多様性というシンプルさ・・・
もしもひとが多様性をもっていたら・・・。
どんなことかというと、魚になったり、ライオンになったり、競走馬になったり、キリンとか象とかサイとかにもなり、鳥にもなる・・・ということだ。
でも、おれは面倒くさいとしか思わないのだ。
多様性ってなんだ。
ヒトは多様なのか。
ひとはヒトでしかない。そして、ひとはヒトでもある・・・とも言えそうだ。
時に、ひとの中には神になるヒトもいるのだから、その精神性は多様なのかもしれない。
とってもおれにはできない。人前で私は神・・・といいながら、プライベートでは彼女に馬鹿にされている日常・・・なんていうのがあるのではないか。
エリートといわれながらも、己の才能は単なるシンプルな繰り返しにしかないのであり、まったく想像性はないし想像的なことは何も期待できないと自分ではしっかり理解している。みんなそうではないのか。
社会の客観的な平均レベルを超える能力をどっかでみんな持っている。
そういう評価対象にならない才能もある。
同じ評価スケールでもプラスとマイナスがある。どっちがプラスでどっちがマイナスか、はたしてプラスの逆方向がマイナスなのかどうか怪しいものだ。スケールはどっかで曲線を描いたり、今のスケールは線だが、面だったり局面だったり、途中で途切れて崖っぷちになっていたりすることもあるだろう。
多様性とはシンプルさのことではあるまいか。
当面、ひとのスケールはできるできないの直線であろう。でも、いつかそれはもっとシンプルになるのではないか。つまり点のかたまりとしてもっとシンプルになる。
それぞれの点は私達一人ひとりである。
そこには、プラス方向もマイナス方向もない。
あるのは、ひとという存在である。
評価は唯一無二のものに対してはありえない。
だからとてもシンプルだ。
みんなひとりひとりが、その人生に最高の栄誉を与えられているのだ。長くても、短くてもそこにはシンプルに生きていたという喜びがある。
それで十分だ。
私はそう想う。能力とか才能をどうして比較していくのだろうか。あるものはもっとシンプルのはずだ。成果もそれは、社会として必要なものであり、より大切なことは、その比較評価にはない。
好き嫌いはだめというが、社会の評価にくらべたら、まだまだ大きな余裕があり、広大なスペースがそこに存在している。だから、みんなどんなひとでも生きてきたということ、いきているということを一瞬でも感じられるのだ。
この世の中は多様性というシンプルさをもっているのだ。
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