世の中の出来事
この世の中に気づいたときにいた。この感覚はだれしも持つものではないか。そして、なぜここにいるのか。なぜ、私は私なのかという大きな疑問を背負っていきている。
そんなことはないよ。気楽だよ。そういう人もいるだろう。そして、それでも、どこかでなんどかは繰り返す疑問なのだ。
答えがないから、そこで忘れる。
ときどき、そういう心理を忘却しているままに、なぜ社会は俺を受け入れないのかとか、そんな理不尽なことがあったいいのかとか、また、どうして・・・・・、・・・・。そんな問いかけをしても、決して答えはない。
私たちはそんなときどうしたらいいのか。不平不満を何かに対してぶつけるのだろうか。はたして何を敵にするのか。結局、自分という私たち自身の問題だと気づくことが大切だと私は考えている。答えが見つからないとか、答えとして認めたくないとか、いろいろあるが、それでも自分で探すのがヒトとして生まれた一番の理由なのだ。
他のどんな動物が自分の存在に疑問を持つだろうか。不思議さを体感し、体験できるだろうか。それだけで、ヒトとして生まれた価値があると私は思う。
世の中の出来事は、一人では生きられない人間として生まれてきたのだから、そこで起きるものなのだ。日々の生活で、いろいろなことを大勢の人たちがしている。多能なひと、何もできない人、何もしない人、どうでもいい人などいっぱいいる。それが、時間という軸の上で時には多能なひとを演じ、違うときは何もしない人を演じたりしているのだ。そこで社会ができている。
自然な流れの中で、私たちは生まれてきたのだ。能力の差はこの実社会で生活している限り五十歩百歩だ。でも、それが個々にとってはとても大きく感じるのだ。
個人は総合力を発揮して、日々の生活をしている。そして、社会も総合力を発揮して維持している。だれが何をしているというのではなく、自然に出来上がったと思われる多くの仕事をすることによって成り立っている。
どんなに平等な社会でも、個々の一人一人の人間にとっては、一過性の空間なのだ。みんながすべて同じではない。みんなちがう時間をこの世の中で生きる。だから、別れがある。出会いがある。生まれて、没する。この世から、どこかにあるといわれていいるあの世へといく。
そこで個々のヒトは消滅する。あとに残ったひとの心に残ることでずっとその存在は検証される。
世の中の出来事は、そんな意味で、私たちの日頃の考え方が元になっている。そして、ずっと生きて社会の役に立つまで働くこともできない。終わりがある。そんなことが作用して、いいこともそうでないことも起こる。
やはり大事なのは、ひとりひとりがこの世の中の大切なメンバーだということだ。どんな所で何をしていようとも、私たちはこの社会に必要な存在なのだ。たとえ、何かが原因で明日終ろうとも、それは大切なものなのだ。
なぜなら、この世の中は五十歩百歩だから、人に上下の隔たりはない。同質だから、同じ能力を持っているからこそ、小さな能力や機能的な差が気になり、すごく大きく見えるだけなのだ。みんなが多少の凸凹を調子の波に合わせながら、サポートしていくことが大事なのだ。
今ある社会が私たちの社会なのだ。それがどんなことが起ころうとも、私たちの自然な流れの中での世の中の出来事として起きているのだ。その原因は、一人一人の心の中にあるのだと私は思う。
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