競い合う心理の谷間にあるもの
ノーベル賞受賞者が発言した。もっと競争の場を教育で与えることが大事だと言っていた。
たしかにそうだ。賛成する。
そして、競争社会とは何か暖簾に腕押しのような世界でもある。同世代での競争というのは選抜ということだろうか。個々の競争者は自分の位置はわからない。だから、秤に乗せられるか乗るかは別にして、とにかくそこへいって量るという行動に参加しなければならない。
競い合いは、おのれの心理面での負担が大きい。
だから、私はノーベル科学者ではないが、競争は嫌いだ。自分勝手にやっている人間はろくなものにならないともいう。
でも得手不得手というものがある。
俺にはできないということがある。そして、それは俺にはこれらができる。あれもできる。あっちのあんなこともやってみたい。きっとできる。きっと面白いはずだ。そういうことがある。必ずある。
言葉ではなんとでも言える。現実に何かをしなければ死んでしまう。飯が食えなければ、どんなに口を上手に動かそうと食べ物は手にできない。飯を食う。そのためにヒトは競う。自分の好きなものとかそういうレベルではなく、白いご飯を食べたいということなのだ。そのレベルを維持していくには、そこにいかなければならないのだ。
その前に流れ弾で負傷してしまうこともある。どうする。弱者でしかない自分を初めてそこで認識したら、どうする。俺は、だめだ。なんの気力もない。俺はだめだ・・・。
そういう心理に他者が襲いかかる。この世でいきていくには、そういう攻撃をかわす技術を弱者なりに持つ必要がある。生きるという目的は、強者にも弱者にも共通のものだ。いつ弱者になるかわからないという恐怖を強者は無意識に感じている。でも、弱者はさらなるいじめにあい、この世に絶望する。
ゆがんだ競争意識がそういう心理を醸成する。へこたれるな。何度そう叫んでも、いいいなだ俺なんかどうせこの世の鼻つまみだkら・・・。
競い合う心理の谷間にはいろいろなものが見える。俺なんか・・・どうせ・・・ダメなやつでしかない・・・。それが、いつか俺がこの世の中で一番だ。俺がいなければだめだ。俺がいればあのときはもっといい成績を残せた。だめなやつがいっぱいいるからそうなるんだ。こんな風に私たちの心理の振れ幅は大きい。
弱者であり、ときに強者になる。
しんみりとうなだれた奴が、逆に自信満々で社会で活躍している。そんなギャップがある。そんな振れ幅は、たしかに小さなものであるという見方もできる。でも、その心理にはまるとなかなかそこから自力で這い出すのは困難だ。
這い上がろうとすると、また蹴落とされるのだ。だれも後押しなんてしない。自分の下にいる奴らも状況は同じだ。上にいるやつらも同じだ。おれは下にいる奴らに後押しされなくとも、上にいる奴の尻を押す力と余裕があるだろうか。ないだろう。そんなものがあれば、俺がもう這い上がっているはずだ。
いつまで、この谷間で過ごすのか。ここで終わりか。
それなら、その谷間をすみかにすればいい。そこの空間を人間らしい社会に変えていけばいいではないか。
それも一つの方法だ。でも自分のためにそうすることは気力がわかないだろう。だから、同じ心理で苦しんでいる同朋がどれだけいるか考えよう。いっぱいいるのだ。健常者というけれど、みんな当たり前にそうなのだ。異常なんて本来はない。
この世の中に生まれた時の状況と環境によって、ほんの些細なナノパーセントぐらいの差がそこでは大きくなっていると見えるだけなのだ。
競い合う心理には、ヒトが生きる上でのカギがある。戦争も平和も、いじめの心理、いじめる側といじめられる者の関係は結構複雑だ。攻撃は最大の防御みたいな感覚もある。でも私の場合、いじめられるのはお断りだった。それでも来るなら、厳しく対峙するのみだと強く決意していた。甘くみると、やられるのはそっちだ。そうも思っていたようだ。とにかく「ヤラタマ」「マケタマ」だったように想う。必死だった。
そんな競争社会が、やはり大事なのだ。
これからの国際社会においてグローバルに生きるには、どうしたらいいのだろうか。もちろん心理的に幼稚なところを見透かされてもいいではないか。基本なのだからいいのだ。幼稚なように見えるが実は本質をつかんでいることが多いのは、情報過多の時代において何が重要かを判断するには、原点に帰るということのように私は考えている。基本を甘く見ると、やけどをする。幼児をないがしろにすると、しっぺ返しを受けるのは、その心理的な未熟さの証明によってなされるだろう。幼児よりも未熟になった大人の頭は老化現象の症状でしかない。
いじめとともに、ずるがしこいという性質もたしかに関係している。なんで、もっと大人たることができないのか中国人といいたい。小人閑居して不善をなすというではないか。大人たる中国の首相が日本の小人たる首相をシカトした。あの中間にそれを諭す韓国の大統領がいた。あんたら握手を両手でしなさいよと言っている映像が言葉ではなく、そのしぐさから明らかだった。
珍しいものを観た気がする。大人もおのれの人気評判を気にするのだと中国四千年の歴史でもそうだったのかと改めて想った。わが総理は、一度出した右手をバツの悪そうに、仕方ないかという表情で引き返させた。
まあ、ああいう行為はげんこつで殴るとか、刀で切り返すとか決闘を申し込むという事態に匹敵するだろう。心理的には、その通りだ。
おめおめと引き返す侮辱に日本は冷静に情勢を見守るというコメントを出せる政府までに成長した。国民世論が許さない。他国の首脳に頭を下げる姿を国民大衆に見せるのはご法度と考えるお国柄もあるし、日本人はそういう典型的な大衆心理をもっている国だったのだ。
国民が許す。客観的に物事を観る。そんなすごく冷静な国民世論とそういう社会の上で判断する政府首脳がいる国は珍しい。まさに米国に感謝しなければならないところではないだろうか。国力ではない。国民大衆の個々の力がそのコミュニティの能力を決めていく時代がそこに来ている。
だから競い合う社会も、ひとつかのノーベル科学者がいうものとは違う意味で、これから不可欠なものだと私は考えている。自由な選択の中の競争という位置づけだ。
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