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文化の根源はひとつ

世界のいろいろな文化をそれぞれの地域・国・民族が誇りに想って暮らしている。

そして、その文化とは何かと言えば、暮らしそのものではないのか。私たちの日々の暮らしが文化になり伝統となっているのだ。

その根源は、どうも文化発祥、人類発祥の地にあるようだ。

フェスティバル、お祭り、ファンクション、カルチャー、風習、慣習などをよく見ると、その地で創意工夫してあるが、もともとは祖先を懐かしむために伝えられたものを再現しているように想うのだ。

水祭りなんてインドにある。おみこしもインドなどのヒンズー教でみられる。彼らも練り歩く。神社のようなものもある。そういうものは、日本と文明発祥の地との間に形を変えて存在している。

鳥居も何とかストーンと言われるものに由来するように思える。検証していないので、はっきりはしないが、そういう想定とか仮想とか仮定とかいうものは、私たちの脳みその中の記憶感性とかいうものに刻まれているように想う。

文化がもし一つの根源なら、そこで派生した末端での変化は、はたして発展なのか、衰退なのか興味深いものがある。

地球の地殻変動で大きな文明がもし消滅し、なんら証拠がないとしたら、大海の底に眠っているのではないか。形のあるものは、自然消滅するように数億年という単位で動いているのだとしたら、今想像していうのは、その後のことになる。

果てしない昔、記録も何も証拠もないそんな時代がもしあったなら、そこが文明の大元なのだろう。

そして、そこに小学6年の女の子が「周りがみんな敵に見える、こんな社会は生きていても何もない・・・、・・・・、おとうさん、おかあさんごめんね・・・、さようなら」といってこの世から去っていく何か解決策が残されているのではないか。それは、私たちのこころの中に曖昧模糊として残されているのではないか。

やけどの跡がずっと消えないように、残るのではないか。文化とは、何かいろいろあってせつないものだと私は想った。

それでも、このもらった時間をいっぱいいっぱい使っていたいと私は想う。いくら若くても年よりでもそれは細胞が生きているのであって、なんら変わりはない。そんな細胞の奥にひそかに眠っている潜在的な文化もあるのだろうか。

私たちは、何度も何度も実は、この世の中に生まれて死んで、生まれてきているのではないか。だから、仏教とか宗教というあんな大きな容量の文明があるのではないか。たった一人の人間がこの短い一生、たぶん昔は30年とかいうものではなかったのかと思うが、そんな間でそんな仕事ができたのだろうか。

それとも才能、いや機能がまったく未来的だったのだろうか。俺たちにもそんな時代がくるのだろうか。そして、今は低次元の時代なのだろうか。

まあ文化の根源はひとつという推論に間違いはないだろう。

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