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2008年11月

ひみつのあんこちゃん

実は、それは最高の企業秘密です・・・・、・・・・。

もし、何年か前ににこの言葉を聞いたら、すごいいろいろな研究開発をやっているのだな・・・と感じ入っただろう。

そして、今、この言葉は、何だこの会社は今時公開できないことをやっているのか・・・と非難されるか、信用を傷つけられてしまうだろう。それも一瞬のうちに、大衆の心にそんな気分が走るのを私は感じてしまう。

生き残れない。そんな切羽詰まった厳しいものだ。秘密のあんこの中味はなんなのか。いくらおいしいといっても何が入っているか分からずには評価されない。詳しい分析結果が独自の成分表示と異なっていたら、それは偽証でしかない。

隠し味という文化を誤って解釈してはいけないのだ。秘密はそれは機密であり、社会が正当に保護できなければならない。客観性のある第三者機関が認める秘密情報でなければならないということだ。ということは、それは社会制度上は秘密ではなく公開されているとことであり、社会が認めたということなのだ。

ひみつのあんこは、それ自体が偽証そのものであるということに気づくのが遅かったと嘆いてはいけない。今が一番のタイミングなのだ。いつもこの社会ではいつも一番最前線のときを刻んでいるのだ。

でも焦る必要はない。今はずっと続くのだから、正々堂々と十分に時間を使っって判断することだ。そう私は考えている。

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中国の力とは・・・

どんな国に行っても、中国の人たちがいる。それは、食べ物であり、床屋さんであり、裁縫やさんである。食べること、頭を清潔にすること、衣服を着ることは、つまり衣食住である。どこへ行ってもやれる。暮らしていけるという自信がそこにみなぎっている。そのために、冒頭のような印象をうけるのだし、与えているのだと思う。

どんなところへ行ってもいる。その土地で暮らしている。多くの現地へ溶け込むと共に、集団としての結びつきも強い。商売が得意である。つまりは自立し、自律しているということだ。

他力本願ではだめだということを象徴していると私は考えている。どこへいっても、助けを借りずに生きられる。そして、そこで現地の人たちと一緒に同一にも暮らしの上でなれる。そんあ気がする。

途上国のどんな小さな国々にも中国の人たちの笑顔がある。欧州の古い都市にも同じ人たちがいる。アフリカの沙漠にも、地球上のあらゆるところに拡散浸透している。

そこにあるのは、強さとか弱さを超えたもののようだ。なぜそんなに自由に生きていけるのか。数千年にわたる知恵、庶民の知恵があるようだ。いたずらに紛争を起こさないで浸透していくことは、個人の笑顔とかその性格自体が関係するだろう。家族という単位、親戚という集団のセーフティネットがあるという安心感もあるだろう。

なにか大きな仕組みが長年の間に積み重なってきている重みが見えてくる気がする。そしてそういうものは、時代の変化でもろくも崩れ去るものでもある。そこがどうも違うようだ。日本とは違う。日本の家族制度も強い絆で結ばれている。そこに何らかの違いがある。

誹謗中傷という試練はどこにでもある。打たれづよいこと、義に熱いこと、知を尊ぶこと、不思議さを忘れないこと・・・、いろんなことがその歴史にある。

変わらないものを私たちは、うつりゆく社会の中で持っていなければ、変化にはついていけないということだろう。つまり、起点をいつも心に持っていることが、すべてのもとになっているのだと私は考えている。

帰るところがある。どんな時にも受け入れてくれる人がいる。そんな空間を心の中に持っていられるなら、どこにいっても生活を自分らしくできる気がしてきた。普段何もしない飲んだくれのお父さん、お母さんにもできることなのだ。やらなくていいと、何もしない。そして、できることを忘れてしまい、今日も昨日の続きで終わる。

そんなことが一番、いい暮らしだと、また言えるのではないか。そこに日本人の良さもあるような気がする。中国の人と対比するのは、まだ時期尚早だろうか。日本はずっと中国の奥深い素晴らしい文化を学んできたのだ。まだまだいっぱいすばらしいものがあると私は信じている。

中国の力とは、本国の人たちだけではなく、地球上のあらゆるところに分散し、地元化しているパワーにあるのではないだろうか。私たちは地球人として、その暮らしの姿勢を鋭く学びとる必要がありそうだと私は考えている。

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APECってアジアだけではないのだった・・・

APECという存在は、感覚的にアジア、太平洋地域ということに限定されていた。私の頭のなかでの話だが・・・。

ペルーでAPEC・・・。一瞬たじろいでしまった。

なんと浅はかな思い込みだったのか・・・。

そこにロシア、中国、韓国、豪州、ニュージーランド、そしてアセアン諸国があり、米国、南米、中米、北米とほとんど大国がいる。

金融危機。内需拡大。WTO問題。

各国が利害得失をもって、対処する。それぞれの国の利害を考慮する。そのために協力する。そんな姿勢が見える。まさにハーバード流交渉術の真髄だ。キューバ危機のときにできた研究だという。それは、やはり世の中を変える大きな動きだろう。

みんながほかの国のことを考えて行動する。利己主義が先取主義と同様にこの世の中の動きをおかしくすることに気づいたのだ。

海流も気流も平面的な動きだけではない。もぐって浮き上がり地球上を8の字やS字みたいに立体的に流れて動いている。それが、気流との間で相互に影響を受けてもいる。

紛争したり、平和に協力したり、いろいろな動きを見せて絡み合っている人間社会はどうも気流と海流などの大きな循環網に支配されているようだ。

APECって、なかなか期待できそうなコンファレンスではないか。見なおそうではないか。

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世の中の出来事

この世の中に気づいたときにいた。この感覚はだれしも持つものではないか。そして、なぜここにいるのか。なぜ、私は私なのかという大きな疑問を背負っていきている。

そんなことはないよ。気楽だよ。そういう人もいるだろう。そして、それでも、どこかでなんどかは繰り返す疑問なのだ。

答えがないから、そこで忘れる。

ときどき、そういう心理を忘却しているままに、なぜ社会は俺を受け入れないのかとか、そんな理不尽なことがあったいいのかとか、また、どうして・・・・・、・・・・。そんな問いかけをしても、決して答えはない。

私たちはそんなときどうしたらいいのか。不平不満を何かに対してぶつけるのだろうか。はたして何を敵にするのか。結局、自分という私たち自身の問題だと気づくことが大切だと私は考えている。答えが見つからないとか、答えとして認めたくないとか、いろいろあるが、それでも自分で探すのがヒトとして生まれた一番の理由なのだ。

他のどんな動物が自分の存在に疑問を持つだろうか。不思議さを体感し、体験できるだろうか。それだけで、ヒトとして生まれた価値があると私は思う。

世の中の出来事は、一人では生きられない人間として生まれてきたのだから、そこで起きるものなのだ。日々の生活で、いろいろなことを大勢の人たちがしている。多能なひと、何もできない人、何もしない人、どうでもいい人などいっぱいいる。それが、時間という軸の上で時には多能なひとを演じ、違うときは何もしない人を演じたりしているのだ。そこで社会ができている。

自然な流れの中で、私たちは生まれてきたのだ。能力の差はこの実社会で生活している限り五十歩百歩だ。でも、それが個々にとってはとても大きく感じるのだ。

個人は総合力を発揮して、日々の生活をしている。そして、社会も総合力を発揮して維持している。だれが何をしているというのではなく、自然に出来上がったと思われる多くの仕事をすることによって成り立っている。

どんなに平等な社会でも、個々の一人一人の人間にとっては、一過性の空間なのだ。みんながすべて同じではない。みんなちがう時間をこの世の中で生きる。だから、別れがある。出会いがある。生まれて、没する。この世から、どこかにあるといわれていいるあの世へといく。

そこで個々のヒトは消滅する。あとに残ったひとの心に残ることでずっとその存在は検証される。

世の中の出来事は、そんな意味で、私たちの日頃の考え方が元になっている。そして、ずっと生きて社会の役に立つまで働くこともできない。終わりがある。そんなことが作用して、いいこともそうでないことも起こる。

やはり大事なのは、ひとりひとりがこの世の中の大切なメンバーだということだ。どんな所で何をしていようとも、私たちはこの社会に必要な存在なのだ。たとえ、何かが原因で明日終ろうとも、それは大切なものなのだ。

なぜなら、この世の中は五十歩百歩だから、人に上下の隔たりはない。同質だから、同じ能力を持っているからこそ、小さな能力や機能的な差が気になり、すごく大きく見えるだけなのだ。みんなが多少の凸凹を調子の波に合わせながら、サポートしていくことが大事なのだ。

今ある社会が私たちの社会なのだ。それがどんなことが起ころうとも、私たちの自然な流れの中での世の中の出来事として起きているのだ。その原因は、一人一人の心の中にあるのだと私は思う。

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尊敬と蔑視は共存しているか・・・

時の首相は、一番えらい。日本の中で政治家を目指すものの注目は、総理総裁になることではないだろうか。

どんな政治家もなれるものならなりたい。そう考えているだろう。与野党にかかわらず、常にそこを目指しているのだ。

つい最近、といっても5年ぐらい前だろうか。老人政治家の定年ということがあった。時の首相は小泉さんだった。やはり、何かあるのだろうか。年齢はほんとは関係ないと私は言いたいのだ。それは、もう10歳ぐらいでりっぱな学者になる天才もいる。40年、50年経ってもなんとなならないものもいる。そして、これからは老いてからやっと動き出す天才もでてくるのではないか。

つまり開花する時期が異常なんとかのせいで大幅におくれてきたのだと言えないだろうか。それは、尊敬される時の首相と、国民に蔑視される総理総裁とが、同居しているようなものではないだろうか。

つまりそこで大切なのは、日本古来のものでもあり、世界でも通用するものとして、男義とか騎士魂とか侍魂といわれるものではないか。要は、カリスマでもなんでもなく、覚悟があるかどうかで、ひとはついていくし、おさらばもするのだ。

まるで、そこに尊敬するものがあって、ときにまったくバカにしてしまうようなことがあるのだ。そんな最中にあって奮闘できるのは、やはりひとのそのひとの気概でしかないと私は考えている。

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何のスポーツが一番すきですか・・・

あなたはどんなスポーツが好きですか。そんなことを問いかけられたら、どうしようか。すぐに答えられますか。

私にはできない。野球・・・、いやではないけれど、そんなに・・・。サッカー・・・、最近よく見に行くけれども、あんまり・・・。テニス・・・、面白いが・・・、やったことがないし・・・。相撲・・・、子供のころは毎日見ていたし、強かったのだが、今はあんまり・・・。水泳・・・、ウーン・・・、なんか面倒で・・・。

マラソン。

そうですね。マラソンは、約2時間も見ていなければならないが、それがあっという間に感じる。自分ではやらないが、見るのはとても楽しい。とくに最近はフルに放送するので退屈しない。

完璧に強い選手が、不意に脱落する。それは、ちょっとつらいものがある・・・・。でも、結局、走って行ってそこでできるか否かがわかるという競技であるようだ。その変化をみるのは、実は微妙なことなのだが、ヒトの体力の限界に挑戦している偉大な人たち・・・でもあるのだ。

だから感動するのだろう。

マラソンの勝敗は、選手生活の中で総合的な、何か限度があってどこにピークをもっていくかで決まるのかもしれない。ここ一発というだけでは、寿命も短くなる。無理をして練習をこなせば、そこで故障する。

レースに出れない。レースに出るためには練習を控えることもやむを得ない選択だ。とすると勝てない。練習不足だと非難される。

どうもうまくいかない。そこに選手個人のマネジメントの難しさがあると私は考えている。つまり、無責任なコーチが客観的に選手の調子を判断して、インストラクトしていくことが重要なのだ。

