« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

どんな年を迎えるのか・・・

どんな年にするか。どんな年にしようか。

何をする・・・。何をしたい・・・・。

そんなことは自分でかんがろ・・・。

そして、とてもうれしい。新たなことを考えるのはとても楽しいことだ。

いままでできなかったことができそうだ。あまりにもやりたいことが多くて困るとは言わない。それは、私たちはだれでもできるのは一つ一つなのだから・・・。

何をしたいのか。それが大事だ。何のためにそうしたいのか。それも大事だ。

答えは生きることだ。そして精いっぱい頑張ることだ。何をするかは二の次だ。まずいきること、生きたいと叫ぶことだ。そこから生きるエネルギーが自然にわいてくるのだ。

どんな年でも、生きることだ。そしていろんなことを見て聴いて、生きる実感を味わうことだ。それはとても楽しくてうれしくて切なくて、ときに憤慨したりして怒ったりもするのだ。そんな喜怒哀楽の感情をどんなときにもいろいろと感じられる環境というのは素晴らしいと私は想う。

そういう一年、一年を迎えていきたい・・・。そう私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

連続TVドラマの一挙放映

私の特技は、どんな時でもいつからでもドラマに入り込むことができることだ。途中でも終わりごろでもかまわない。

なぜかというと、すんなりと脳の中に入ってくるのだ。だいたい想像できるのだ。だから、この年末の休みは、ルーキーズとかごくせんとかシリーズでつぎつぎと見たのだ。コマーシャルの間は、アラフォーを垣間見てまたチャンネルを戻したりした・・・。

私の奥さんはそんなことに夢中になっている姿をみて自分の見たい番組を遠慮してほかのTVでだまってみたようだ。私は途中で見るのをやめるのもあまり気にしないので、いつでも見たいものがあったらいってくださいと広言しているのだが、やはり、熱心になっている姿なのかも・・・・。

いわゆる根性もの、不良ものといわれる学園物語だ。でも、役者というのは、先生役も生徒役もあまり年は変わらないのによく演じるものだと感心した。

そして、連ドラの構成は、配役のメンバーで割り振るというような基本をみたようだ。次にだれを主演にするか。どんな内容にするか。はらはらどきどきというところを見透かされないように、結末が二転三転するようにつづるのがコツかと感じた。

サラリーマンとは別のものかもしれない。学園ものはなんとなく未来があり、夢に目覚めろ、明日にきらめけ、目指せ甲子園・・・・。すごいセリフだ。格好良すぎて、部分的に見ても何か嫌気がさすようなものだが、一度はまると理解できる。

野球をやる元不良たち。野球選手として非行には戻れないせつなさ。それを陥れようとする現役不良ども。どっちもハラハラする。せっかく更生したのにまたか・・・。やっぱり不良というレッテルを貼られるともうもどれないのだ・・・、どうでもいいんだ・・・・、やっかマしい・・・、おれにかかわんなよ・・・、ほっといてくれ・・・。そんな言葉がぽんぽんとでる。

それでも、何かそこにある一種の情熱が感じられるのは、そのプロセスにあると私は考えている。ひとつひとつの積み重ねが、つぎのステップへと誘うのだ。決して見えなかったものが、一歩すすむだけで見えてくるという不思議さを作者はしっているのだ。

ドラマの品質は、その構成にある。そして物語としての注目度、平均度、かい離度などいろいろと要素はある。でも一番は人間性を描くことだろう。どこにでもある家庭とか、人間関係とか、ふだん面倒でいやなことをひとつひとつ丁寧に描いていることがりっぱだと感じた。

一挙放映なんて、かなりの時間を費やす。でも飽きないでみるのは年末だからであり、汗水たらして懸命に創作した成果でもあるから、見ごたえもある。

かなり客観的にみられるのだが、涙もけっこうでてくる。涙腺の運動とこころの感動の鼓動をみる試練かもしれない。それが一年間の集大成となり、この次の一年への飛躍になる、跳躍のパワーになる・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

年末のニュース

この時期はひとつ年を越せるかどうかという時だ。いかに長生きするかという命題にたてば、とても大事な1週間だ。

気候の変化も激しい冬のころだ。環境ががらりと変わる四季を持つ日本では、常に備えておかなければならない。

異常気象といっても、この4つが時期的に変化するだけ・・・、と言えないだろうか。それは危機管理に相当する。ちょっと今年は速いですね。ちょっと異常ですね・・・。こんな会話はよく聴くものだ。

そして、いつか夏が冬にくるなんておかしい・・・、とかいうようになったら、・・・。それは異常だ。春がきて冬がきて秋になったりしたら、どうするか。4つの順番が変わっただけだというのだろうか。

もっともビルの中は年中、エアコンで関係なさそうだ。

年末のニュースからも、そういう気候の話題はもうすぐ消える運命かもしれない。たとえば今年の正月は夏から始まります・・・、なんていうことは関係なくなるということだ。

年末のニュースはいたましい。そう想うのは今年も同じだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

緊急相談会

地方の中小企業は大変な年末を迎えている。各地の商工会議所や関連機関では、年末ぎりぎりまで相談会が行われている。たしかに年を越すのは、昔も今も大変なことなのだ。

経済の単位は年度ではなく年末ごとにあるようだ。とくに日本の冬は寒い。だから、この年末にあたたかい気持ちで越せるかどうかがきわめて大きな影響をもつのだと私は考えている。

そして、最近感じることは、日本の行政機関の窓口業務がサービス精神に富んできたことだ。ちょっと想像できないようなこの数十年来の変化ではないだろうか。

ぶっきらぼうな公僕という印象が、社会に奉仕するという精神が沁みとおってきているのではないだろうか。何がこの変化を私たちにあたえているのだろうか。

それは、昔から言われているあなたの立場に立つという常識が理解され始めているのではないのか。私はそう考えている。

私の住む東海地区でも商工会議所が緊急相談会を催して29日、30日と対応したようだ。同じビルの中にある私の事務所は、その間、混雑回避のため、閉鎖した。私も家で過ごした。そして、今年最後の今日、31日にこうしてメールなどの確認にきている。

