相撲中継のこと
子供のころ、小学校の分校のテレビをみていた。相撲中継だ。
栃錦、若乃花だ。
私は栃錦のファンだった。なんともあの落ち着いた雰囲気とあまり、派手さのないところが好きだった。
相撲中継は、国民のほとんどが観る。観ると面白くなるのだ。あんな単純な競技が実はいろいろな技の塊であり、関節技なんかもある。世界の格闘技では強さからいうとトップクラスだ。
体力、知力、瞬発力ということでみても、その多面的な面白さはすぐに理解できる。とりこになる。そして、常人にはないものがある。それは生まれつきの才能だろうか。大きくて強い。重さは大きな戦力要素だ。ぶつかるとはねとばされるのだ。
だから素人相撲の選手がすごいのだ。
大相撲なんていうのは、だから夢の夢なのだ。やろうとしてもできないはるか遠くの存在なのだ。それは、東大にはいることなんか比べものにならないことだ。相撲が強くて、将棋が天才的なひとがいたら、それは間違いなく、総理大臣とか米国大統領に簡単になれる。そう私は信じている。
ニホンの国技としての文化でもある。
だから、相撲中継をいまさらなんやかんやと言わないが、できれば違う視点での判断があるのではないか。批判されたから、相撲取りの親方衆が自信をなくしてしまうような批判もある。どうもニホンというのは住みにくいところになったのではないか。
日のいずる国ではなくなったのだろうか。多様な社会構造の中には、やはり多面的な見方が必要なのだ。いろいろな意見があるが、中止する。理由は・・・。国民から視聴料をいただいて運営しているので、その民意に従うのだという説明だった。もちろん継続という声も多数あった。でも、中止を選んだ。
そんなことでいいのだろうか。参戦するかどうか、反対の意見もあるが、賛成の意見もある。だから第三次大戦に参加する・・・なんていうのだろうか。少数意見の尊重が民主主義の原則なら、それはどうするのだ。多数意見に同調しないと生きていけない国ニホンということなのだろうか。
こくみん自体がそうなりつつある。ちょっと評判が悪いと、ここはだめだから民主、そしてその親玉がだめだと辞めろとなり臆面もなくそれが辞めるのだ。なんという主張のないやつらばかりなのだ。
相撲中継で、すべてが変わるわけではないものの、なんともさみしい気がする。一芸に秀でている天才たちの相撲協会をもっとすぐれたものにしていくにはどうしたらいいのか。モンゴルに身売りするのか。世界相撲協会なんていう組織が株式会社で他の国にできていくのをだまって見過ごすのか。
にほんは300年間も鎖国をした国だ。だから、まあどんなことがあっても庶民はその暮らしを楽しんでいくに違いない。この国境のない社会で、いまさら国家論議なんていうのはないかもしれないが、相撲というスポーツの面白さは子供のころの負けた悔しさとか、勝った嬉しさとかがからだの感触でわかるのだ。つい、緊張してしまう仕切りなんていうのは、集中力の鍛錬には欠かせないのだ。
テレビで仕切りを50回観たら、たぶんその人の頭の血流はものすごく改善されているはずだ。血栓なんかできる余裕もないはずだ・・・。だから、インターネットとか別の方法でNHKにこだわる必要はないのだ。情報化社会での多面的な国民の関心をどう解決していくのか、簡単なことなのだが・・・。
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