選手もコーチに文句をいいながら、もっと練習しなきゃ勝てない・・・とか言えるだろう。でもそこでやめておくことができる。

私は、急に「あなたはどんなスポーツが好きですか」と訊かれたら、マラソンと答えそうだ。でも私は走らない・・・と断ったら、そんなことは分かっていますといわれそうだ・・・、が。

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流れに乗るか蹴落とされるか・・・

事業とか活動では、これはいいものだという評価によって、すぐにある意味常識筋の反応が変わる。

いいものはいい。良くないものはけなす。これがよのなかのいわゆる常識である。だから怖いという。そして、選挙なんかはこの典型であろう。

公衆に馬鹿さ加減をあらわにされたら、どうする。それは、政治家としては終わりだ。そこでバカになるというひともいるだろう。中途半端では仕方ないので本当に馬鹿になってしまう。

でも、それは一時的なものだ。みんなすぐに忘れる。そんなものだ。責任がないことにたいしてはみんな無関心だ。ただ同調する気配を見せるだけだ。

世の中には、こんなに心の清らかなひとがよくいるものだというようなひとが本当にいる。そんなとき、私は自分にはそんなことはできないと恐れを抱いてしまう。でも当人はそれが当たり前と思っている。自分の清潔さに気付かない、そんなひとがいるのだ。

いつも、流れに乗って、のろまなやつは蹴落としてしまえと冗談交じりに想っているひとがいるのが信じられなくなる。どっちが本当なのか。

でも、そこであきらめるわけにはいかない。プロフェッショナルとして自分の道を究めるだけだ。それだけだ。邪魔が入ればそれは、躊躇なく戦うのだ。当然のことだ。

流れではなく、自分の歩くところは自分で決めていく。それが、プロフェッショナルになることだ。

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1000記事記念号

ブログを始めたときは、わけもわからず、何をかいたらいいのかとても不安だった。つい気を許してしまうととんでもないわけのわからない、いわゆるネチケットにかけたものでとても送れるものではなくなる。

自分の興味のあることが、本筋を離れてしまうこともある。

そこが、デジタル社会の基本としてだれもが体得しなければならないことだと私は考えている。最近、よく頭の中がすぐに文章としてでるようになった。

基本は短文でわかりやすくということだ。そして、ときには心の中をのぞいてそのプロセスを表現していきたい。なぜ、ひとは考えるのか。なぜひとは生きるのか。なぜひとは喜怒哀楽という表現手段をもっているのか。

なぜ、ひとは目、耳、鼻、舌、皮ふなどから感じたことを総合的に評価できるのだろうか。食べ物もしかり、人物もしかり、好き嫌いもしかり・・・・。

次は、1001回となるので、今日は記念してこの1回で終わりにすることとした・・・・。

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官僚とは・・・

日本政府はしっかりとしていると世界で見られている。なぜならば、それは官僚が優秀だからとみんないう。我が国も日本のようになりたいのだ・・・、そういう国が多い。

日本の屋台骨を背負っているという気概・気骨をもっている人たちが多いのだと私は考えている。しかし、一度利害団体の標的にされると、それはとても黙視できるようなことではない。政治家と同じように、しっかりと身の安全を保障してもらう必要があろう。

官僚とは、国家のために身を粉にして働き、そして暴徒に倒されるものではない。国民がしっかりとその権利と権威を保護し支援していかなければならないだろう。

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かけひき

かけひきの上手なひとはどんな人生を歩むのだろうか。すべてに気がきいていて、きっと素晴らしい人生がまっているのだろう。そう私は思った。

かけひきは、空気が読めないとだめだという。そして、勝敗があるのだという。だから勝ちにこだわってしまうようだ。

駆け引きっていうのは、好きでないという人もいる。

そんな人たちになぜって問うてみよう。どんな答えがまっているのか。なぜ好きでないのかは、創造性がないからだというのは私の持論である。まったく、なんの価値も見出さないからだ。一方が他方を葬り去るというのが駆け引きだろう。

それよりは、共通のものを探すのがいいのではないか。だれものが得するものや得することはないのか。相手が駆け引きをしようとするのは、公表された交渉術をしらないからだ。

そんなことをしても仕方がないことがどうしてわからないのか。たんなるゲームでルールを作るのを忘れているとしか私にはわからない。

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いろんな法則がある・・・

成功するための秘訣は何か。そして、そういうものが本当にあるのかという疑問にどう答えられるのか。成功の法則とは・・・・。じつは、・・・・。

そんなものはないという。いやいっぱいあるという。そしてできるだけ楽して成功する方法というものもあるそうだ。苦労して成功できないのはなぜかに応えるセミナーもあるのではないかと一瞬疑った。

いろんな法則は、それぞれに隙間だらけのようだ。80:20の法則というものもある。2割が作用しても8割はなんの役にも立たないというものだ。72時間経過すると忘れてしまうというのもあるらしい。それは、その前に何かを実行することが成功に近づくというもののようだ。

心がけとでもいうのがいいだろうか。

いろんな法則があって、中にはすべて自分の生み出したものだという人もいる。

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大事なのは何か

笑顔が一番。そういう人がいる。そして、いいものを作るのが一番だという人もいる。お客様が大事だという人もいる。いや商売そのものが大事なのだという人がいる。

とにかくやってみてもうまくいかないという人たちがいる。なぜだと問い詰めるひとがいる。わからないというひとがいる。どこがだめなのか。どこかいいところがあるのかと真剣に考えるひとがいる。

大事なのはみんな同じだ。商売をすること自体が大事なのだと私は考えている。何も考えないでうまくいくことはない。うまくいってもまぐれでしかない。それは続かない。

大事なのは、続けることだ。続けていくことで、それはたくましくなって成長していくのだ。途中であきらめてはだめだ。その人なりにやり方がある。ちょっとまわり道でも不明なのはどっちがどっちかもわからないという現実ではないか。

検証できないこともある。勾配の急な方向へ登っていけば頂上へたどりつくことができる。そして、それがそこのトップだとしても、その周辺の別の山々と比べても高いのかは判定できない。大事なのは、今自分がどこにいるかという位置を知ることだろう。

