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スポーツの意義

なぜへたくそでも、プロになりたいという夢というか無茶なことを想うのだろうか。

絶対になれないものに憧れるなんて、馬鹿のようなものだ。でも、それは違う。ひとは目をつむればもう、自分の姿は見えないのだ。

頭の中で、どんな有名な選手にもなれる。どんなうまいプロにもどんなにたくましいファイターにもなれる。それは、夢なのだが、現実でもある。

わが身を託すのは、そういう世界の異才たちなのだ。だから、もうそこには、何もできない己は存在しない。自分でやる必要はないのだ。それらは、みな天才プロがやってくれるのだ。いつでも、そのマジックのような技をみれる。現実なのだ。

スポーツのプロはそんな一般大衆の願いをこころの支えにして、技を磨くのだ。だから、共同作業なのだ。かれらのあの天才的な能力にしても、そこに競い合う逸材たちの違いがあるのだ。あんなにすごいやつらにもそれ以上だと感じさせるやつがいるのだ。

どんどんと世代も変わる。過去の天才は、これからくるさらなる秀才たちにその技を超越される。道具の発達もある。

スポーツの意義ってなんだ。

なんなんだろうか。そう自問した。

私にとっては、不可能な夢だ。走る。飛ぶ。蹴る。打つ。守る。なんでも中の下だった。

鉄棒なんて、逆上がりができたのは、もう二十歳ぐらいのときだったろうか。悔しいなんていうものではない。走ると、ちょっとでおなかが痛くなる。胸が苦しくなる。そんなことが徐々に少なくなったのはやはり二十歳ぐらいになったときだった。

成長過程の差というのは、それぞれの子供にとっては、大人と赤ん坊のような違いを与えるのだ。成長のいい子供は、もう大人だ。まだ、50人中、前から4-5番目のおれは、中学の時のバスケットボールのこわさを肌に感じる。受けられっこないじゃないか。

スポーツって、だから差別のような気がする。ただ、ずんぐるむっくりのおれは、年上の兄弟にイジメかわいがられたせいか、オヤジがわざと相撲で負けてくれたりしてくれたせいかしらないが、それだけは強かった。というより、負けて泣くのが癪なのだ。

でも、ちびでは相撲取りにはなれないのだ。だめだ・・・。何もスポーツなんてできない。勝負ごとは、勝ちそうになると、期待と不安でいっぱいになる。緊張する。結果は・・・、わかっている。ビビってしまうのだ。やっぱ駄目だ・・・。

おれは、もう諦めた。スポーツのプロでやっていきたいなんてもとから無理なのだ。それに、将棋でもなんでも、とにかく負けたら悔しくてもう、それは回復できないような気になる。そんなメンタルな束縛から逃れたのはいつだっただろうか。

自信のあった受験にあっさりとうっちゃられたときだろう。やっぱ、努力しなければだめだ。いや、努力すれば、人並みにやれば、なんとかできる。自信だけで何もやらなければ結果はついてこない。だから、努力することで、何かが向上する。結果は同じでも、やることで力はつくのだ。

頭の中って変だよな。あんなへこたれたものが、ほんとは強いものになる。よわよわしいものが強く頑丈になるんだ。

いや、そこに多分スポーツの意義もあるのだ。負け惜しみではなく、負けることの大切さを知るには、スポーツっていいのだ。心を強くする。いくら才能があっても、まったくなくても、ひとつのスポーツを愛する気持ちは、天才でもボンクラでも変わりないのだ。

天才たちも、少しでもルールが変わると、それはボンクラのへたっぴになるのかもしれない。それなら、へたっぴのためのスポーツをお前がつくればいいじゃないか。とんでもないことだ。何もできないのは、もうわかっているのだ。

ただちょっと、いたずらに、そうなったらいいなと考えてみただけだ。そうんなんだ・・・。

スポーツの意義なんて、何もできないおれには関係のないことなのだ。でも、時には目をつむって、松井になったりしても、たまにはいいか・・・。それでいい・・・。そこにスポーツの意義がある・・・・のだ。そこにもスポーツの意義はあるのだ。私はそう考えている。

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