個人の生活とグローバル化
個人の生活は、どこへいこうと付いてくる。そして家族がいて、一緒に動くことも、動かないこともできる。
とくにどうってことはない。移動が大幅に楽にできるから、住居はどこでもあまり関係なくなったのだ。
だから、逆にどんな条件で選ぶのかが大きな問題になる。大都会なら世界のどこにいてもあまり変わらないだろう。都市機能というものが、標準化されているからだ。それは、グローバル化のひとつのヒットだろうと私は考えている。
つまり、生活する場所はどこにするのか。制約条件がないから、自由に選べると思うとそれは間違いだ。大きくまちがいそうなのは、砂漠の中の人工都市に住むなんていう自然に反した場所を選択してしまうことだろう。
自然ってなんだ。もう火を使わない生活を安全だとPRするところもある。でも、ヒトは火をみて何かを感じる。日は火事を引き起こすような危険性もあるが、その炎は風呂を沸かし、焚き火でいろいろなものをほっかほっかで食えるようにもしてくれる。
危ない動物から身をときには守ってくれるかもしれない。今は野獣はそういないが、もしこの世の中が大きく変わったらどうだろうか。自然の中で、いつ食われてしまうかわからないような状況になったら、どう生きるか。
そこであきらめるのもいいだろう。でもできれば生き延びてそのスリルぐらいは味わいたいではないか。とすると、生の火を扱えないなんてなんとだらしのない人間様になっているのかと反省の限りではないだろうか。
グローバル化と私たちの生活は、バライティに富んだシチュエーションを提供してくれるということだ。だから、なんでもできなくては、やはり生きてはいけない。
もちろん、コンビニでの買い物もできないといけない。電車にも一人で乗れないと話にならない。セレブになっても、野生味のある方がもてるのだという。でも、へなちょこの方が、扱いやすいというところで、評価は一番たかいようだ。
いつも女も男も、利巧で素朴であいまいなのが私は大好きだ。グローバル人間とはそういうニュアンスがわからないと決してなれないものだと私は考えている。
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