そこからすべてが始まると私は考えている。

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ひとの感性に訴えること・・・

文化とか伝統とはなんだろうか。その土地の醸し出す雰囲気であり、自然そのものなのだろうか。

自然がそこにある。そして、それらを写し取るのは何か。私たちの感性でしかない。受けとめたものを再びこの社会で表現していくことは、私たちのつとめかもしれない。

そのほかにどんなことがあるのか。私たちの五感といわれるもの目、耳、鼻、舌、皮ふであろうか。これらを通して、いろいろなイメージをつくりあげることを私たちの先祖はずっとやってきたのだ。

ひとの感性に訴えることができるのは、己がそこにあるイメージを抱くことができるからだ。何も感じないという無の世界も実は多くのことを感じることで、無というものを悟るのだ。

でも、そこにはとても言葉では言いあらわせないような感覚もある。ひとのこころを動かすにはそこにある文化や伝統をしることから始めるのだ。

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インフルエンザの季節に・・・

ワクチンを使う。予防する。今年もインフルエンザの季節になった。風邪なのかインフルエンザなのかわからない。

でも季節の変わり目は、いつも何か体調に変化がある。とくに寒くなる時期は、いわゆるカゼのシーズンとなる。今は電車通勤ではないので、満員電車のせいにはできない。

やはり手洗いとうがいが一番の防御方法だろう。

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日本は安全な社会か・・・

いくら治安の乱れている国でも、普通、住民はのんびりとしていて、どんな凶悪事件が起こっても、あれは稀なことだといい、ここは平穏で安全だという。

そして、自らそう信じ込んでいるし、実際にそうなのだと思う。

日本は逆のようだ。実際は平和な地域であるかもしれないが、一度何かが起こると、パニックに陥ってしまう。疑心暗鬼という空気にあっという間に包まれてしまう。もしテロという大がかりな組織犯罪なら、そこには陽動作戦があり、シミュレーションされているパターンの反応になっているのではないか。

思うツボという・・・。

日本の何かよくないパターン、反応癖というようなものが、浮き彫りにされてしまったような気がしたのは、私だけだろうか。日本は本当は安全ではない国かもしれない。情報が錯綜している国、あまり締め付けのない国、つまり緩い国家という見方をされている。

でも、本当に安全かどうかは、ある行動がその土地での考え方に基づいてみんなが判断できていることが大切であり、そういう認識ができないというのが気にかかるのだ。日本人の心理的なパターンがそこにくみ取れるのか、報道を聴いていると、厚労省と年金、三重という共通点だけで、なにか不安を拡大させるようなニュースの取り上げ方だと、私は気になった。

この時点で、これはこういう理由だから、日本は安全なんだと、日本人として言えないどころか、かたくなに入口を閉ざし、さらにヒトを疑う風潮に走るのではないか気にかかる・・・。

住む土地の生活空間としての安全は、地域コミュニティの大きな課題となっているようだ。都会と地方では異なる問題だが、地域のきずながとても大事になってきていると感じている。

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自転車と車という発想

自転車はなくなる。いや要らなくなる。文明の利器とは、便利なものが不便なものを駆逐することを象徴しているようにみんなが想っていた。

今、どうか。自転車はブームになっている。人力で走るのだ。車はそうはいかない。ガソリンがいる。お金がかかる。運動にもならない。事故も多い。自転車は、その存在価値を車との対比において十二分に証明しており、支持を得ている。年代は多岐にわたるようだ。

なぜ、なくなると考えたのか。便利さが違うということか。いや、便利さでいえば、近いところへいくのはとても便利だし、狭くてもすいすい・・・ということもある。もともとその対比の構図がまちがっていたのだ。

TVと映画。これも同様だ。今、映画館で鑑賞というのがブームだ。なぜだ。TVの画質も改善され、大型化している。でも映画館の迫力にはかなわないというところだろうか。ここにも見落としていたものがあるようだ。

インターネットと書籍。この対比はないだろうか。駆逐されていくのは古くからあるものだ。書籍はなくなる・・・・?わからない。でもみんなが出版している。出版そのものが大衆化しているようだ。ということは、同じようなニーズがあるのか。

書籍という形で広まるのが当たり前と思っていたら、違う。電子媒体に変換されている。だから、どこへでもICT技術の中で飛んでいくのだ。どこでもドアではないが、似たような変化だろう。

ヒトはどうだろうか。実存の人間と虚像の人間なんていうのはないだろうが、・・・・疑問もでるような不思議な微妙な感じだ。

書籍という物体が中味をディジタル化されて、情報になっている。つまり、ヒトという物体がディジタル化されれば、情報になれるということだ。つまり、ヒトの持つ知識とか、ノウハウとかいうものは、書籍の場合と同様だ。ディジタル化できる。

残るは中味の物質としてのヒトだが、これは書籍の紙と同じことだろうか。つまり、物質が電子化されれば、可能だということだろう。どこへでも実体を伴って飛んでいける。でも今のセキュリティではだれもそんな情報網に乗りたくはないだろう。停電、バグ、いろんなトラブルでどこかへ忘れ去られてしまうことになる。

類似の発想はいっぱいあるようだ。

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16歳少女のプロ野球選手誕生

高校生の16歳の少女がプロ野球に指名されたという。持ち球がいいという評価らしい。

どこにでも逸材というものはいる。どんな時代でも何かに懸命になっている子供たちがいる。自分たちがいろいろな疑問を抱きながら成長してきたように、どの時代にもいるのだ。おれたちだけが特別苦労しているわけではないんだ。

ナックルボールだという。無回転の球は、空気の圧力変化で予測できないらしい。サッカーでもゴールキーパーを撹乱させるには有効な球質だ。

マラソンが30年を経て変わったように、プロの世界も男女差はなくなるのかもしれない。身体能力をよく観察すると、大差ないのだ。総合的な生命力ということにおいては、女性の方が上である。これは生物全般に言えることだ。