きっと日本の社会は中小企業が立て直すと私は信じている。そのための、力は大きい。雇用の7割を占めて、企業数では98%という数値を無視できないはずだ。どんな恐慌がきても揺るがないスキームがそこにあるはずだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

冬の衛星画像

昨日の天気図とその画像は冬そのものだった。きれいな筋が等圧線にそってならんでいる。天気図をみただけでああ寒いと思った。

東北のあたりは、こういう天気図では荒れ模様だ。うらやましかった太平洋岸の土地に私は今住んでいる。だから雪はない。それがさみしい。でもそのかわりに澄んだ冬の青空がある。

そして富士さんがある。一番きれない空気のときが冬なのだ。だから日本一の富士はとてもきれいだ。それは自慢できるものだ。駿河の国と次郎長さんが目に浮かぶような気持ちになる。

冬の衛星画像は、とても魅力的だ。29日はちょっと崩れるらしいが、あとはおひさまとほしぞらだと朝の番組でいっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

この国はどこはいくのか

この国はどこへ行くのだろうか。10年前の勢いはもうない。それは国民の代表である首相の姿にあらわれている。

どこの国でもその国の顔は政治リーダである。もっともっと日本は世界のトップクラスの国ではなかったのか。日本人の生産性は先進国の中で最低に落ちている。なぜだろうか。いわゆる自分のふんどしを持たないからではないか。

他人のふんどしどころか、さるまた程度を借りているくらいにしか思われていないのではないか。独裁国家に負けるようなイメージでしかない。虐めれっこにしか見えない。虐められて片隅で泣いているならまだいい。もう泣く元気もないのではないか。

それどころか、弱虫を隠し続けるために意地を張っているとしか見えない。自分のふんどしで相撲を取ろうではないか。日本という伝統を私たちは今、この手で取り戻すのだ。だれにもどこの国にも迷惑はかけないでできるのだ。

私たちは日本の良いところをしっている。それは時々誤解される。そして針小棒大にものごとをごまかす。対外的なスタンスと内的なものがまったく違う。

日本の首相は世界一だ。そう私は冒頭の言葉にかかわらずそう信じている。どんな時でも日本一は世界一なのだ。だから、もっともっと日本の良さを世界に示して行こうではないか。

そのリーダは日本の首相だ。へこたれない総理がいて、それを批判する先生たちがいて、そして批判する国民がいっぱいいる。そしてみんながそういう総理首相の理解者でもある。批判や非難はそんなものがこの国を活発にするエネルギーなのだ。不満がたまればそれはパワーになる。

団塊の世代でなくとも、いろんなグループがあつまれば、それは大きなパワーに生まれ変わる。ひとりひとりはそんな感覚がなくとも国民の中に大きなこころのエネルギーが芽生えるときがある。だまっていても、日本にはそんな国民の力がある。

あとはそのリーダが役割をしっかりと果たすことだ。みんなが支援する。そんなものはいらないというようなリーダであればそれは別の話であるがそんなことはないだろう。だってみんなが全国民が支援しているのだから・・・・。

この国は世界のリーダになるのだ。そしてきっといい世界を創造することができると私は信じている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゆるやかな緊張を知る

あがってはいけない。必死になってもがいていた。そして案の定笑い物になっていた。

いつからか、私は緊張するときには、それ以上ない緊張をしようと心に決めた。それはとてもここちよい緊張でもある。緊張するときにそうする。それは極めて当たり前のことだったのだ。

上がることはひとの前でそうなることだ。もちろん、私的なことではしょっちゅうあがりっぱなしである。そこはまだまだだ。でも、公的な場では緊張することで、逆にそこに適合できるようになった。背筋をすっと伸ばして緊張するのだ。だらだらしないのだ。おれは緊張しているということを全身で伝えるのだ。

とすると、こころはそういう状態を緩和しようとゆるやかなところへと移動していくようだ。バランスをとるということだろう。以前は、体が緊張なんかしていないというようなそぶりでぐうたらしていた。だから心で焦っていた。

ゆるやかな緊張とはなんのことやらと思うだろうが、それはとにかく最高に緊張してみることですぐに自分のものになる。プロフェッショナルとは、何か。それは最高に緊張して物事を自分なりにできるレベルを言うのだ。

緊張している。穏やかな感覚だ。でも周囲からはピーンとしたり、ビーンとしたような感じに見えているはずだ。それが、頭上の視点で俯瞰するとようくわかるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

土地柄を見る

こんなところに住んでみたい。そんな土地が地方には多い。共通点があるからだろうか。

その土地にずっと住んでいるひとは、まさにその土地の生まれ変わりであり、私のような根なし草にはとても羨ましいものだ。親の面倒をみて先祖のことを保護して継続していくことは本当は大変なことだ。

その土地をみるには、その土地の人たちをみるのが一番だと私は思う。そこには、すべてが詰まっているだろう。言葉は、もうその文化の代表のようなものではないか。

物産もそうだ。とくに何もいわなくともおいしさが伝わってくる。だれも食べ物の偽証なんかは考えもしない。畑のものを日々の食卓に運ぶ。地先の魚を食べる。水もそうだろう。

寺社がある。風情がある。伝統の香りがするだろう。海があって、山があって、川がある。日本はほとんどが自然に恵まれている。そんな日本の土地柄を見つけるのは楽しいだろうと思う。

伊豆をみて回りたいと思っている。一日か二日あれば回れる。なんとか種々検討をしてあそこの土地がらを知りたいものだ。でも広範なものかもしれない・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

波の効果

音波。振動を感じる機能が体じゅうにあるのが人間だ。

だから音楽が発達したのだ。それは、たしかに私たちの身体に伝わってくる。そんな感じがよくわかる。周波数が変わることで、人体に影響を与える。破壊することもできる。

音楽は、だから私たちの心を揺さぶることなんて簡単なはずだ。そして私たちも音楽の持っている振動を取り込むことができるのだ。

音楽は、古来あったはずだ。進化する過程で、単細胞のアミーバのころからその波動を感じていたにちがいない。

波を見ているとどんなものでも、わくわくする。それが音楽の原点かもしれないと私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

