既存報道システムの役割の低下が進む・・・
NHKよりもグーグルとかユーチューブだ。
これは、マスコミへの情報提供に関する流れだ。
信頼性が多くの媒体を経るよりも、直接、発表公表できるところが特徴なのだ。
確かに倫理の問題、ヒトとしての責務の問題、そして社会人としての義務の問題がある。公務員にはその守秘義務があるし、会社員にも属する機関を構成するメンバーとしての守秘義務がある。
公益のために何をなすか。何ができるかを個人として考えた場合、難しいものが立ちはだかる。それは、従来、報道の自由が叫ばれ、報道に携わるものの公正な立場が大きく扱われていた。でも、最近は情報がそのまま公表されるには、しがらみがあり、NHKという公共放送でも政府に直結した機関であることから、その報道自由の信頼性には、特殊な人間関係など、権力との癒着などもあろうし、個人的な政治家とのつながりなど・・・、もろもろの制約があるのだ。
だから、そこで情報は握りつぶされたり、とんでもないということで、その時点でお縄になるなんていうこともある。
この社会で正義を求めるときに警察に駆け込み訴えるのが、通常のことだろう。そして、それはとてつもなく大きな組織なのだ。窓口を務める警官がいくら優秀でも、上司の承認を得たり、社会情勢を判断していくというより、その警察官としての義務とマニュアルに沿った対応をしなければならない。
そこで、不正が一般的に政権に影響を及ぼすような事件については、判断は決まる。体制に逆行するかどうかという公安事件になるのだ。
そういうシステムが浄化という視点で見ると、すごく効率の悪いものに見えることになる。政権を維持することが国家の安全に繋がるという考え方は謝りではないものの、その硬直性は決して褒められるものではない。
早急に、その変化のバランスを察知して、どうあるべきかを見定めていく必要がある。外交も同じではないか。弱腰だと政権の評価が下がるというのは、どの政権でも表向きは問題視しないと言っているが、実態はその評価点が報道に乗り、ちょっと評判がわるいという噂や風評が立つと、国民大衆の一人である私たちは、そんなものなら、当面支持を留保しようとか、考え直すとかという頭になるだろう。
でも、そこに政権のリーダーたちが、自由に行動し決断できる下地はすでにある。公益ということであり、多分月面ぐらいの位置から、この地球上の動きを観るような考え方で大局的に判断することでよいのだというコンセンサスが大事だと私は考えている。
そのためには月日がかかる。戦後生まれの私たち世代が年齢を重ねて、還暦を過ぎ、そしてこの世の中のことを考えるとき、教育制度のスゴサがある。民主主義というものを疑わない世代である。そういう教育を天皇陛下という言葉で背筋を伸ばすことが身体にしみついた世代との差がわかる。
だから、教育が一番大事だ。それも自由な発想で物事を見つめて考えることのできる頭を育てることではないか。
日本の戦前でも、庶民の考えは基本的に同じだった。ただ、日本国民として生まれてきたからには、そのシステムに従う義務を課されていたのだ。そこには同じ流れの自由を尊重する精神が庶民には流れていたのだと、私は考えている。
パラダイムがシフトする・・・・。そこを既存の優秀な報道にかかわる頭脳がどう考えるかにカギがある。
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