法相辞任の背景
雪だるま式に辞任する内閣の姿をみんなが思い浮かべている。
言葉尻を捕まえるではなく、そうすべきというレールに乗っかってしまったようだ。法律をつかさどる責任者である法務大臣のことばとは、何だろうか。
官僚支配を崩す。それが間違いだ。政治家も官僚も同じ人間だから、同種のものがいる。意地悪いひともいい人もどっちにもいる。陥れるというのは、わからないように仕込むことだろう。偽善者という言葉がしっかりと示すような行動が、うわべだけ取り繕って、仕掛けられている。
それを拒否すると、何もできない。手足をもぎ取られる。政治家は一般的にある一つの専門家かもしれないが、全般をわかっているとは言えない雑多な集団である。そこで何ができるかは、国家の方針を決めることであろう。でも、些細なこともすべて責任はトップにある。
そこで、情報が中途半端になる。政権が長く続いているなら、そこにいろいろな情報の蓄積がある。それらが保険となって公務員もある程度の行動範囲がわかるだろう。でも、官僚支配からの脱却とか、常にワルものとされて挑戦的にいじめの対象になってしまう構図では、やることと言えば、次期政権でも継続できるような準備ということだろうか。
実力者というべき、そして国家の宝物というべき試練と経験を積んできた次官という重要な職がまったく無意味な存在にされたことで、優秀な公務員の気概を削いだのだ。若手官僚の多くは独立しているという現実がある。そこに次官を目指す切磋琢磨がなくなったから、戦いの場がないあいまいでゆるい職場では、満足を与えることはできないだろう。
とすると、内部から崩壊していく。巨大組織も個々のひとりひとりがやっている仕事は、それぞれに重要なものだ。それらが、意味を失うのは、政治の責任である。
できないこと、できること、少なくとも政治の手腕という仕組みは政党が長年をかけてノウハウを積み重ねたものだ。そういう手綱がムチという無知に変化したのでは、数年で制御できるわけはない。
法相辞任の背景には、政権与党の甘さがある。もっと政治家は謙虚になる必要がある。公務員は公僕として国民の信頼をもともと得ているのだ。知り合いの多くは、公務員がいるはずだ。それらを否定して、何かおかしな雰囲気があるのが、現状の空気だろう。
民主政権とは、左翼主義でも古い時代の遺産のような、いや遺跡のような、無意味なものかもしれないという懸念がある。暴力主義なんて普通のひとにはわからないが、共産主義者の間では使われていたらしいのだ。
右翼も左翼も国際的な流れの中で、エアーポケットに押し込まれたのではないか。
法相辞任の裏には、何か期待外れの民主政権の素顔があるのではないか。素人集団という不安が消えないのは、官僚の言葉になんら抵抗しない国会の陥穽があるのではないか。周りはすべて敵と思えといい、周りはすべて協力者だと想うことは自由だ。そういうことを政治的にコントロールするのがプロではないのか。
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