年末年始のこと

とにかく新しくなる。今年が終わり来年が今年になるのだ。

この時期は神棚に手を合わせる。近くの神社が認識される時期だ。神様がいるのだ。

子供たちの行事も伝統がある。いろいろある。

昔の子供たちは、どんな想いを抱いたのか。年の終わりと年の初めに何を想ったのだろうか。きっと、すばらしいものだったろう。

夢であり、希望であり、大人への一歩という胸の高鳴りを感じるときではなかっただろうか。とにかくこの時期にひとは数え年でひとつ年を重ねるのだ。一歩、こどもはおとなにちかづくのだ。

そんなあたりまえのことを想い、雪国のこたつの中はあったかい。首まですっぽりと入って猫と場所をとりあう。円い形のモチを食べて過ごすのだ。

外は吹雪だ。さあ来年は頑張るぞ。

除夜の鐘。さあ今年はきっといろんなことを・・・・。眠ってしまう・・・。朝起きて、雑煮を食べる・・・。もう一日目の夜は終わったようだ。元旦の日の出をみるには近くの山をこえてからなのでかなり遅い。もう明るく輝くころにおひさまを拝むのだ。

今日ぐらいは家にいなさい・・・、とか言われても、外へ飛び出す。長靴でスキーだ。近くの崖にみんなのスキー広場がある。ジャンプもある。手はあかぎれ。耳はしもやけ。足も凍える。

でもきゃあきゃあ言って騒いでいると、楽しいのだ。去年はあの坂をスキーで降りれなかったのが今年はできそうだなんていうときは、一歩おとなに近づく自分の姿を垣間見ることができる。

きっとはやく大人になって働いて・・・・、きっと・・・・。そんなことを想っていた。早く大人になりたかった年末と年始のときだった。

こどものころを想うと懐かしいきがする。正月の思い出だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

センスのもんだい

どんな格好がすごしやすいのか。ファッショナブルなんていう言葉がよく似合うひとがたまにいる。

それは太ってるとか、痩せているとか、ちょうどいいとかいう基準とは違うものだ。

格好いい。

そう思えるひとがときどきいる。雰囲気とかセンスとか、ほとんど関係のない私にも、オーイケテルナ・・・と感じさせるやつらがときどきいる。

それは、機能性にあるんではないだろうか。機能美というものがある。はたらく手は美しいと思う。きれいとかいうのではなく、機能的なうつくしさがたしかにある。

高層ビルも機能的でなくては、時代に遅れるだろう。最上階まで登るのが私はもったいないと思う。もっと低層階でいいのではないか。

高層ビルの機能とはなんだろうか。省エネに反しているのは間違いない。土地の有効利用だろうか。陳腐化する速度と維持管理費、そして周辺地域への悪影響なんて考えればとても理屈はつかないだろう。

だいたい寿命がつきたときに安全に破壊する方法があるのだろうか。造る時と逆のことをやるわけにはいかないだろう。

その答えは、平安時代にある。都の機能を遷すのだ。すべてを一度に移すことだ。それがいいのではないだろうか。東京と大阪、札幌とか北九州とか順番に回ればいいのではないか。

構想があれば、それは意外に簡単にいくのではないか。いずれにしてもセンスの問題だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海上自衛隊の派遣

海賊はカリブではなかったのか。そんな冗談が飛び出す状況にはない。まともな仕事がなけrば、違法行為に走るしかないという地域の事情があるようだ。

インドネシア海域も同じだ。海の民は魚をとるか、貨物船にのるか、それとも違法行為に走るかしかないのではないか。

昔の瀬戸内海を想像すると事情がわかりそうな気がする。昔の箱根峠を考えてみるとわかりそうな気がする。

その土地にとって、糧となる資源がないなら、それは略奪という違法行為に結びつく背景が見える。

それとも政治的なつながりでのテロ行為そのものなら、話は別だ。

ソマリア沖の海賊は取り締まる必要があるだろう。日本のライフラインである石油の供給ルートにある。安全を確保することが当然だろう。それは自衛以外の何物でもない。すべて衛星で監視されているのだが、実際にその場にいなければできないことがいっぱいある。

原因はアフリカの貧困にある。表面にでているものは、そこで防御することだ。そして、もともとの原因の除去に協力していくことだ。

そのためには、実情をよく把握していくことだ。自衛隊の艦船の派遣は、重要なことだと私は考える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

まけずぎらいのぼく

私は負けるのが嫌いだ。将棋なんてどうしても勝てないゲームだ。力の差がしっかりとでてくる競技はだから嫌いだ。

何をやってもできないのだ。楽器なんて吹けないし弾けないし、歌もそうだ。音痴の代表選手だ。

でも、負けるのが嫌いなんだ。

だからもう生きるのがしんどい。負けてばかりの人生だから・・・。

でも負けるのが大嫌いなのだ。

だから、生きることでは負けたくないのだ。自分の心にだけは負けたくないのだ。

嘘をつけないのだ。嘘つきは敗者だとおふくろがいっていたのだ。だからどんなに負けて悔しくても嘘はつかない。

まけずぎらいってほんとにつかれるんだよなあ・・・。でもまけないぞ・・・、といつもこころのなかでは叫んでいるんだ。おれは・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

みんなの気持ち

みんな気持ちはわかる。でも、それはさみしさとかいうものではない。ほんとに寂しいのは一人になったときではなく、大勢の中でポツンと自分が残されていることを知ったときだろう。

そんな感覚が怖くて、いつもはしゃいでいるのが自分だ。それでも、途切れるとすぐに恐れがくるのだ。いつかはしゃぎも終わる。そしたらどうする。どうなるのだ。

そんな気持ちを抱きながら、はしゃぐ。

みんなの気持ちが怖いのだ。どんな風に俺を想っているのかが恐ろしいのだ。きっと悪いことばかりなのだ・・・。そう想うともうどこかへ逃げだしたいと思う。

もう居場所はないような、そんな寂しさがこみ上げてくる。きっと、どこかのトンネルを抜けるときのような世界の変化を目の当たりにしたら、治るのだろうか。

信じられないような清らかな心に出会ったらとても恥ずかしくてせつなくなるのだ。そんな気持ちはみんな分かるはずだ。おれだけが何か恥ずかしい存在のように思えて泣けてくる。どうして、おれだけこんなことを強く意識してしまうのだ。

