否定することの意味・・・
どんな時でも、まず否定する。
これはどうですか・・・・。いや、それはあまり・・・ない。
そんな受け答えが延々と続く情景を想像してみよう。
実は、みんな肯定することを制限されているのだ。だから、自分でこれはイエスだと思ってもまずノーというのだ。
これは日本語の問題だ。
でも、英語の場合、相手の質問が否定形なら答えも同様にノーが実は「ハイ、ソウデス」なのだ。だから、ちょっと戸惑うのだ。
いつもいつもノーと言えないニホンジンなんていうのは嘘っぱちだ。イエスということとその内容に対する答えとしての同意、不同意は異なるのだ。
もし、こころとからだの中でそんな戸惑いがあると、きっと混乱する。私は理解していてもそこにいる友達が理解していなければ、それはそれで仕方がない。否定する意味もわからなければそれはそれで仕方がない・・・。
でも、友達とは、そういう不一致の背景を何か共通のものにして、理解を深めようとしているのだということもわかる。何かを学ぶには、常にあらたな友を求める意味もそこにあるのだろうか。
否定とマイナスは似たような感覚を私たちに与えるようだ。でも、ちょっと考えるとなぜ否定があるのかがわかる。それは、肯定があるからだろう・・・なんていうと嗤われそうだ。
でも、そうだと私は考えている。嗤われることもしょっちゅうだから、もう気にもしない・・・なんていうことはない。そうここでは否定しておこうか・・・。なんの意味もないのだが・・・。
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