つが携帯電話市場の揺れ動く国際動向なのだという。

たしかに便利だ。でも格差は広がっている。技術は一人歩きしている。社会全体でデジタルデバイドがおこり、格差が広がる。

携帯電話は、電源の不自由な砂漠の中でも、数多く使われている。日本ではあまり使わない私は、そんな土地へいくと、おれは遅れていると感じとてもまいってしまう。

ましてや、それが先進国だったら、とてもビジネスマンとは言えない格差をしょっているようだ。でも、違う。そんな思いこみは捨てよう。

今、私たちは自由に手に入れられる。もう自然に任せてどんどん活用しよう。そして、こんな不具合がある。こうならないのかとかいう希望を出そう。それが、現状の問題の把握に役立ち、将来への改善につながるのだ。できるだけ素人がいい。下手に知識を持たないこと。

ハードディスクはからっぽにしておくのがいい。そして、軽くロードしよう。余分なことは考える必要もないのだ。ストレスなく入り込んでくる情報はそのまま頭の中で軽く処理しよう。どこかに入るし、必要なときにでてくる。

私たちの脳機能はそんなにも優秀なのだ。とくに何もする必要はない。ただ現実を素直に受け入れるだけでいい。

ICTと格差社会は、もうどこにもない。でも、時には問題を提起しなくてはいけないだろう。そんなときも、同じ気持ちで素直にストレスなくうごく脳細胞がきっとそれなりにできているだろう。

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この世で尊敬する人

この世の中で尊敬するひとを挙げてみてください。こんな質問が国語の時間に偉人伝なんかがあるとあった気がする。

尊敬するひと、それは偉い人というパターンだ。いまはどうなんだろうか。教師は、先生といわれて慕われており、尊敬されていると私は考えている。マスコミがどう論評しようと、この世の中で学校にいかせないという子供の親はいないだろう。

だから、教師という仕事は、とても大切なものだ。この世の中の尊敬するひとは、そんな先生たちであり、今私の頭にあるのは、小学校1年と2年の分校の先生だ。ことし、50年以上ぶりに同窓会に出た。みんなほんとうに親身になって考えている。

それは、日本の教育制度の宝ものではないのか。自信喪失と一部ではいうが、そんなことはない。まったく問題はない。生徒のこころのなかにずっと生き続ける教師がいっぱいこの日本にはいるのだということを、一度思い出してほしい。

それは、同級生・友達みんなで共有する宝物なのだ。

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学ぶこと

生まれたときに、すべての機能と才能をもらっているのが、私たち人間だ。

そこですでに完成された生き物なのだ。才能あふれる細胞たちが、うまれたてのちいさなからだにつまっている。

それを活性化させていくだけの仕事が、そのあとに待ち構えていて、つぎつぎに機能が拡大する。相乗効果で、いろんな機能が活性化していくのだ。あっという間に、あるいて走って、泣いて、笑って、愛らしさを表現して、すぐに完成体になる。

学ぶことは、つらいことだという変な先入観が私にはある。どうして、そんな面倒なものが観念としてあるのか。黙っていれば、自然に花は開いていくのに、そこでこの私という花は成長しないのではないかと疑心暗鬼になってしまったのだ。そこで、自然に逆らってしまったようだ。

だから、手動人間になったのだろうか。自動的に成長するはずのプログラムに疑問をはさんだために厖大な情報を処理できる機能がどこかですねているのだ。

仕方がないから、手動で試す。のろまの代表のようなものだ。とても同じ人生というレースでの勝負を挑むことはできないようだ。

あきらめた。そしてどうする。まだ生きている。ほかのひととの競争が人生ではない。考えてみようではないか。

人間の細胞はひとりでに成長し、黙っていても成人機能をもたらす。そして、またもとの無に戻す作業がだまって機能する。老化現象が始まる。成長して老化する。無から無へと向かうサイクルだ。

でも、成長を意識的に止めたものは、自動的には老いも手にできないのではないかと不安にならないだろうか。このまま成長しないのではないか。老化して普通に無に帰ることができなくなるのではないか。永遠に生きていなければならないのでは・・・。