でもみんな同じ気持ちだということをしらないだけだ。いつごろ、そんなことがわかったのか覚えてはいない。みんなの気持ちは自分もそこに入るんだよなあ・・・。もちろんさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ようぼうのへんか

若い時の写真。はつらつとしている。

その後の写真。変化している。

二枚を比べるとすぐにわかる。そして、かなりの衝撃を受ける。それに耐えていくかその現実を内心で打ち消していくかの選択はちょっと残されている。

結果、ある時期、ある限界を超えると、次は緊急手段にでなければなrない。どうしても若い時にもどらなければと焦る。

それでも、戻る。それにも限度がある。

どうしようもなくなったとき、健康がいいと感じるように心理面での評価を変える。何が大事かという質問に「はい健やかさです」「はい明るさです」と答えるようにする。

その後はどうする。私は、年齢並みに、年相応にありたいと思うようにしている。昔、20代でも小学生とか中学生に見られたことが悔しくてたまらないのだ。成人映画を見に行ったら、子供はだめだと断られた。その時、大学生だったのだが・・・。

だから、老年はそれなりに追いついていきたいし、できればちょっと格好をつけていきれるぐらいの気負いをもっててもいいかなとも想う。

禿げたらそれは丸坊主だろうか。それとも帽子でごまかすか。それとも・・・。そのまま・・・。まあそれはいろいろだから、どっちでもいい。

ああ、これはだれだったかと鏡をみて自分の両親と間違うようなことは、ありうるだろうか。そんなことは考えないようにしよう。

容貌の変わりようは激しいが、また、その意識の追従も結構速くて関心する。すぐに現実を肯定することができる。それが、チェンジということへの柔軟性なんやな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ひとものかね

ひとはモノを必要としている。モノを買うにはお金がいる。お金はヒトが持っている。

では商いとはなんだ。ひとにモノを売ることだろう。そして対価をえることだろう。ヒトはなぜお金を払う。

欲しいからだろう。ついうっかりだろうか。生きていくために必要なものは必ずお金を出す。なぜなら命が第一だからだ。

不要なものには出さない。でも時には誤って買うヒトもいる。

そんな風に回っている。できるだけ多く回ってきて、当社の金庫にとどまるようにお金を教育してはどうか。居心地のいい金庫を持つことにしようか。

でもそこに置いておくだけではそのままだ。ひとをおかねに結びつけることだ。ひとはものを呼びこみそこで対価を稼ぐ。ひとは対価をもらう。相手の欲しいものを与えて手にする。

ひとものかねのまわり方をもっとしることだ。お金が避ける道にはひとはいない。ものがないところにはヒトはあつまらない。ヒトはお金についてくるし、おかねはヒトが運んでくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

税金のこと

売上はいくらか。利益はいくらか。経費節減はうまくいっているのか。昨年との比較はどうなのか。今年と来年の計画はどうあるべきか。

常に経費節減、削減、経費ゼロなんていうこともありうるか。その時は利益ゼロのときだ。

税金を払い、ヒトを雇用していく。それが企業の使命だという。よくわかる。

そして、そのために法人にお金を運ぶのだ。活かしておかないと税金は納めないから、それは生きていなくてはいけない。ほとんどが中小企業だ。

大手企業は、雇用で貢献だろうか。そうでもない。全体の3割程度だという。

それなら、中小企業が税金を納められる経営体質にならないとこの国は持たないだろう。税金を納めるには、やはりヒトモノカネの3つが命だ。

不況でも活かさないと、税金はない。税収がなければ行政は活動できない。経済破たんだ・・・、と騒ぐことになる。財政破綻だと大騒ぎになる。

ギリギリという音が聞こえてきそうだ。そして、そこから何かできるのかというとそうでもない。一度陥った落とし穴を脱出するには、穴を埋めるしかない。税金は出てこない。

では、どこから取るか。搾取といってもいいだろう。どこから搾るか・・・。どこにでもあるのはヒトの生活だ。企業組織は法人としてお金を食す。不況では体力が続かない。もっと食わせろという。

どこから出す。どこからねん出する。カットだ。自然人の放出だ。人件費を浮かして法人にお金を腹いっぱい食わせることでしかない。

でも彼ら法人はそのお金を自分では集められない。ヒトが貢ことになる。それで生きている。自然人は食事が必要だ。そこから生活に必要なものに税金をかければいいという発想だ。

中小企業の重要性は、企業からの税金と、そこで働く人たちの税金もある。そして生活の税金もある。日本の98%は中小企業だ。70%はそこから給与を得ている。

ということは、そこを元気にしてやればいいのだ。とすれば生活品も流れる。税収は増える。ひとびとの気持ちも上向くというものだろう。

でもどこかしわ寄せがきている・・・。破れそうだ・・・・。気づかない・・・・。千年に一回の経済崩壊が来ていることをだれも気づいていないのではないか・・・。それは百年に一回ではないのだ。

それは壊滅だ。税金収入はもちろんない。そんなときこの社会はどうなるのか。

なくなりはしない。それは人々がいるのだから。経済崩壊はそういう仕組みを否定する。新たな仕組みを構築する時だ。お金というものがなくなる。貨幣経済がなくなれば税金もない。

