地方選挙 静岡県知事戦
選挙は戦いだと私は考えている。それだけ、真剣そのもので一票を投じる。そのために日々、状況を観察し、世界情勢や日本の置かれた状況を想っている。
今、私たちがやることは、時代の変遷であり、そして普遍性のあるひとの生活そのものであろう。
そのために、より良い政治体制を創ろう。より強い国民の意思を反映できるシステムを創ろう。みんなが助け合う社会を構築するために、どんな教育をするべきなのかを考えよう。
均衡のとれた生活は、バランスのある社会にあるはずだ。その中で自由な発想を生かすには、歴史にいろいろなことを学ぶことができるのだ。
ひとの意思を反映するのは難しい。ともすると、一番悪い選択をしてしまうこともある。そんな二の舞、三のマイを踏まないようにするには、しっかりとしただれもが納得する政治制度を造ることだ。
二大政党政治が答えだと私は考えている。それは、決して二つの大きな政党という意味ではない。小さな政党でもそこに人間生活を真に憂える政策があれば、イニシアチブをとれるという大きな意味がある。
基本としての国の外交政策、経済政策をしっかりとさせる。時代の移り変わりに十分な対応ができるようにする。そのための基礎となる二大政党の仕組みだ。
臨機応変によりよい生活社会を築くには、そこに機知に富んだパラダイムをシフトできるグループが必要なのだ。たとえば環境だ。時代を牛耳る勢力はその恩恵にあぐらをかいているかもしれない。
より環境にやさしいダイオキシンを開発しましたなんていうことのないように、しっかりとした政策を守っていかなければならない。大企業は地域の雇用と経済をすべてになっているのだから水銀の垂れ流しはやむをえないなんていうことが、間違いだと堂々とこどもから大人までわかる社会をつくっていかなければならない。
これからは、核の後遺症に苦しむひとを出してはいけないのだ。どんなに多くの日本の同胞が苦しまされたか、世界の人たちは知っているのだろうか。当人の死だけではなく子孫に与える苦痛はどんなものか想像もできないだろう。悲惨さを隠すことはだれにもできないのだ。
だから、私たちは、この機会に二大政党の枠組みをつくる必要がある。そして、より優秀な公僕を育てるのだ。そのためには、教育がどんなに大事なのかを知る必要がある。みんな知っていることなのだが、つい忘れてしまうのだ。
日本では揚げ足取りばかりしていると、そのうち掬われてしまうことを知らない人はいない。だから、みんな利己より利他を選択するのだ。そんな結果が、この保守王国静岡での大きな考え方のうねりなのだ。
この結果は、この土地の伝統的な考え方に基づいているものだ。富士山のようなどっしりとした安定感のある社会生活を望んでいる住民が何をどう考えるのかは、どの土地のひとたちもおんなじだと私は想う。
子供たちが安心して暮らしていける政治経済社会を創っていかなければならないのだ。それが先人の務めだ。
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