学ぼう。その答えを探そう。歴史の中に、答えはないが、探し求めるという「学ぶ」姿にきっと新たなものがひらめくのではないか。

学ぶことは、途中で自動成長路線を停めたものにも、できる大切なものだ。考えることで学ぶことの大切さを認識できる・・・。

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楽天家になろう

もがいている。必死になってもがいている。

それは、楽天家になりたいからだ。なんでものんきに考えられる人間になりたい。そんなひとがこの世にはおおぜいいるようだ。もともと私たちは他人といういわゆる無関係なひとにたしては冷たい。

だから、だれもが批判し、非難し、批評をする。それが、生きている証だとだれかがいっていた。その対象はだれでもいいのだが、できるだけとばっちりを回避する必要がある。そして、あまり害のない無関係に近いひとを餌食にする。

そんなことが、じつは一人ではできない。だからグループでやる。そこにもリーダーがいて、ひとりではできないリーダーが同調をもとめる。そして、批判・非難が具体的になる。

でも、そんなの関係ない・・・。だから、楽天家になろう。それでいいのだ。こだわらない生活、こだわらない生き方が私たちにはできるのだ。

でも、考えよう、もう一度だけ・・・。

楽天家になるには、すべてのリスクを網羅してやっつけることが必要だとしたら、・・・。あなたならどうする・・・。やっぱり、うじうじしていても、悲観論者でもいいか・・・。

そんなあなたはりっぱな楽天家のようだと私にははっきりと見えるのだが、納得できるでしょうね。なぜならあなたはりっぱな楽天家だからです。

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捨てられた古いトンネル

海べりの突端を回る道路。へんなふくらみがありくさむらがある。

それは、昔修行僧が手でほったトンネルだった。もういらないので、放置されているのだ。歴史遺産ではないのか。下手すると自然破壊とも言われそうなことだが、困っている村人の安全な通行を確保するために、何年もかけて構築したものに違いない。

でも、放置されている。もういらない・・・、そう村人がいっているようだ。

たしかに役割を果たしたら、そこで終わりなのだが・・・。でも、何か大切なものが、困っていることに懸命に尽力した僧侶や村人のいにしえの姿が見えてくる気がする。

それは、日本海の越後から奥羽に向かうところにある。車で通るとわからないが、ときにはあるいて何気なくそんな遺産をみつけることが大切だと考えている。

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いつも思うこと

この自分の存在とは何か。不思議であり、当たり前のことだ。どうしてって言われれば、両親も兄弟姉妹も親戚も近くの友達やその家族も、みんなそんなことを一度や二度は考えている。

そして、だれもそれを人前では言わない。

いっぱい夢があり、明るく強くいきたいと考えていることと同じかもしれない。でも、それはだれもが何度も想ったことなのだ。そして、ふだんは忘れてしまう。

子供たちには、大きな未来が見える。かれらは、体いっぱいにそういうものをもっている。右のポケットにも左のズボンの中にもある。はじけるような笑顔は、なんでも可能にする本当に不思議な力をもっている。

貧しさが気持ちを歪曲させるのだろうか。それとも挫折がそうするのだろうか。貧しければそれを克服することが、そこにある。挫折したら、そこから起死回生する道がある。そんな低空飛行の時にこそいっぱいチャンスがあるのだ。

迷いはバラ色の未来を示すようなものだ。問題がいろいろとすごい解決策をもたらすように、今、チャンスに囲まれている。

でも・・・。みんなそうは思わない。おれはこんなに困っているから、助けてくれ・・・。そうではなく、もっとちがう大きな成果の上がる方法があるではないか。おれたちのこの頭の中にあるではないか。考える力がこの身体と心にいっぱいあるではないか。

でも・・・。また同じ声が聞こえる。それでいいのだ。まだ考えがそこに行っていないのだ。いま、その考えを探す裾野にきているのだ。

「そったくどうじ」でないと・・・・、成果はでない・・・・。反省は「そつ」を期待して、「たく」のチャンスを見逃さないようにすることだ。

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拉致被害者と脱北者

北朝鮮は、どこへいくのか。韓国と併合するのが一番いい解決策といえないだろうか。それでも日本は、この半島国家とのかかわりでは疑心暗鬼にならざるを得ない。わからない。出方がわからない。かつてのソ連のようなものだ。

拉致被害者はいつ帰還できるのか。もう帰ってこないのではないか。遠くの肉親より近くの他人なのだろうか。それとも、やはり違和感を感じて帰国したいと全員が想っているのだろうか。願っているのだろうか。