国家はどこから活動エネルギーをとるのか。いや活動しないから不要だ。でも統制が効かないだろう。それもない。だから要らない。

新たな時代なのだ。だれも何もしない。無の世界だ。する必要はない。ヒトは動かないものとなる。

競技。スポーツ。そんなものは昔話にもならない。遠い忘れた昔々のことだ。税金なんてそんなものはもうだれもしらない存在になっているのだ。

そんな新しい仕組みができることを望みたい。そのためにはみんながそう願うことだ。そして実現に向けて努力することだ。

でも今はだれもそんなことは不可能だと勘違いしている・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

もみじマーク

農家の軽トラックはほとんどが紅葉マークつきだ。最近批判が多い高齢者の事故がその原因だろう。

そして、ほとんどのひとにとって、ある種の憧れではないだろうか。

紅葉マーク。

それは、健康の証である。農業者には健康な人がおおいということでもあろう。だから、当人たちは名誉だと考えていいのだと私は想う。

はたして、みんな想う。自分はどうだろうか・・・、と。

自然の中で仕事をしているヒトは20年ぐらいちがうのかもしれない。筋肉の付き方が違う。そして太陽の下で仕事をする体力というのは一朝一夕では作れないものだから、とても大事なことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

パリダカについて

来年2009年はチリだという。

ずいぶん離れるものだ。

砂漠というのがキーワードか。過酷という言葉に砂漠は欠かせないようだ。

でも伝統というものは、すぐに崩れる。

持ち込んだものはすぐなくなる。他人に依存することとか、他人へ責任を転嫁することとか・・・、安易なんじゃないかな・・・。

もともとラリーなんてモーリタニアやサハラの人たちは関係なかったのだ。

自然の中に入り込んできてかってに暴れていって、問題があればすぐに離れる。

地域の密着なんてしてない。

単なる為政者のわがままだったのだ。

もうパリダカでもリスダカでもない。もう消えてしまった。南米大陸はまた違う名前にしたらいい。影を引きずらない方がいい・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

この世に生まれて・・・

この世に生れて、何を想ったか。自分というものに出会ったことだろう。

自分にこころがあることを知ったのは、不思議なことだった。この自分のこころは、私という自分を乗り物だと感じている。考えているという方が正しい。

そしてときに失望している。どうしてそんなことができないのか。機能不足とか能力そのものがないこともある。でもそれが自分だ。乗りモノであり、自分そのものだ。

そんなこんなでかなりこの自分という乗り物は操作は上手になっている。そしてメンテナンスとか管理が結構大変だ。くせの多い乗り物だから、とても困惑する。

でもそれが自分なのだ。こいつがいなくなれば俺もいなくなる。こいつが動かなくなれば自分のこころという俺はなにもできなくなる。だから、どうする。もっと性能のいい自分になることはできないのかなんて考えているとしたら・・・。それはあり得ない。

だから、この自分というそのものでこの世を感じて生きることが、おれにとっての最大の事業なのだ。

この世に生まれてきたら、そのおわりまでいきることだ。そこに答えがまっていると私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本人の誇りとは・・・

ひととしての誇りがある。じぶんとしての誇りがある。そして日本人としての誇りがある。

わたしはだれって想うときに、日本人だといえるだろうか。自信をもっていえるのか。

疑問だ。

たまたま韓国人でしょうとか、中国人でしょうとか、東南アジアのひとですね・・・、なんて言われてしまったら、どうする。

誇りをもって日本人だといえるか。

怒りをもっていや俺は日本だというのも大人げない話だ。

たしかに人種的にはあまり変わらない。そして大きな意味で文化も漢文という意味では同じだ。でもどこか違う。

今、こだわりを捨てるひとがおおい。にほんじんという範疇にいる必要はない。それよりもグローバル化だというひともいる。

そこで、わたしはグローバル化だからこそ、日本人としての誇りを今私たちは持つべきだと考えているのだ。

日本人の誇りとは「おもいやり」であると私は想う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ひとはこころ・・・

そこまでいかないとわからない。だから懸命になる。そこにいって考える。よく来たなと迎えられる。

そこで終わりである。ありがとう。それで終わりだ。とくに何もない。

ひとはこころで生きているという。ひとはこころで旅をしているという。ひとはどこかで何か壮大なことを想うという。

宇宙の果てを見たか。地球の端っこをみたか。あなたはひとのこころの端をみたか。

そこには隣のひとのこころに移る橋があるという。でも普段は自分からかけない。面倒だからだ。でもときどき忘れてしまう。

わたっていいかい・・・。そんな声ではっとする。

まだ生きている。もう・・・・。もう聞こえないようだ・・・。

ひとはこころでいきているのに・・・、ひとのからだはなにもかんがえもしないのに・・・、私たちのこころの存在をコントロールしている・・・。

ひとはこころでいきているのに・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

造反議員とは・・・

世の中は、常に裏切りの連続だという。政治は一寸先は闇といわれているのに、結構明解だ。なぜそんなに主張したがるのか。

同じ党内ではないのか。それとももともと関係ない単なる集団なのか。

ボクシングのように実力がそのまま出るわけではないらしい。生まれとか、経歴とか、貴賎なんていうのは関係ないのだが実はまだ日本にはあるのだ。

アラブの主従関係ではないが、使用する側とされる側はまったく立場が異なる。日本もかつてはそうだったのだ。封建制度が一番似合う国だったのだ。

虐げられた貧民がいて、裕福なヒトがいて、そこには大きな格差があったのだ。もうそれは垣根があって乗り越えられないものだったのだ。

でも、今はだれでも同じ命をもっていることが明白だ。みんな同じ命だ。そして同じ権利を持っている。でもそれでも違うのだという。どこかに血筋の差があるのだという。

そんな馬鹿なといいたい。もっとその中で主張すべきところは突き出していけばいいのにできないのだ。困ったときは支援する。毛色の似ているグループを支援する。友を支援する。仲間を支援し協力していく。そんなことはもうとっくの昔になくなっているのかもしれない。

造反議員とは、だれなのか。名前もあったが、たぶんにそれは表向きであり、だれかのためにそうしているのだ。なんとやくざ稼業の精神は結局脈々と受け継がれているようだ。戦いのために犠牲になる。そんな構図にしか私には見えない。