欽ちゃんの球団にも女性がいるし、これからは大きく変化していくのだろう。鳴り物入りではないが、話題だけでも楽しいニュースだ。もちろん実力を評価したと採用筋はいっている。

健闘を祈る。

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ソマリア沖の海賊

このインド洋の西北部に最近多いのが乗っ取りだ。中国のマグロ漁船、世界最大のタンカーなどが報じられている。

いったい、身代金をどこから取ろうというのか。世界の端っこならともかく、今はどこでも地球の中心のようなものだ。それも、紛争地帯に近く、艦船も多いところだ。

沖合にでて、拿捕するというのはかなり危険な仕事である。それを難なくこなすのは訓練されているとみられる。普通、素人が軍隊であろうがなかろうが、海での組織的な動きはできない。とすると軍事組織でしかない。それもかなり鍛練しているはずだ。

拿捕して、それを金づるとして身代金を受け取るには、振り込め詐欺以上の組織的なバックがいる。それがあるのだろう。あの海域は、日本にとっても重要なところである。給油だけでなく海賊行為監視行動も国連かまたは国際部隊の一部として参加するのはどうだろうか。

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生産者になろう

世の中には多様な職業がある。そういう中で、どうだろうか。みんなで生産者を増やしていくことにしてはどうか。

何かを創る仕事だ。つまり生産する人になるのだ。今ないものが、そこから出てくる。みんなで何か大切なものを、この世の中にとって大事なものを生産していこうではないか。

消費者は生産者にもなって、消費するものを生産する。自ら、そこでバランスを需給面において成立させるのだ。個々のひとりひとりがすべてにおいてバランスしていれば、全体がどんなに大きく巨大になろうが、そこにあるのは整然とした均衡である。

みんなで生産者になろうではないか。この世の中を正常に維持するには、実に簡単な法則ではないだろうか。

生産者になろう・・・・・。

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できることとできないこと

なんでもできるヒトをスーパーマンという。それは創作上のものである。なんでもできるヒトは実はいないのだ。

すべての名誉と富を得た人間は何をするか。社会に貢献するだろう。人類の未来は現在のこの人間社会が担っているのだから、ここから改善していかなければならない。ここから改善していけば、この社会はきっとよくなるはずだ。

そして、逆もまた真なりである。今やらなければ、決してよくはならない。どんなことが、その根幹になるのだろうか。この世の中は、衣食住である。それが生活だ。生きていけないということは、経済的な理由もあるし、精神的なこともある。

社会と協調できないことも多いだろう。そんな時は阻害されてそこで生きる望みを奪われてしまうのだろうか。それでいいのだろうか。なぜ、こんな簡単なことができないのだろうか。

もっと、みんなが食べて、着て、住むところがもっと満たされるにはどうするのがいいのか。悪条件を改善する。そういうことだが、どうも何か70億とか、80億という人口の規模がこの地球上の資源を枯渇させるのではないかという不安があるらしい。

つまり、どうしても不公平が出てしまうということらしい。それなら、先取り競争が資源争奪戦になり戦争になってしまう。できることとできないことがある。一方、競争して資源を争うのに、資源が無駄に捨てられている。どうもおかしい。

食べ物に関して言えば、もっと有効活用すれば、十二分なはずだし、そういう風にやっていけばいいのだ。無駄を省くことで、資源は余裕がでるはずだ。おなじパイを奪い合うのではなく、平等に必要なところに分配すれば、そこに余裕が生まれる。それらをさらに分配していけるというものではないか。

どうして、その前に取り込んでよく利用せずに無駄にしてしまうのか。こういうことは、どこでもできるのではないだろうか。

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土地勘

土地勘とは、何だろうか。住む土地では、道路の穴ぼこや落下物や周辺にいる住民の顔さえも暗黙のうちに覚えているということではないか。

つまり、ホームグラウンドとでもいうのだろうか。

ちがう土地はいったときに感じるのは、新しさとか好奇心とかであり、いわゆる土地勘はない。そして、どこか自分の蓄積の中にあるものと比べてみるのかもしれない。でも、それはあまりあてにならない。

たぶんだい丈夫だろう。それは、たぶん・・・でしかなく、当たることはほとんどない。つまり、そこから、そこにあるものから情報として集めて分析していかなければ、いわゆる土地勘というようなものは決して生まれてこないし、出てこない。

土地勘ができそうになるころには、また新たな土地へと移るころになってしまう。そんな蓄積がいっぱい集まると、ほとんど似通っていることに気づくのだ。

基本的な日常の生活や、そこで行われている日常の活動そのものは、どこでも同じであり、ひととひととの交流が大切な輪をつくっているのだ・・・・。

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スポーツ界の動き

昨日の日曜日は、東京女子マラソン、太平洋マスターズ、伊藤園レディース、バドミントン、相撲とスポーツ観戦の日だった。

マラソンの距離というのは、克服できない長さなのかもしれない。あの距離が多分二倍になれば渋井陽子は再度逆転するのかもしれない。でも、マラソンは20キロでも30キロでもない。42.195キロなのだ。レースでだれもが決まったようだが、ここでそう言ってはいかんと想ったはずだ。なぜなら、過去の例があるからだ。くしくもゲスト解説はQチャンだ。高橋直子が解説としてのっていた。自分の想いを重ねてもたぶん大丈夫と思ったのではないかというような快調さだったのに・・・・。いつもなにか期待したくないことが起こる・・・。それでもニューヒロインが誕生したのは、すごいことだ。

太平洋マスターズでは、最後の逆転劇があった。余裕のあるものが最後に追いついていくという姿があった。勝つときはいやでも勝つということだろうか。

北京オリンピックの日本代表2組が決勝で当たった。実力と人気の狭間で、スポーツというのはやはり実力なのだと、あらためて感じた。

昨日は、スポーツ観戦ざんまいの日だった。

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G20の自己評価について

世界が現状を認識すること、初めての試みが成功した・・・・、という自己評価があった。それでも現実的な評価は、今日の株価がどうなるか。あまり期待できない。なぜなら実効が薄いと推察されるからである。

