結果だけ知りたいスポーツ
スポーツのいいところは自分で体をうごかすことにある。
そんなことを言う奴は、あまりいない。
スポーツってプロがやるもので、結果だけを知っていれば、なんとか世の中についていけるものだという感じでしかなくなっている。
そんな疑問がある。
でも、それで本当にいいのだろうか。
なにかすべて実態のないものになってきていはしないだろうか。
宝くじも同じようなものではないか。お金を遊びの対象にした。賭けごととスポーツはまったく違うものかと想ったら、丁半の世界と同じく、勝敗がある。それはれっきとしたギャンブルになる。
そのうち、社会そのものがギャンブル化していくのではないか。偶然性という形が証明されれば、それでいい。そうなら、乱数表の世界でしかない。
結果だけしりたい。でも、プロの賭けごとはそこにハンディという別の要件をつけてコントロールしている。勝ちが負けになり、負けが勝ちになるなんておかしなものだ。いかさまというのではないのだろうが、ルール作りとか仕組み、たくらみに近いものがある。所詮、それは騙されているということなのだ。
一宿一飯の恩義に賭けごとの仕組みを創った任侠人がいたのだろうか。その人はなにを想ったのだろうか。かけごとの対象になるひとたちはお金のあるひとたちでなければならない。
しくみはそこにある。餌食になる条件がある。
結果だけの世界だ。お金はコントロールされて胴元に入る仕掛けだ。
ぱんとむちという仕組みだ。それはトラップなのだ。スポーツはすべて対象になる。選挙も同じだ。ハンディをどうするのか。過半数ということではなくその風向きしだいだということだろう。
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