それともまったくの茶番劇ということもある。マッチポンプなんて古い言葉がときどき頭の中を走る。まだ消えていない・・・とはいってはいないようだが・・・。

すべて駆け引きの一つだろう。もっとチャンピオンになるプロフェッショナルなら、もっと正々堂々と戦ってほしいと私は心から想う。

YKKのKさんの二の舞にならないようにもちろんシミュレーションを忘れてはいないだろうが。もっと仲間を信頼できないのだろうか。それとも仲間なんて政治の世界にはいないのだろうか。お酒飲みの仲間を除いてはいないかもしれない・・・。

どうも目線が政治家になると変わるようだ。それは仕方のないことだろうか。でも衣食住に頼る日々の生活は変わりない人間の範疇だとは思うのだが、ちがうのか・・・。

どこがちがうのか。そんな政治家はえせ政治家でしかない。造反は日本人の心根からすると、歓迎されない。今はちがうのか・・・・。いや、私はそうではない。日本人のこころには弱者を支援したいという流れがみゃくみゃくとある・・・。そう私は信じている。

チェンジとは、変えることではない。より本質に近い所に戻るということだ。贅沢な生活を質素な人間らしいものに戻すことなのだ。ほかに何があろうか。

チェンジ。それは、日本の政治家が誤った理解と認識をしている証拠ではないか。だれも何も変えようとはしていない。米国の主張は変わらない。自分の国益にあった方針に時勢にあった政策決定をするという意味なのだ。

ひとの生活が基本のところは何も変わらないのだ。外れた方向を正しく戻すということなのだと私は考えている。造反ではなく、そういうチェンジの一つの行動だといえばみんな納得するのだが、また変えるといういたずらっ子の策略なら、そこでそんな芝居は終わりにすることだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

飯島愛さんの記事

この間まで、ほんとうに意識的に憎まれ役というか、いじられ役というかそんなタレント業をやって活躍していて突然引退して、そして今日のニュースだ。

どっちかというと奔放に人生を作っていくタイプの人間だと私は考えていた。その頭脳の良さというようなものが普段のそぶりというかTVやマスコミの露出面では好感が持てたのに、何か残念だ。

やっぱり、なにか弱いところがあったのだろうか。

人間関係というか、男女関係というかそんなことではないのだろうか。それとも気よわになった気配があるが、健康上の理由だったのだろうか。

なんとなく空しいというか虚しいという感じがする。もっと強く力強くいきる女性だと私の分類ではそう主張していたのに、何か残念だ。

エープリルフールであってほしいが、まだ師走だ。ひとにはわからないことがおおい。でもしっかりとある意味では生きたのではないか。一般の人にはできない彼女の持って生まれた才能は開いた・・・、のでは・・・。よくわからない・・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スポーツ 陣内孝則に似た山口選手の健闘が光った試合があった

プロ。この言葉は、どうもスポーツ選手のもののようだ。

現実にはどんな業界にもプロが必要なのだ。それは、なんでも知っているというエキスパートだから、そう呼ばれるのだ。

ボクシング。プロになっても日の目をみるまでは長い。チャンピオンになって初めて生活が実感できる。だから目指す。

そこに、よさがある。スポーツとしての良さが残っている。競技としての意義が残っている。力と力とが競い合う場だから人々の共感を呼ぶのだ。

挑戦者もまたそこに至る生活をみると同じだ。目的をもって生活している。それは素晴らしい。たしかに、試合は自分で制御できない。それは相手がいるからだ。いい相手を探すことと相手に恵まれることもまた必要だろう。

でも自分との戦いなのだ。そこから自分との戦いを制していけば、きっと人生は強いものになれる。そんな魂の強さが私たちに感じられるのはボクサーの強い意志だ。

闘魂。

それはどこでも必要だ。優しさといえるものかもしれない。闘魂と優しさが私には同じに見える。

スポーツってほんとにいいなと想う。ボクシングってほんとにいいなと、昨日の内藤・山口の対戦を観て感じた。まけた山口選手に拍手を送りたい。もちろん勝った内藤選手はすごい精神の塊だといえよう。

山口選手は陣内孝則ににてる。そう想った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文化とひとの脳みそのこと

どんなにどんなに老化しても、記憶が残っているという。

刺激することで、想いだすという。誕生日の紙芝居という介護士さんのアイデアが効果を発揮しているという。

これからは、私たちはみんながそういうひとの行動パターンを研究して呼び覚ましていくことが大事ではないか。

すぐれた頭脳の老化パターン。普通の脳のパターン。いかにも低そうな脳の老化パターン。意外と意外かも・・・。

この人生の目標をいかに元気に老化するかということにおいてはどうだろうか。そんな人たちがいっぱいいるような気がする。

文化はヒトの脳を刺激するだろう。クラシックは脳を刺激する。これは確かだ。脳みその研究とは心理額ではない。

これから、そのモデルとしていろいろな人たちのパターンを研究していくことが大切になると私は考えている。

だから、どんな経験をしている人でも、そういう人生を代表できる。特異な生き方をしているひと、虐待されているひと、そうでない人、普通のつまらない人、どんなひとでもそれぞれに違うだろう。

そこから出るデータは、これから来る若い人への道しるべとなる。だから、どんどん新たなことに挑戦していけ。それはいいことだけでない。当然だ。みんながしないようなことをどうしてやるのか。信じられないようなことをどうしてやっているのか。

みんな貴重な経験になる。ひとはみんな宝ものだと私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

不況のこと

いつもリスクを背負っているのに、どうして不況を予測し対処できないのか。とてもとても不思議だ。なぜできないのか。

リスクマネジメントを学んでも何にもならない。つまり体得していないからだ。マネーゲームに踊らされているだけだったのだ。いいからいいというなんと情けない姿勢なのか。

百年に一回の危機は対処もできないというのだろうか。頻度が少ないということで対象から除外しているのだったのか。

経済学者は何をしていたのだろうか。警告を鳴らすだけの先生方は多い。それは、それで話はいいだろう。危機をあおり、それに対してコメントする。せいぜい、私は予測したといいたいのだろう。

そんなことでは実業の世界ではない。

つまり、どう回避するか。そうならないためにどうするか。為替がどの程度変わればどうなるのかなんてすぐにわかる。その領域が百年単位の出来事だから免除されるというものではないだろう。