こんな論評があった。それでもないよりはよかった、つまり大きな成果があった・・・ということなのだ。

震源地で何も対処ができない・・・。来年の1月20日の新政権ができるまで、正式にはできないということになっているようだ。それでは、やはり悲劇ではないか。このタイムラグをどうすrのだろうか。

そして、日本のG8の主催国としての立場は、どうなったのか。こういうグローバルな問題を議論するためのシステムではなかったのか。G20と範囲が拡大したから、その責任はないし、義務はないということなのではなさそうだ。

どうも、日本にリーダーシップをとられるのを嫌っているのであろう。もちろんそうだろう。なんやかんやいっても欧米諸国は一枚岩であり、中国は世界の援助大国であり、その国に日本はODAを実施している。

なんとやっかいな構造なのだろうか。もっと、端的にきっぱりと日本はリーダー国として認知されないという情けない状態を打破しなければならない。やはり、日本という国は中途半端な政策しか実行できない体質になっているのではないのか。魂を抜きとられた日本としか見えない。今の日本は、そんなことでしかない。

エイシアン・ダービーとでも言えるだろう。中国に出し抜かれ、韓国に追い越されて、今さらにインドやブラジルにも負けている。どこに原因があるのだろうか。

たしかに日本という存在感がグルーバル化の中で希薄になっているようだ。それは、私たち一人一人の持つエネルギーそのものが、欠乏しているからではないのか。

つまり、老若男女の組み合わせがこの日本の社会では支離滅裂になっているということではないか。大きな課題があるのに、そこに目がいかない。そんな社会構造になっているのではないか。たしかにいろいろなことを言われても、他国の軍事基地がある国は、独自性が育つには適していないのだ。本当に自立した国家になっていないのではないかと、沖縄や他の基地事情をみると思わざるを得ない。

G20の自己評価に対する国民の評価はあまり、いいものではないようだ。何もしていないという酷評もあることを知っているのだろうか。

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日本語を大切にしよう

日本国内では、比較的外国語での会話はすくないようだ。とくに日本人同士では基本的に使用しないことが、暗黙の了解となっている。

そして、日本語での会話というのは、あまりないようにも思える。議論とか討論とかいうときに、どんな日本語を使うのかといえば、ありきたりのことしか言わないのが普通だ。

だから、何も面白くはない。

そんな面白くないところに少し薬味を利かせたいと思っても、そうは問屋がおろさないのだ。そして、放言とか失言とされてしまう。世の中の反響に驚いてそこで抵抗したり、解説したりする。そこで大衆が期待するのはさらなる失態でしかない。あるひとはそこでけつをまくることになったり、いいようにあしらわれてしまう。

ひとつのトラップなんだということを理解しようにも、ほとんどの日本人は良心的な発想にあるので、思いもよらない反応ということの洗礼を浴びることになる。世間は冷たくてあったかいものだ。ひとはみなやさしくていい心をもっているのだ。どちらも正しいが、いつまでもつきあってくれるのは自分だけである。

生きていることは楽しい。ましてや母国語があり、なんら日常生活に不自由はない。でも、そこで失言とかで攻撃されたら、とてもいたたまれない気がする。

しまった・・・。だれもが思うだろう。

でも母国語なので、そこに文法とか話術とかいうものが足りないという理由ではなさそうだが、ほんとうは日本語をあまりにも乱暴に扱ってきたために、言葉からの反撃にあってしまうのかもしれない。

もっと、日本語というもの本質、日本のこころを表現するもの、日本人としての誇りを表現するものとして、大切にしていかなければならないと、私は昨今の有名人、政治家の発言を聴いていて思った。

日本語は、私たちの生きるあかしでもあると私は考えている。

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たのしさの正体

たのしいこと。それは、遠足の前の日とかだったように思う。何かを期待しているときが、私は楽しいと感じる。

すべてを忘れて、没頭しているときも楽しいはずだ。みんな忘れているから、その時は感じないが、それが楽しいことを表しているのだ。

大きな魚を捕まえたときは楽しいだろうと想う。ソフトボールでヒットを打ったときは楽しいと思う。それは、打てないときに次はと思うときにも楽しさがどっかにある。準備中というような気分だ。

楽しさを味わうには、準備が必要だ。そして、それを感じるこころが必要だ。そういう心を支える身体が必要だ。健やかさを感じるのは、たぶん楽しいことだとも想う。

探せば、結構楽しいことがあるものだ。些細なことでも、見方、考え方、心の持ち方で楽しさはそこかしこに見え隠れしているものだ。

楽しさは、自分自身の心とか身体についているものであり、からだじゅうで表現できるものだ。それが正体なのだ。私たちの存在そのものが、楽しさなのだ・・・。

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人権と平等について

人権とは、何だろうか。ヒトとしての権利というものだろうか。それは、最低生活保障とかが憲法で謳われているいることに関係している。

でも、平等という感覚は、人権と関係あるだろうか。

不平等がいっぱい世の中にはあると私は思う。そして、そこにこの世の中のおもしろさもあるのではないかと思うのだ。

本当は平等なのにそう感じられないというのは、何かの役に立つだろう。格差是正といいながら、本当は差がないのかもしれない。

人権と平等とは、北朝鮮とか独裁国家にないものという定義でいいのだろうか。そういうところにもあるのだろうか。当たり前かもしれない。実は、近代国家であると、当事者は考えているのかもしれない。

気付かないところが、実は人権と平等の問題となるところではないか。そういいながら、この日本はどうなのか。拉致被害者を同じ邦人として、人権と平等に扱っているといえるのだろうか。それは、否であろう。

では、どうしたらいいのか。取り返す策をみんなで考えよう。日本の過去の行いを過ちというのかどうとかいうよりも、もっと目の前の現実を直視して、邦人として生まれた同胞の人権と平等を確保し、復活させてやるのが私たちの役目ではないのか。

