ひとの心のうごきが見えるとき
ヒトの心はなかなか分からない。読唇術があるが、それは決して読心術ではないようだ。
しかし、ヒトが動揺しているとその心は不特定多数にさらされることになる。もっともいつもさらしっぱなしのヒトも多いのも事実だ。そして、そういう場合は例外であり、意図的なものが多いと私は考えている。
暴力事件。悪口事件。ヒトがとっさに反撃するとき、手が出るか、口が出るかで大きく印象はちがう。そこにそのヒトの意思が出てしまうのだ。
こころが見えてしまう。そんなことがあるのだ。
ポーカーフェース。そんなことをいつも思う人の方が、出やすいようだ。なれていないのだ。記者の質問に「私は自分のことを客観的にみることのできる人間だ」「あなたとは違う」と答えたのはなぜだろうか。腹を立てているのがよくわかる。まるで駄々っ子が母親の前でやる訴えとなんら変わらない。みんながその時の心のうごきをそんな風に感じたと私は思う。
あの会見で、辞任はだれも驚かない。急だという意味をのぞけば、そんなものかということだけだ。なんら大事件でもない。日本には優秀な官僚が大勢いる。だから、問題はない。でもその時に、時の総理の心の動きがまるで教科書の記述のように見えることは、めったにない。
つまり政治家は役者であることが大切な条件なのだ。それが大衆のためになるのだ。そういう結論になった。私だけでなく、あの会見を聴いて見た人はみんなが同じことを経験したのだ。
ひとはいつも役者ではなく、あんな風にもっと腹を割って懸命に生きていくのがいいのだと、ある意味で想った。しかし、それが実は貧困という発想で言うと、金持ちが貧乏人をバカにいているようなことなのかもしれないと、一瞬だけ思った。
背筋が寒くなった。
日本というのはそんな国か。世界の人々からみたら偽善者ではないか。そんなところに飛び火するような会見だった。隣国は、様子をみるから約束は守らないで保留するといってきた。なんというぼうじゃくさだろうか。それはそれで、一人の独裁者のたったひとりのこころの動きで決められることでしかないのが、表に見え見えである。だれも進言しないしできない。でも、世界は一人のこころだけではすぐに行き詰まることも確かなことだ。
もっと多様な考えをシャッフルして、そこから基本的な方針、だれにもわかる方法で選択する必要がある。
客観的とはそういうことを言うのだが、どうも自分勝手に、質問者をあほ呼ばわりしたのは、まったく主観的としか言いようがない。それもTV会見の場でのことだから・・・。
客観性とは自分勝手。
そういうことなんだと、はじめて納得した。
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