とても反抗できない状況の中で、自分をごまかしていかなければならない苦しい状況が目に浮かぶようだ。そんなことが人間社会にはいっぱいある。ほんとうに理不尽としかいえないようなことが、平気で行われてきたし、今も平然と行われているのだ。

そんな中で自力で逃げてくる人たちがいる。おなかいっぱいにご飯をしぬ前に、一度だけ食べたい。それが願いだそうだ。そんなことを想いながら必死に生きようとしている人たちも一度祖国から逃げたらもう帰りたくはないという。

そこにあるのは格差というものだ。貧困というそのものが国を滅ぼすのが為政者には見えないようだ。確実に滅亡する・・・。そこに見えている。でもまだ続いている・・・。ここら辺が危ないのだ。

その前に拉致被害者を取り戻せないのか。独裁者を拉致して交換するしかないのではないか。国連で決議してもらい、独裁者を国連の場に引きづり出す。そして日本だけではない拉致の被害者を解放させるのだ。

それとも、もうしばらく待つのだろうか。疑心暗鬼は北朝鮮の誤ちがもたらすのもしれない。核の恐怖が、世界を動かす。引き金を引く前に救出しなければならないだろう。そうしたらもう時間がないのではないか・・・。イラクのフセインの二の舞になるのを北朝鮮は恐れていないのか。思考能力を失った独裁者では何もできないのか、それとも勝手に軍部が動くのか。

とても危険な状況にあることは間違いない。その前に、日本や他の国々の拉致被害者を救い出せといいたい。手段は選ばないという緊急な状況ではないか。

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組閣と支持率

組閣後、すぐに支持率が変わるというのはおかしい話だ。まだわからない状態で何もではしない。雰囲気調査というならいいが、それが母集団が不足し、そのランダム性もないままに出た数値を早急に出すマスコミの姿がなんとも哀れだ。そんな今朝の番組はチャンネルを変えざるを得ない浅はかな報道だった。

もっとどうして他人事にマスコミはするのか、面白可笑しく茶化すなら、そんな番組はどっかへ消えてもらいたいものだ。

今、日本はこれからどこへ行こうかというときに、視聴者を無視した番組にとても腹立たしい気がした。でもこれが、現状だ。日本の実態だ。潜水艦を見逃す電子機器装備の最新艦船なのだ。目視確認が最初だという。そんなことはあり得ないはずだ。このイージス艦はあたごだった。

漁船沈没の時の様子もおかしい。もっと電子機器が活躍していいはずだ。事故防止になぜ力を発揮しなかったのか。実態が伴っていないからではないか。船もある程度の規模になるとほとんど揺れない。自然の波浪がよほど大きくならないと船体は動揺すらしない。だから乗り組む自衛隊員は海のこわさとか船酔いとか実態をしらないのではないか。

実戦経験がないから、できない・・・・。そんなことを平気な顔をしていうようなら、それはおかどちがいだ。ないために、なくすために常日頃の勤務ではないか。この世の中の歴史は繰り返すのだ。かならず非常時があるという覚悟で緊張を持続するのが任務ではないのか。

それとも、・・・・。せんそうごっこがしたいのか。とんでもない話だ。それでよくない。無力化は、そこに意志がなくなったときにおこる。

組閣の目玉はなんなのか。選挙をにらんだ布陣だという。ひとつの卵から割られた二つが次の政権を争うという。選ぶのはだれだ。国民なのか、マスコミなのか。変な理不尽な調査データは速さという変な気負いでの勇み足なのか。とんでもない馬鹿さ加減をさらしだしたのか。もちろん私は後者のアホの仕業でしかないと考えている。

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長生きするには・・・

この世の中で長生きすることは、ほんとうに幸せなことだろうか。

そんな贅沢なことをちょっと思った。なぜって、どうも長生きできる自信がないからだ。だから、自分を慰めるためにそう考えてみたのだ。

でも、生きられて、家族に祝福されて長生きできるなら、それにこしたことはない・・・。そこで何か趣味でもあれば、退屈しないのではないか・・・と思った。

趣味とは、なんだろうか。身体を使うものは限度がある。こころのカテゴリーはどうも面倒くさそうだ。そんなものなくてもいいだろう。

気がついたら、比較的長くいきていた。そんな程度でないと、ながくはいきられないのではないか。そんなちっぽけなことは、忘れてしまうことだ。

そうすれば、長生きできるのではないだろうか・・・。

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企業秘密の範囲について思う

どこまで許されるのだろうか。それともそんな許容範囲はないのだろうか。

企業秘密です。食べ物のうまいものを提供しているお店は、そういうことが多いようだ。面倒なのだろうか。それとも説明できないような奥深さがあり、ほんとうに説明できないのだろうか。