特殊救助隊を編成して半年後に、人権と平等を彼らにプレゼントしていけるようなことはできないだろうか。クリスマスプレゼントでもいいのだが・・・。

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話題の映画について

最近、映画館で見ていない。それは、ひとごみがすきでないということによる。私の話ではない。知りあいのことだ。

映画はなんとなくひとりではなく、複数でみたいと私は思うのでついいかなくなったようだ。

話題の映画が多く出ている。たしかに、その表現力が最近は変わっている。ひとつのことでも昔と違うなにかを表現できてきているように感じる。

より迫力があるとか、えらい人も普通のひととしてのとらえ方をしているとか、当然のことを率直に表に出しているところがアピールするのだろうか。

そして、計算されたものが、一度壊された形ででてくるというような芸の細かさも目につく。わざと逆の逆をいくようなことだろうか。ひとのふれあいにしても、自然な形で表現していれば、それは自然な形で受け入れられることになる。

なんとかして、見てみたい。話題の映画をまた自分で感じてみたい・・・・。

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忘却曲線

ヘルマン・エビんぐハウスの忘却曲線のことは、あまり知らない。でも、忘れるということはとても大事なことだ。

そこで、忘れる率というのは、初期にかなり早いということだ。一日で半分ぐらい、でも一ヶ月で2割ぐらいは覚えているということらしい。

では、どうするか。

繰り返すことや、他人に話したり、教えたりすることがいいらしい。

もっともなことだ。復習することが、予習するよりも効果的だという証拠ではないか。

実は、脳の働きというものを実感するのは、頭を使うことで確かにエネルギーを消費することだ。運動と同じか、それ以上のエネルギーを頭脳を使うひとは消費している。効率を良くするためには、やはり訓練が必要のようだ。

つまり、考える力を養うには、努力が必要だということだ。

忘却曲線は、そのつど興味のあることに対しては復活するということだろう。要は、そのメカニズムをつかみ取ることだ。

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近くて遠いもの

自分のことは一番分かっている。そんなことを想うことは、あるだろうか。実は、そんなことを考えてみることは今までなかった。自分のことを知っているのは当たり前だ。

でも、違う。ほんとはわかっていない。灯台もと暗しというのはほんとだ。

近くて遠いものなのだ。ここに同居している自分と自分のこころが実はよくわからないということだろう。近い。でも遠い。適当な距離感を自分に対して取っておくことも大切だろう。それが実は、わかるまでに結構時間がかかった。

自分は自分であり、自分ではない。鳥獣戯画というものがある。あなたは自分を動物にたとえるとしたらなんだと思いますかなんていう質問があれば、どうする。よくわかりませんとか言ってしまうだろう。

ふだんはあまり意識していない自分というもの。そんな存在が近くて遠いものの代表のように私には見える。

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地方の時代; そこに生きることの大切さ

ずいぶんと時間が経過した。地方の時代といわれてから久しい。

それでも地方は景気が良くない。良くならないといわれている。なぜだろうか。世界が変わったのだろうか。たしかに変わっている。変化している。それが、でも、表面になかなか出てこない。

かつての栄華は、もうない。だから、過去に戻るという発想はないだろうと私は考えている。これからのもの、これから新しいといわれるもの、それは未来というものだが、決して今までの栄華というものではない。

自然な生活空間というようなイメージの地方にしていくことだろう。そこではいろいろな価値観があるのではないか。私は、都会というイメージがもう古いと思うのだ。

ドバイの都市開発ではないが、そこに新たな価値を見出すことも一つであろう。砂漠の中に生活空間、ビジネス空間を創造するというのも一つのやり方だろう。

でも、維持費がすごい。それに見合うビジネスというシズテムであれば問題はない。そして生活となるとちがう。それは、維持費のかからない自然なエコな空間ということだろう。だれもが別荘をもつということはできないにしても、空間として自然を選ぶことができる。そこにいわゆる地方という発想があるのではないか。

何よりもそこに住むひとの感覚が大事だと私は考えている。なぜならば、それはそこで生きていることを実感するからだろう。

地方の時代の在り方を今、単に昔のいい時代に戻すということではなく、エコな生活空間を楽しむという視点で進めていくことが大事なのではないかと考えている。

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オグシオの解散が放つエネルギー

ペアーは二人で一組である。そして、スポーツではいろいろある。そこに一人ではできないチームワークがでてくる。組み合わせの妙とでもいうのだろう。

オグシオがペアを解散するというニュースがあった。

いいものが分散していくのはいいことだと、私は考えている。つまり、新しいペアを組むことで、そこにエネルギーが生まれることを意味している。

だから、大いに期待している。久し振りにエネルギーが発散していく姿をみたように思う。がんばれ・・・・。

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健康保険のこと

勤め人を終わってみると、生活の中で基本的なことがきわめて多いことに気づかされる。つまり、サラリーマンは気楽な稼業だということである。

ほとんど仕事に集中していればいい。それが、実は社会知らずの大人をつくっている原因でもある。だから、なにかを変えなければいけないと私は考えている。

自己申告制度というものは、それが専門家の仕事にとってかわるだけかもしれない。それでも、そこに自分でやるという機会があるというのがいい。

自分で選択することができる。そして、できれば数年に一度は自分でやるというような制度でもいいのかもしれない。

人生は短いというひとがいて、人生は長いから焦るなというひともいる。どちらも正しいのであり、その時々のこころの持ち方によって変化する。

いろいろな組み合わせがあることを、私は恵まれた環境だと感じている。

そして、健康が一番だいじだと感じている。もし、無知なために健康を害しても診断してもらえないなら、それはもっと社会の重大事項として小学生から教えていく必要がある。そのことによって、おとなへ浸透していくことが可能になる。小学生が知っていることを大人は子供から学ぶことができる。

