無力感と充実感がまじりあう・・・
絶望感を味わったことはあるかい。
もう何をやっても駄目だ。なぜおれなのだ。そんなこと考えられない。
そう想ったことはないか。
学校で教わったことに、ひとは社会の歯車だっていうのがある。
なぜそういうのかわからなかった。そのうち、人間ってちっぽけな虫けらと同じだと言っているのだと気付いた。いくら、夢をもち希望に胸を膨らませても、それは虫けらのようなものだというのだ。
でも、それで十分だ。私はそう考えている。虫けらだからこそ、このちっぽけな存在だからこそ、自由というものが何かを感じ取れるのだ。これが大きな存在の神様だったら、もう嫌で嫌で仕方がないだろう・・・と想うのだ。
そんなのは嫌だ。
ちっぽけな存在にも、いやちっぽけだと認識できるからこそ、その大切さを感じることができるのだ。
無力感・・・もいい。俺はなんども感じさせられた。どうせ・・・、おれなんか・・・。そういうことだ。
そして、充実感もある。こんなことが俺にもできるのだ。そんなこともある。
どっちかだけではだめだと気付くのはそんなときだ。落差が大きいほど、強い印象になって残る。もうどうしたらいいかわからない。おのれを責めるのではなく、他者に責任を転嫁してしまう。でも無力感はなくならない。他者も自分と同じであり、そこに違いはない。
まじりあうと山と谷が創られるから、そこで一息つくこともできる。
そんな想像の世界に俺たちは棲んでいるような気がする。絶望もしないで、その間を行き交っているのだ。まるで楽しんでいるようにも思える。
こころの中は宇宙よりも広いのだから、そのぐらいは隅っこでしかないようだ。からだの痛みだけが現実に引き戻してくれるのかも・・・。
だから、ほっぺをつねってみよう。ときどきは、現実に戻って、考えてみるとか、現実というものを体験してみることだ。
そうでないと、ひろいこころの中で迷子になってしまう。他者のこころに知らないうちに入り込んで帰れなくなったら、それは悲劇だ。なぜって、自分のこころがやはり一番いいからだ。無力感と充実感が両方あるのだから・・・・。
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