食べ物。おいしければいいことは決してない。健康に直結した食物は私たちの命のもとである。そこに企業秘密というブラックボックスがあるのはどんなものか。薬品は承認されたものでしか市場にはでてこない。そこに段階があって、医師が個別に処方するものもある。

食べ物はどうか。

ドラッグの入った食べ物がもし、ファストフード店で売られていたら・・・。ありえない話だが、たとえばのことである。日本ではたとえ話は喧嘩のもとになるような一番のものだった。そんな疑心暗鬼でおれたちを見ているのか・・・。そうなるのだ。だから日本ではたとえばというシミュレーションは歓迎されない。リスクマネジメントも同じ理由でそっぽを向かれるようだ。

でも考えてみよう。秘伝のタレがどんなものが入っているかわからなければ、私は食べたくない。おまえ腹が座っていないな。臆病もの。そう言われてもかまわない。怒ったりはしない。

なぜならば、そんな不明確な状況に自分を置きたくないのだ。だから、私は海外でもあまり目にしないものは食べない。昔は田舎だったので、さしみは食べなかった。それは、冷蔵庫の整っていない時代には、変な食べ方でしかなかったのだ。すくなくとも山腹の田舎でそだった私にはそればセーフティネットなのだったし、それで自己保身をしていたのだ。

いろんなものが情報開示されている。その情報自体が信頼できなければ、元のもくあみである。そこで終わるしかない。

品質の悪いものは価格が安い。そうは言えない。品質をごまかすために、価格をごまかされればもう消費者は判断できない。これ安すぎるんじゃないの・・・、とは言えるが・・・。これまずいんじゃないのとは、なかなか言えないものだ。技術的にも信義上もである。

この辺が、狙い目なのかもしれない。ひとの心理をついて、偽装する。儲けがあれば、それで法人はお金を食べる生き物だから、・・・・。それで生きていき、さらに悪さを拡大してしまうのだ。

企業秘密は、悪いとは言わない。自分で詳細に検討し、害がないと判断してから、あらためて、第三者に安全性を、きっちりと検証してもらうことだ。

これは、なにも食べ物だけの話ではない。企業そのものについても、いたずらに法人の食べ物だけを膨大にしているなら、許されることではない。

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想うこころ

いつごろだったのか。ものごころがついたのは・・・。

あなたは、覚えているだろうか。それは、たぶん生まれてすぐではないのか。3歳ではすでにいろんなことを吸収しているはずだ。どこで自己のもととなるものを私たちは獲得したのだろうか。あまり個人差はないのではないか。

基本的なひととしての認識は、けっこう早いのだと私は思う。

どこかへ行くと記憶の中にある景色や雰囲気と似ているとたいがいのひとは思うらしい。意識がDNAでつながっているのかもしれない。やはり伝承されているのではないか。大切なことは種を保存していくことである。

いろんなリスクを回避していくには、そこにある大切な情報がなければならないだろう。それが私たちの深層心理のなかでうごいているのだ。ほんの時々だけれども頭をもたげてくるのだ。

それはたぶん、進路を誤ったようなときではないのか。危険が迫ったときではないのか。こどもを守るために親は身を投げだす。野生の動物は、そんなとき侵略者に襲いかかる。子どもを守るというそのことだけのために、生きているからではないか。

いろんなことを想うが、それは子供をりっぱに育てるためなのだ・・・。どんなときでも親は子供を捨てない。自分の命は子供によって伝えられるのから、一番大切なたからものなのだ。

みんないろいろな個性をもってうまれてくる。それは、この世の中の宝ものだ。いいものだけがいいのではない。だれもが悪いと思っていることも、この世の中の大切な宝物の一つなのだ。

それは、だれもがどんな私たちの仲間も、想うこころをもっている。どんな考えなのか、それはちがうものに大きな価値がある。それがりっぱであろうがそうでなかろうが、そのちがいはいくら対価をしはらっても得られるものではないと、私は考えているからである。だから大切なのだ。