老若男女の組み合わせは、ここでも大切になってくるようだ。

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新しいスポーツ種目の誕生

どんなスポーツがこれからはやるだろうか。相撲なんていうのは、殴る蹴るなどがないから、いいのではないか。

国技を国際スポーツにまで普及浸透させていくという方針は今のところないようだ。でも、円形の土俵は単なる線1本でもいいわけだし、ちからを利用して相手を倒すというのは、シンプルで人気がでるのではないかと、私はずっと考えてきた。

女性相撲も大会ができているし、国際大会があるかもしれない。海外からプロの大相撲に来るのだから、アマチュア世界が普及しつつあるのは確かだ。

相撲は自分でとる方が面白い競技だ。あたらしい日本の伝統がまた世界にでていくのではないか。もっともプロの世界がもう国際化してしまっているのだから、この発想自体が時代遅れかも・・・・。

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世界時の統一は可能か

現代社会で都合の悪いのは、世界で時刻が異なることだ。全世界で同じ時間帯で仕事とか活動ができないものだろうか。

もちろん太陽の動きに従って生活している間は、無理だろう。

もし、地球の形を扁平にしたら、可能だろうか。それとも昼夜を無くしてしまう、つまり、裏側の光を反対に持ってくることで全世界の標準時を一つにすることはできるのではないか。

でも、今の私たちの仕事は、個々に違う。大多数は昼の勤務だが、かなりの人たちが夜間やその中間も働いている。かなり柔軟な労働時間体制となっていることは確かだ。とうことは多様な時間帯に活動しているとなると、私の提案はあまり意味がないということだろうか。

しかし、これから、宇宙開発とか、私たちの活動範囲が地球から大きく離れていくことは当然のことになっている。ということは、全世界の時間を同じにして、同じ時間帯の昼夜の暮らしがどこでもできることが望ましいとも言えそうだ。

逆に夜間がなくなるというのは、つらい話だし、自然破壊の何物でもないかもしれない。

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しっかりと学ぶには・・・

場違いな感じというのがわかるだろうか。ここは私の来る場所ではなかった・・・。そんなことを感じたことはないだろうか。

どうもいずらいというのではなく、ちょっと俺とは出来が違うなとか想った事はないだろうか。とても肩身の狭い思いをすることになる。

以前は、本当に嫌だった。でも考えを変えた。たぶん百人いたら、その中で違和感を持たないのは数人ではないかと・・・。ちょっと厭味な感覚はとても大切なのだ。あたらしい空間に飛び込むときに、そこは未知の世界である。そんな知らないところはいやだと私たちのDNAは叫んでいる。でも、好奇心というものもあるし、どっちが勝つかで決まる・・・。

私の場合は、後者の好奇心である。恥ずかしさとかは忘れてしまう、いつの間にか忘れている。そして多少好奇心を満足させると、恥ずかしさが首をもたげてくるので、再び同じような心境になる。それでいいのだと私は考えている。

しっかりと学ぶこと、一歩一歩でいいから、そこにいろんな個人の想いを捨てて、興味本位で好奇心のあるがままにその空間を味わってみることが大切なのだ。

しっかりと学ぶにはそんな助走も必要だと私は考えている。

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長崎の出島というところ

実際に行ってみるとちがうものだ。日本の歴史の中にしっかりと組みこまれた出島の存在があったのだ。

ハウステンボスにはいっても、出島にはよらないで帰ってきたのはつい数年前のことだった。今回、長崎といえば出島だ。もっと終戦にかかわりのあるところもあるが以前にそこは訪ねている。でもなんとなく、出島はミニチュアランドではないかと思い行くことはなかった。

そこに歴史があった。日本の文明開化に関係するもの、医学、薬学、工学、建築土木などがなまなましい形で発掘展示されていた。小さな国家とでもいうのだろうか。狭い埋立地にびっしりといろんなものが詰まっていたのだと驚いた。

南極基地を思い出した。きっと、いつか・・・、なんて想った。

たしかに、ヒトが生活するということは、どこでも同じだという気がした。オランダのアムステルダムはゼロメートル地帯であり、埋め立て技術は一級品である。そんなことを想わせてくれた。江戸幕府に象を寄贈するつもりが断られたとの由、さぞ大変だっただろう。その後始末が・・・。以前、私の住む清水の三保半島の東海大学文化ランドの一画に花子という象が飼育されていたことを思い出した。たしか引き取り手を求めて転々としていたのだと聞いた。その後、違うところへ再びひきとられて確かそこで終えたと聞いた。動物がちょっとかわいそうでもある。

カステラが長崎名物だ。これも出島からだろう。それとVOCマークがキャノンに鋳こまれていた。製造所のマークだ。有名なやつだ。

狭いなりに中学生、高校生、幼稚園児や小学生のグループも大勢いた。たしかに教科書にあるものを実物で見られるというのは、これは驚異的な教育効果だろう。決して忘れないのではないか。ただ、埋め立て地なのだが、今は、一部を除いて開発の波に侵食されている。だから、どうして出島が陸地にあるのかという風に錯覚する子供たちがいっぱいいるだろう。もっと貴重な遺産は丁重にあつかっていくのがいいのではないか。

坂の町は、とても歩いてみるのは大変だが、歴史の重みを感じさせてくれるところだ。また行きたいと考えている。

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モード学園コクーン

地上50階、地下4階の高層ビル。新宿の街に新しいランドマークが現れたとのことだ。

コクーンとは繭のこと。それは、この学校のデザイン性という特徴、創造性というようなイメージを直接アピールしているものだ。

東京だけでなく、他の都市にも同様のコンセプトでのビルがいっぱいありそうだ。もし、若かったら、こんなところで勉強したいと思ったかもしれない。

この時代は巨大建築構造物が盛んである。9・11のあの苦い経験が実は、建築界の構造設計の進歩を裏付けていたのだ。エンパイアービルという姿とはもうまったく違うものになっている。

ドバイに世界最高のビルができる。どうしてあんなところに・・・。だれもが想う。でも、土地がありお金があり、ひとを集める力があれば、それは可能なのだ。狭い土地で、あくせくしている時代は終わったのだろう。

広い敷地でいい環