すべては疑惑を逃れるために・・・
どうも幹事長を鳩山総理とともに辞職したのがいけなかったのではないだろうか。
院政を敷く。そういう状況から、シンボルたる総理とともに退いたのだ。その判断が甘かったのだ。世論は弱いものだけでなく、強そうで怖そうな近寄りがたいものに違和感を抱き、だれかの挑発に乗っかって、リンチに向かうことがある。
中国はまさにそういう大衆心理を恐れているのだ。
ここは日本だ。やはり、潔くいくことだ。悪いと想ったら、悪いことをしてしまったのなら、そこで謝りを入れることだ。罪を認めて謝る。問題はその罪の中身なのだ。一国の政治の院政を敷くヒトがそんな私利私欲に走るなんてだれも信用しないだろう。
実際そうではないだろう。だから、そこで何がわるいのかを国民大衆へ訴えるのがいいだろう。政治には金がいる。政治家には金がいる。活動してこの世の中を動かすには地盤と看板と鞄の中のお金が不可欠なのだ。
でも一度路頭に迷うと、それはなんにもないのだ。夫と別れた女性が子供を抱えて、役所へいったら、なんの支援も得られないのだ。制度があるといっても、そこに当てはまることは稀である。容易ではない。はぐれ者というレッテルをそこで意識するのだ。
サラリーマンから脱出してみたら、信用がまるでなくなる。銀行のカードも拒否される。ちゃんと働き続けても、辞めて好きなことをやろうとすると、そんな目に遭うのだ。だから、この世の中はチャレンジなんてしてはいけないのだ。
何かをやろうとしたら、そこで裸一貫になるという覚悟でなければならない。もし裕福なら、それはやめた方がいい。根性がないなら辞めるべきだ。大人しくサラリーマンでいるべきだ。
命が限られているとか、どうしても生きている間にそういうことをしたいという強い想いと覚悟があり、そのために長年準備していって初めてスタートに立てるかもしれないという程度だ。
政治家の小沢イチローはなぜ幹事長という職を辞したのか、私にはまったくわからない。強引な手法で周囲の議員さんたちを睥睨しているという雰囲気があり、鳩山首相は意のままに操り、その支配をいいようにしていた。だから、そこで手を打てばよかったのだ。
攻撃をかわして疑惑がなくなることはないのだ。自民党の体質、故田中角栄のロッキード事件のイメージがあり、その後継者としての位置づけにあったものが、政党をいくつか創り壊してきた経緯で、浮いたお金がどこへいくかとしたら、それは壊れた政党を継ぐものが新たなところへと移しているということだろう。
そのオリジンは変わらないと、変わっていないと、国民大衆は信じ切っているのだ。だから、顔を変えたのだろう。管総理は、そこでハタと迷ったのではないか。ハトヤマ総理が小沢幹事長とともに辞職した。世間マスコミの声に踊らされたのだ。オバマのシカトが利いたのだろうか。同盟国、アメリカに無視されたら、なんとも国内においても向ける顔がないのだ。ロン、ヤスなんていう仲もあったが、とてもそういうお膳立てもできなかったのだろう。官僚にそっぽを向かれたのだ。
それは、民主党内の策謀が渦巻いた結果のようにも見える。官僚という手足をもぎ取ったふりをして、おのれらの方へと権力が来るように仕向けたのではないのか。
疑惑を逃れるために、あがいた形跡がよくわかるのは、民主の代表選挙だった。なぜ辞めたばかりの幹事長が立候補するの・・・、空気が読めないなんていう状況ではなく、もうそれは疑惑を逃れる一番の方策だったからだ。でも、そうは問屋が卸さないのだ。
もっと強引に総理総裁になってしまえばよかったのではないか。でもそこで躊躇したのは、何だろうか。だれにでもある良心の呵責というやつかもしれない。
すべては疑惑をのがれるために・・・
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