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手ごたえあり・・・

しずかにしていると、そこにとまってしまう。

うごいても、そこにとまっているとしか感じられない。

なにもしていない自分を責めたくなる。なにかをしていてもまったく手ごたえがないのはどうしてだろうか。発信するものがなくなったのか。それとも受信する能力がどこかへ消えていったのか・・・。

手ごたえを求めて、さまようこともたまにはある。それも一つの生きざまなのだと思う。

そんなことも、ひとつの手ごたえあり・・・という証なのだ。

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朝青竜と王監督

モンゴルの英雄。世界のホームラン王。並べて批評するのは、失礼な気がする。でも、外国にきている人たちには、すこしハンディをやってもいいだろう。

相撲。野球。

どっちも子供たちの憧れの職業集団だ。プロという意識があまりなかったころ、スポーツで生活するなんて、芸術家としての画家や小説家よりも難しいと思われていたようだ。すくなくとも私はそう考えていた。

なぜならば、才能だ。どっちももう子供のころから、わかるのだ。もっているかいないか。だから本当に小さいころから、天才少年というやつらしか関取やプロ野球選手にはなれないのだ。みんな怪物少年だったのだ。

そんな中で強豪の並ぶ中で、怪物少年の成長した大勢の天才たちの中で、そこで力の差を見せつけられるのはそれは、もう想像を超えている世界だ。

朝青竜も王さんもそんなまれに見る非才の人である。もう出てこないかもしれない。だから、あとどのぐらい朝青竜ががんばれるかはわからないが、本人がやりたいという意識を深く持っていれば、可能なことだ。

もっと、この表面的にひねくれた横綱に敬意を払ってみてみようではないか。舞の海は、今場所のいきさつを事前に予想していたようだ。プロの目はすべてわかるものだ。自分の専門のことと同じなのだ。うわべだけではないのだ。

非凡な才能をできるかぎり、持続してほしいものだ。王さんには、国民がみんな感謝している。朝青竜に少しだけ、その日本国民の気持ちが伝わっているといいのだが・・・。

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金融証券界のできごと

お金がこの世の中を取り仕切っているというのは嘘だ。すべてがそうなら、この世の中は単なる動物園でしかない。客がきて、何をみるのか。見知らぬ動物や、動物園でしか見れない生活の状況をみるのだろうか。

ちがう。同じ生き物として、この世に生を受けて、かれらはその一生をおくるし、私たちはひとの一生を送る。そこに命の差はない。でも一方は野生から離されておりの中で生活を強いられる。それを見るのが、動物園での客のする内容だ。

本当の動物は、人間が勘違いして、動物園を作るまでは、野生の中で弱肉強食の中でいきていたのだ。自己責任とかグループの結束とか、種の保存の法則にしたがっていきていたのだ。

この世の中も統制とか、社会秩序の整備とかいう名目で、すべてが経済の中のなにか奴隷のようになっている。それを取り仕切るのが金融証券を扱う業界なのだという。ちがうだろうといいたい。

お金はこの世の中の活動によって動くものだ。決してお金が動いて、世の中がそのあとで動くものではない。もちろん、おかねがなければ動けないことはある。しかし、それは屁理屈だ。

考えなくてもわかる簡単なことだ。そんなに規模の大きなことは必要ないのだ。地産地消。もっとエコに消費する。おいしいものをエコに手に入れる。足りないものを補う。日常の生活のために、私たちは分業しているのだ。衣食住を手にして、家族を守るためにそうしているのだ。

金利もなしに貯蓄し、その余剰資産が米国の破たん企業を手に入れる資金になる。皮肉なことだ。同じことを、今度は意趣返しにやるのだろうか。もっとも救うという大義名分があるようだが、現実はちがう。

本当は、操られているにひとしい。肩代わりさせられているのでしかない。それは、数年か数か月たてばはっきりする。十年以上かかったことを忘れて利益を国民と社会に返還することを忘れて、ゲームや賭博に走るのと同じではないか。

もっとなんのためにみんながしごとをしているのかを真摯に考えよう。みんなのために社会のために働いているのだし、社会の弱者の自活をできるだけ支援していこうとしているのだということなんて・・・、だれも考えないのだろうか。