車社会がそこで終わることを意味しているのではないのか。もうこの世の中の仕組みに適合できないのではないのか。その警鐘ではないのか。

不況は来るべくしてきた。それは、人類の危機対応の範囲を超えてきたという。なぜだろうか。

チェンジ。

チェンジ。チェンジ、チェンジ。

そう3回叫んだら、そういうことになるというおまじないだったのではないか・・・。

今、次の目玉は何か。宇宙だ。決して車ではない。ということは、もっとエコに気を使い、ほんとにまったくCO2を出さない移動手段を考えなければいけないのだ。

あぐらをかいて、自己称賛をしていて、エコだといってもそれはだれも信じない。不況は来るべくしてきた。大きな波がきている・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あきらめること

もういいかげんにあきらめなよ・・・。なかなか言えない言葉だ。それは、とても冷たすぎるからだ。

ひとのこころがわかるのかどうか・・・。みんなわかるんだと私は考えている。なぜなら、それは自分のこころをかぶせてみることができるからだ。おれなら、わたしならどうするかという場面が教えてくれるのだ。

ところが、あきらめろとは言えない。そして私は言わない。決して言わない。それは、理由がある。私たちがものごとをやれるようになるのは、ほとんどがかなり時間が経ってからだ。急激な伸びをみせるというその最後の上昇カーブが見えるからだ。

あきらめることはそれからでも遅くない。死んでからでもいいではないか。あきらめるのはそれでいいと私は考えている。

あきらめることは、それ自体が生きることと関係している。つまり、そこで終わるという意味ではないか。生きていてもあきらめてしまえばそこで終わる。

だからあきらめることは私は嫌いだ。それは、私の場合、この世にいないということを意味するからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

くじらのこと

日本人はくじらはほとんど食べない。日本人はさかなはほとんど食べない。日本人はさかな料理が苦手だ。

こんなことを書くと、そんなことはない。日本は水産国家だと否定されるだろうか。実際に魚はいろいろに利用されている。いまや工業原料としての価値の方が、食糧としてよりも多気っくなりつつあるのではないか。

とするとバイオ燃料ではないが、食用にできる割合がさらに減少するということだろうか。

くじらをなぜとるのか。そんな疑問を投げかけられた。なぜ、・・・。食糧として位置づけられていたのは間違いない。そして、今はあまり巷での評判も高くはない。でも・・・、それでも今後の地球規模の問題である人口と食糧のことを想うと、そこに利用せずに人類が生き延びる道はないといえる。

いかにこの資源を持続的に利用していくかが必要なのだ。

でもクジラのこととなると、躍起になる人たちがいる。欧州では食しないのだから、そしてもう照明用の油としての役割もとっくの昔に終わっている。とすればもう用はないということだろうか。

あんまりだような・・・。

日本は後進なのだ。クジラの利用に関しては100%利用してきたのだ。それが本来のこの地球上での礼儀であろう。弱肉強食ということをどう感じるのか、それは様々であろう。強いものが弱いものを壊滅させることはだめだ。みんな了解している。そして、共存していくことだろう。

くじらのことはみんながその背景を少々忘れ初めているようだ。この辺で、正論を日本はまとめて世界のリーダーシップをとるべきではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

心理作戦のこと

自分で何かを考えると、そこには確率がでてくる。五分五分だ。どうする。どうする・・・。

迷っているな。相手の心を読むべく必死になる。やつも同じことを考えているに違いない。うらをかくにはどうしたらいい・・・。

相手の考えの反対、逆をいくことだ。そうだ。でも同じことをあいつもきっと想っているだろう。だから、どうする。

いや、あいつはもっとアホではないかと期待しよう。とすれば、そんなに何度も反転する必要はないだろう。どの程度か。二回三回だろうか。

そんなら俺は四五回考えを逆にすればいいのだな。

結局、何を目的にしているのか忘れてしまう。きっとだましあいなんてまったく生産性のないことだ。この辺でやめにしよう。

酒でも飲んでリフレッシュだぜ・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

年の終わりに想うこと

いつも同じことを考える。

来年どうだろう。何にしようか。もう今年のことは終わりだから、ほとんど何も思わない。

新しい年になにをするのか考えるだけだ。それは、まだ新しいことをやれるという心構えになるのだ。

そして、終わったことはもう良いこともそうでないことも過去のものになる。

さあ、これからどうする。どっかへいくか・・・・。何かをつくるか・・・。

それとも昼寝をするか・・・・。それから、考えるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国際政治とは何か

国際性をもった政治家をそういうのだろうか。政治家はみんなそういう認識をもっているのではないか。

今、自国のことだけを考えていればいい時代は終わったのだ。楯つく国々を相手にどう意固地になってもらちは開かない。拉致問題もそうだし、領土問題もそうだ。

領土とは何かという議論もあるだろう。海底も陸と続いているのだということも確かだ。海、空、地下などの領有権はだれにあるのか。渡り鳥の所有権は、高度回遊性の魚類はどうなのか。だれのものか。

国民とは何か。どこの国のひとになればいいのか。国際政治とはそんな境界のない共通していて普遍的なことをまず理解している必要があるだろう。

どうして貧しいのか。どうして富が公平に回らないのか。そんな初歩的なことが実はまったく分かっていない。災害を受ければ復興に時間とお金がかかる。その間、経済は停滞する。だれかが支援しなければならない。いやいやではなく、世界全体のために行う必要があるのだ。

漁業資源にしても同じだ。大気も同じだ。海洋も同じだ。そのうち、大気循環エネルギーがきわめて重要になるのではないか。必要があってかく乱しているのではないのか。もし、そのエネルギーを100%使ってしまったら、新たな弊害が起こるだろう。もし地震エネルギーを検出してほかに利用できたらいいなと思っても、その弊害がなにかあるのではないか。マグマの動きを調整するために地震があるのだとしたら、その動きを邪魔することになる。

