脳の機能
目をつむってみよう。その中には壮大な空間があるのがわかるだろう。
そして、目をあけると、私たちはこの世界の姿をそのまま感じることができる。でも、この感覚は実は、ちっぽけなものかもしれない。視覚は膨大な情報を私たちに与えることは間違いない。そして、ほとんど100%依存している。ほんらい頭で考えるべきものも、目でみることで理解したと勘違いする。
また、目でみたことを理解できないと不安になる。連動していないことが気になるのだ。連携動作がうまく機能しないということなのだ。
無意識と認知との境界があるらしい。どこまでがそうなのだろうか。そんなことを知ったところでなんになるものか・・・。ずっとそう想っていたのだが、これがどうも誤りらしい。
結構な能力が無意識にあるようなのだ。ただ、私たちがそれを感じることができないのは、どこにもとくに注目していないからだと私は考えている。
不注意によるエラーをヒトはよくやる。なぜ注意力散漫だからだという。では、いくつもの注意点に目を配るのではなく、たった一つにすればどうだろうか。極端にエラーは減少する。焦点を当ててやることで、エラーが少なくなる。
もし、本を読むときとか、車をうんてんするときとか、テレビをみているときとかに、もし入力情報が1分間に一回とか10回とか30回とか60回とかに変化するとしたら、どうだろうか。車を運転するときには、安全第一という方針から、常時オープンというのがいいだろう。でも1秒に1回という視覚情報でも安全な道路であれば運転は可能かもしれない。しかし時々刻々と変化する車の量、歩行者、自転車、バイク、老若男女がいるならそれは棄権であり常時最大の警戒態勢をしくのが常套だろう。
そんなこんなで情報がほとんど変わりないものなら、1日一回でもいいのかもしれない。本を読むという目的が全部読むということなら、それはそれでよい。でも、交渉術についての部分だけを知りたいというなら、その関係箇所だけでいいのは当然だ。
それで、脳の仕組みを利用して、自分がその情報取得に避ける時間ないに取り込めばいいのだ。
いやに簡単にいうようだが、実はそれでいいのだと私は想う。情報というのは、必要な時に入れてやることだ。どこに何があるとうろ覚えでもいいのだ。あとでリファーできるという脳の機能がある。ちょっとだけでも、インプットしてやる。栞をつけてやるようなことだろうか。
そんな風に機能を利用する。そんな考えになったのは、ついこの間だ。今、本を読むことについて考えている。どんな仕組みで本を読んでいるのか。そして、どんな仕組みで本を書けるのか・・・。そこにたどりつきたいのだ。
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