もし、そうだとしたら、・・・。いや、そんなことはない。みんな分かっているはずだ。金融証券界はもっと反省すべきである。

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新規組閣にむけて望むこと

改造後、何日の大臣だったのか。新規に内閣が組織されるたびに、大臣になる人の嬉しそうな顔が見られる。そして、失言で何人かは消えていくのだ。

あそこには、仕向けられた落とし穴があるのだ。だれでも緊張して話せば、自分の舌も他人のようになってしまう。そして関係あるなしにかかわらずゆさぶりをかけられるのだ。ほとんどの人は善人であり、ごく少数の悪人がいることさえも忘れている。でも、そういうのがいるのだ。ひとを追い落とすには、混乱させることだ。古来そう言われている。

混乱すると判断力をまず失うのだ。自分が上ずっているという感覚は冷静さをなくすのだ。それは、どんなヒトでも無制限に悪さをされれば、頭にくる。それが狙いなのだが、それに乗っけられてしまうのだ。

いとも、簡単に・・・。

新規内閣。それはそれでいい。しっかりとこの日本のかじ取りをやってほしい。国民はそんなにバカでも利口でもない。平平凡凡とした生活の中で、鍛えた平常心だけが、批評家としても目を肥やしてくれている。だから、巷の意見がどのぐらい世論を代表しているかがわかるだろう。

内閣改造。入閣。解散。総選挙。

そして、その後の内閣で入閣して実力を出してほしいものだ。もっと若手がどんどん出てきていいのではないか。やる気を示すのではなく、そこでやる気がもう限度を超えているという状況で政治を引っ張って行ってほしいのだ。国民はみなそれを望んでいる。

そこには、与野党の差はない。だれがどのぐらい自分に忠実で、国民に対して誠実であるかだけを問うているのだと、わかるのではないか・・・・、この国民ひとりひとりの気持ちを・・・。

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R3復活の経緯

ながらく愛用していたが、動作が不良で同じT5に変えた。T5が液晶トラブルで不安定な中で、思わずいじりだしたら、再インストールが目に飛び込んできた。

動いたのだ。R3はXPで2003年ソフトだが、動いたのだ。

トラブルには、根気良く付き合うのが、最良の対策だとしった。でも1年半の間、とても信じられない。復活できるなんて夢のようだ。

次は、トラブル中のT5につきあわなければいけないが、前科ものは信頼回復までが疲れるものだ。

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世界の動き

世の中は確実に動いている。そして、その原動力は資本のようだ。

お金がなくては、この世界は回らない。自転も公転も経済しだいのような感じがする。そんなことを想うようでは、自然に逆らっている証拠でしかない。どこかで過ちに結びつくのだろう。

世界の発展途上国は、開発の成果を得て、将来は発展していく。とすると、先進国は今後どうなるのだろうか。立場を交替して、順番に途上国へと姿を変えるのかもしれない。

そうなれば、世界の動きとしてはバランスがとれそうだ。ひとつの流れは世界を変える。ひとの移動は世界を大きく変えてきた。それはその場主義の都合主義が破滅することを証明しているようだ。

いままた、自然環境をひとは変えてしまっている。それだけ大きなエネルギーを放出して環境に影響を与えているのだ。もう海の水も無限に人類の汚れを貯蔵してはくれない。大気も同じだ。

自然環境の悪化は、隣国にすぐに大きな影響を与えて巻き添えにしてしまう。

世界のいろいろな動きの中で、ひとの移動と環境の変化にはとくに注意していく必要がある。どんな世界に住みたいかという指標でもあれば、その動向はわかるかもしれない。でも故郷はどんなんでもいいのは世界共通だろう。

ルーツは一つだと思うが、歴史的な変遷もあるので、それは多様だといえる。世界の動きを注視しよう。

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森と小泉

やはり、意見の食い違いがあるのだ。閣内に入らないというのは、森が小泉と反目しているということなのだろうか。

ぶっ壊すという恫喝文句が、なにかとても意味のないものに見える。改革とは痛みを伴うものという言葉も何か無責任なものに見える。

もう一度出るという期待が、小泉にあるというが、それはどうもまやかしのようだ。自民党は壊れてもいないようだし、本人も歴代首相経験者が野党へと回っているのに、与党に陣取っている。

言葉のあやとしか言いようのない政策だったのではないか。これから、どんな形でかかわっていくのか。首相経験者はいわゆる賢者の仲間だと私は考えているのだが、それはちがうのだろうか。

森と小さな泉がこの日本の国土で何か違う方向へとうごいている気がする。

政権再編ということだろう