そこでちがう影響がでる。

もしも地球の自転をそして公転をエネルギー変換してしまったら、どうなるのだろうか。もう大きな影響を受けて人類滅亡となるかもしれない。

宇宙から侵略されたら、どうする。政治家はどう戦うのか。仲良くするのか。未知の生命体とそんなことができるのか。

国際政治ということをちらっと想うと、何かとてつもないことがいっぱい頭を駆け巡ってしまうようだ。

でも、私たちは自然に生きて成り行きに従ってどこかへ去っていくのだ。それが一番ではないか。いくら大きなお墓を作ったり、家来の兵士軍団や騎馬をそろえてもそれが土偶では働かないだろう。

今、生きているこの世界で何をしたらいいのかと、全世界の人々が考えて、ちょっとおかしいと思う体制はやめていかなければならないだろう。

拉致された国民をどうやって取り戻すのか。そこにもっと知恵を絞って工夫していかなければとんでもないことになるのではないか。日本に国際政治家はいないのだといわなければならないのか・・・。残念なことだ・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

年末年始の行事

忘年会と新年会。商売にとってはなくてはならない季節だ。そして、今年は厳しい冬がきているようだ。

リスクマネジメント。そんなことはすでにどこか遠い存在になっているようだ。ある一線を超えているので仕方がないというところだろうか。いや、尋常ではないので、いた仕方ありません。

そんなことでいいのだろうか。以前にあった。百年に一回のきわめて珍しい現象だという。言い訳と言い逃れがすでにある。では仕方ありませんねでは済まされない問題だ。

フリータが若者に多いのに、どうしてこれ以上の失業者を増殖させるのか。企業が生き残るにはこれしかない・・・。そんなことでいいのだろうか。なんのための企業なのか。企業のための企業でしかない。ひとはそこに奉仕している。まるでどっかの悪徳代官のようだ。

吸い上げる。すべての成果を摂りつくす。そんな化け物のようだ。社会を汚染させて、世界を不況に陥れてそれでまだ生き延びたいと税金に手をだす姿がそこにある。

いや大事な生命線だから救済する。さもないと社会が崩壊するからという脅迫だ。つぎに何が続くのか。社会を崩壊させないと、企業が続かないから、崩壊してくれ・・・。そうなることは間違いない。

でもやめられない。止められない。止まらない。

年末年始の動きも止まらない。忘年会新年会だ。騒いでも不況はどこへも行かない。懐がさみしくなるだけだ。

危機は転機になるのか。チャンスにできるのか。好機がくるのか。年初めの富士山に何を願ったらいいのか。質実剛健がいいだろう。不景気なんて吹っ飛ばしてやればいいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

こたえは・・・

答えは「諾威」です。

ノルウェイと打って変換してください。

ノルウェイ→諾威

おわりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

漢字のはなし

漢字イコール恥ずかしさ。そんな感覚がクロザップされている。

結構あるようでない。みんな読めるのに私だけが読めない。コンプレックス感が漂う。

では、問題です・・・。

この字はなんでしょうか。    「 諾 」

ヒントは米国とか英国とか伊、加、豪、氷、韓、露、比などだ。

ちょっとなじみは薄いが、沼津産のひものの原魚はこの国からいっぱい輸入されている。

答えは続きの最期にある。知っているヒトは知っているということかな・・・。でも知らない人は知らないってことだな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

テンションの高いひとはほがらか・・・

しょんぼりするなんて考えられない。そんな人たちが住んでいる土地柄というのだろうか、伝統であり、文化なのだろうか。

おっとりしている人たちの多い土地柄もある。なにもかもがゆっくりしていて、それでもしっかりと動いているなんていうのはいい。

テンション。高い。ほがらか。

そんなイメージがある。うらやましい限りだし、本人はそういうことが当たり前でまったく意識もしていないそぶりだ。猫を被っているのではないのだ。

いずれにしても、ほがらかなことはとてもいいことだ。

iPS細胞でそういう部位を作り出すことはできるのだろうか。すくなくとも、悪用ではないだろう。世の中が明るくなるのはとてもいいことだ。

そこから余裕が生まれ、想いやりが生まれるのではないか。思いやり予算なんていうものが沖縄にあるが、それとは違うおもいやりだ。

朗らかにしていれば、テンションが高くなるだろうか。そうでもない。テンションが高いとほがらかに見えるということである。逆はちがうと私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マグロの競り

築地で禁止。そんなニュースだった。

理由はマナーだという。それも外国人の観光客が大勢つめかけているのだそうだ。ガイドブックに京都の舞妓さんと並んで紹介されているのだそうな。

なんという仕打ちだろうか。もっと見せていくべきだと私は想うのだが、どこがだめなのか。もちろん衛生面での施設整備や改善をやればいいのだ。それだけ消費者というか一般人がそれも海外からきてみたいと興味をみち好奇心に満ちた目で心で満足して帰るようなものがこの日本にどれだけあるというのだ。

そんなことをもっと違う眼で見ていかなければならないだろう。私はそう想う。

築地市場の移転問題とか当事者にとっては、大きな問題があるのは知っている。でも、世界で感動して帰る海外からの旅行者がいるなんてそんなにはない。私たちにわからない何かが築地市場にはあるのだ・・・。

そこをもう一度考えてみようではないか・・・。

沖縄のちゅら水族館のじんべえざめさんは3頭いて、だれもがじっとみつめて満足してようやくその場を離れる・・・。そんな感じに似ているのだ。

もっと大事にしようではないか。それだけ、付加価値があるということだ。そして、もうひとつのサービスとしての競りの場を設けたらどうだろうか。数百万円が観光客のカメラのフラッシュでセリにんが見落とすこともあるというなら、それを防ぐことにもなるし、別のショウを設けることだ。

それぐらいのことは日本を魅せるためにやってもいいし、そんなことはめったにないことだ。いくらビキニの福竜丸をみせて世界に原爆の恐ろしさをぴーあーるしょうとしても来ないところには来ない。

それなら、そこでいろいろと知恵をしぼりぬくことだ。もっと東京都のトップは頭をやわらかくもってほしいものだ。

世界不況は、築地から吹っ飛ばせというぐらいのスローガンでマグロの競り問題も片付けてほしい。期待している・・・。

|