芸能人の常識とは・・・
芸能人とは、芸を売る人たちであり、人生経験というものを得るためにはなにをしてもいいという時代なのだろうか。
経験がなければ、単なる役作りでの成果はでない。そんなことを昔の芸人は言っていたのではないか。それは本当に一部の芸能人をのぞいては好きだからやっている。だから、貧乏は当然。でも其の清貧の中で、芸を磨いていたのではないのか。
それが、いわゆるばくち、おんな、かねであったのだろうか。どうしてそうなったのだろうか。自由から感性を磨くということだったのか。それで、今でも、芸能人は特殊な世界でいわゆる芸を磨いているというのだろうか。
タレントという治外法権のようなものが世間にあると信じているのかもしれない。それは政治家にも同様な感覚を私は持ってしまう。私たちは特殊な選ばれたひとなのだという傲慢さが見え隠れしたりするのは当たり前で、そういうことしか思ってもいないのだろう。
芸能人の常識とは、一般人をごまかすためのものなのだろうか。個人的なことをなんやかやというつもりはないが、組織である以上、そこでしっかりと管理をして、芸能界の質を高めていく必要があると私は心から想うのだ。
たしかに天才が多いのはわかる。生活が一般人と違うのもわかる。人生の成功者になったら、そこで己の生活をきっちりとして、後進の指導にあたるのが本筋ではないのか。ひとりいるということは、そこに十倍も数百倍も存在しているということなのだ。
それは、芸能界だけではなく、社会全体なのかもしれない。とすると、模範的な行動が有名人である芸能界にも求められるのは当然のことだと想うし、それが責務であろう。
報道関係で怖いのは、なんとなくもう歯止めがなくなっているとか、たいして大きな問題ではないとかいうコメントがあることだ。ちょっと野暮かもしれないが、素人一般人によるNPO法人で「芸能人の薬害汚染を心配する会」なんていうのをつくって、定期的に情報を収集して警告を発することはできないものだろうか。
こと不倫とか暴力ということもあるが、薬は違法である。それは、社会的に禁煙が進んでいるのとは違うものだ。中身は同じだと言えよう。それは禁酒もそうだ。実際、宗教上飲酒は禁止されている社会は多い。そこでは、飲酒は犯罪というよりももっともっと大きな悪い行為であり、ヒトとしての存在を否定されるような土地もあるのだ。
もっと健全な芸能界になってほしいものだ。北朝鮮との関係がうわさされているが、国内の芸能人はその顧客対象となっているのだろうか。責任論はこれとは別のことだと肝に銘じておこう。
« すてきな暮らしの夢 | トップページ | やるぞという気持ち »
「芸能・アイドル」カテゴリの記事
- ひとにはなにかとりえがあるというが・・・(2019.01.07)
- 赤穂47士、なんとか48、おニャン子・・・(2018.11.13)
- ニジマスもサケ(2018.08.17)
- 被災者ケア(2018.08.08)
- ガラスの天井(2018.08.03)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント