偉大さの検証
偉人がいた。いっぱいいた。
世界偉人伝なんて読んだ。
図書館で借りる本では、頭に最初に入ってくるのは偉人伝だ。
どんな偉人を尊敬するか。
そう言われるとどうしようかとなってしまう。
リンカーンだろうか。ノーベルだろうか。ライト兄弟だろうか。伊能佐吉だろうか。高杉新作だろうか。ネールだろうか。ケネディなんていうのも偉人の範疇だろうか。ノーベル賞をもらった人たちは、世界偉人伝の仲間入りだろうか。
とするとアインシュタインなんていうのはどうなんだ。メンデルとか、進化論のひととか、ウォーレスもいるし、いっぱいいる。
日本の首相で偉人はだれか。
ノーベル賞では佐藤栄作か、田中角栄か、鳩山か・・・。いっぱいいるのだが、表裏一体でよくわからないのだ。いいところが多いと、悪口も多くいわれるらしい。だから、情報過多で判断できない。無罪でも有罪にされるなんていうこともあろうし、疑獄事件なんていうと、それは綱渡りの世界のようで、塀のあっちとこっちはどっちも繋がっていたりするらしいが、どっちへ落ちるかはもう諦めるしかない世界のようだ。
面倒をみる。政治家をひとり面倒見るのにどれだけかかるのだろうか。
そこに偉人という表現は合うだろうか。産業革命は何に貢献しているのかと言えば、人間の理解度をはるかに超えることへの挑戦のようであり、ブラックボックス化へと向かい、ついには破壊されてしまうのではないのか。すべてのことが分からなくなる。何が正義で何が悪なのだろうかとだれも考えもしない世界がすぐ目の前にきているのではないか。
とすると偉人の判定なんて個人レベルではできない。
個人は判断ができない。そんな世界がすぐそこに来ている。偉人の証明にはコンピューターと大規模な倫理観とか正義感とか、社会への貢献度とか、さまざまな分野での蓄積が必要なのだろうし、そして遺伝的な機能、ヒトとしての機能もその範疇に含まれるのではないか。だれのための偉人の検証かといえば、それは為政者のためのものでしかない。
子供たちがこうなりたいと想うようなひとたちがすべて偉人なのだと私は考えているが、そうはならないようだ。私にとっての偉人はおふくろであり、オヤジだ。今でもそう想う。たしかに生きていたのだ。
給食代を子供に持たせてやるのに、比較的裕福な家にお金を借りにいっていた。そこには今思えば、もう何かひととしての威厳があった。こどものために・・・生きているというような親たちだったのだ。どこの家でも同じような状況だったのだ。みんな貧しくて、そして品があった。今にきっと・・・。そういう意識がこの日本には充満していただろう。
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