ときに風邪をひいて塞ぎこむ・・・
やはり自分の好きなことをやることが、大切だ。
人生は一回限りのものだ。
だから、一層大事なことなのだ。
風邪をひく。仕事がなくてうらやましいとは思わない。早く戻らねば、どうしてもできるだけ早く復帰しなければ・・・とこころは鬼のようになる。
言葉がでれば仕事はできる。せきこまなければ電話での応対も普通にできる。電話先の相手に気取られることはない。
お前はいつも休んでいる虚弱体質だな・・・なんてもし想われたら、それは大きな損失だ。だから、もう一瞬でも早く、戻るのだ・・・。それしか風邪をひいたときの頭の中にはないのだ。
なんと単純なのだ。
これをひきこもり回復支援プログラムに応用できないだろうか。
なんともない健常者、一般的な労働者でも、一度でも風邪とか体調不良で休むと、そこの方が居心地がいいとかいうのではなくとも、楽だ。安易になれば、もうそのまま仕事なんてしたくないし、職場の意地悪な視線はどんな奴でも感じるだろう。悪意ではなくとも、私たち自身のこころの変化でそういう雰囲気が襲いかかってくる。みんなそうだ。
いくら、にこにこしていても、顔で笑っても、こころにはそういう変化が現れるものだ。そんなときどうする。プラス、マイナスで考えをめぐらし、最終的にプラスにして、そのひきこもった状況を蹴散らすのだ。
エイヤッ・・・。ヨッシャ・・・。なんでもいい。
そんな掛け声ひとつで自分で自分を奮起させることができる。でも、他人がやるのは困難だ。
だれでも時には風邪をひいて塞ぎこむのだ。
だれでも時には、普通に戻って、塞ぎから離れるのだ。でも、どっちが安易か、どっちがいやかという選択の中に、おれはこういうことが好きだ、いや嫌いだというトッピングで決まるのだ。分水嶺のようなものだ。
それは母親の笑顔であり、喜ぶ顔だ。
でも、それでもどうしようもないこともある。うまれつき、そういうことで、そういう条件でそういう契約で(だれとの契約かはしらない・・・、神様だろうか?)この世にいるのかもしれない。社会が必要としているのかもしれない存在は多様なものだ。
逆説的にいえば、すべての物事に対になることが必要なのだ。
才能あふれるものとそうでないもの。優秀なものとそうでないもの。
バカとそうでないもの。アホとそうでないもの。
親孝行なこどもとそうでないものたち。子供想いな親たちとそうでないもの。
いろいろだ。
ときには、マイナスの領域へいこう。ときにはプラスの領域へいこう。多様に生きよう。そしてそこでみんなが悩み苦しみ、そして笑顔だったり、落ち込んだり、顔中をくしゃくしゃにしながら歓喜したり、憎悪に魂を凍らしたりしているこの現実の社会を見ようではないか。
そこで、どうする。
相談しよう。話をしよう。人生とかひととか、そしてひとのこころとからだについて不思議さを想うことではないか。この不思議なおのれという存在にいつも私はおののいているのだ。でも、不思議なことは、興味を募り、この社会でどんなことをしようかといつも迷っている。
それは、楽しいという以外の何物でもない・・・。
ときには、風邪でもひいてこんな不思議さを想うのも悪くはないはずだ。答えがあるはずだから・・・。
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