人の理性は人工知能に勝るか
ヒトの理性は、人工的なコンピューター知能にとって未来永劫に勝利はないのだろうか。
勝敗というと、そこにルールが必要になるが、ヒトの理性はそういうカテゴリーのものではないと言えないだろうか。決して負け惜しみではなく、そういう風にこたえたいものだ。
でも、今のままでいくと、自由とか民主国家ということで考えれば、コンピューターでヒトの揺らぎという心理的な変化をも条件として与えれば、それは同じレベルになるのではないだろうか。
ただ、ヒトの場合、立場というものでモノをいうので、微妙なところもある。政治家としてあなたはヒトを理由もなく殺すことはいいと思いますか?なんていう問いには、だれでもノーと答えるだろう。
しかし、そこで政治家は理由をつけてヒトを殺すことの正当性を論じるだろう。なぜ悪人は殺さなければいけないのか・・・、社会の秩序を保ち、子供たちの未来への規律をしっかりと保持した世の中にするため・・・とかいうのだろうか。
こういう問題で、人工知能がアドバンテージを持つのは、そのシミュレーションの多さとかデータとしての症例の多さであろうか。類例がたくさんあれば説得力もある。だから、説得するには情報が必要になる。ヒトはただ、多様な背景をもっているので、すべてを説得するには気心とかも影響するだろう。
そういう機微がわかるのか。いや、多分すぐにそのレベルには到達するだろう。だって、ヒトの類例はひとが創るのだから、すべて可能なわけだ。
でも、何かこれだけは無理だ・・・というものがないだろうか。
ヒトはときに間違いを起こし、勘違いをするということだろうか。ここに人工知能と一番異なる特徴があるのではないか。物事を忘れるというのも大きな特徴であろう。
そして、時に新たな発想、発見をするということだろうか。予期せぬときに、すっとでてくる不思議なアイデアとでも言えばいいだろうか。そういう偶然の産物を生むところは、ヒトの特徴であろう。
でも、なんとも頼りないところが、実に人間らしいということなのだろうか。そして、そういう不甲斐なさが実はヒトの強さとか誠実さとかを生みだしているということではないのか。
碁盤の目のように整列したところに曲線はないし、滑らかな乱れた線もないだろう。ヒトはそういうものの配下で仕事をすることになるのだが、それで順位がどうのこうのという支配と被支配の関係ではないのだということを誤解しそうで怖いこともある。要は、できないことを人工知能で補うことがヒトには可能であるということだ。
同様にヒトの理性で人工知能に知恵を授かるようにプログラムを組むということだろうか。統制はどうする?
人工知能がデモを企んだ時にどうする。
人工知能が独自の案を主張して、権力を要求するとき、建設機材とか軍用兵器を用いて暴力に訴えて攻撃してその主張を通そうとしてきたらどうする。
降参するしかないだろう・・・。
そして、世の中は変わる。ヒトの支配しない人工知能の支配する社会、世界へと移るのだろうか。ヒトの自由はどうなるのだろうか。
不安は尽きない。
人工知能は、危険な宇宙探検などのリスクを伴う仕事や、戦場での地雷の除去とか、デモの排除にヒトを使うだろう。生産性を上げるために、徹底した消費エネルギー管理を行い、業務以外は無駄なエネルギーを使うことは犯罪となるかもしれない。
CO2の排出しない新型のヒトでないとアナログと地デジの関係のように排除されるのではないか。消化器官と循環器官、そして筋肉などの組織も効率的で省エネ型に転換するのだろう。頭脳に関しても、昔の古いヒトの高エネルギー消費は犯罪になるので規制の対象になる・・・。
かつてモノが大量生産方式、大量廃棄方式で流通したように、ヒトもまた人工知能の支配する世界では、遺伝子操作で改良(改悪)が繰り返されていくだろう。一握りの昔のままの遺伝子を持つ子孫がどこかの研究所とか試験センターで研究材料として保存されているのであろうか。
ヒューマンエラーというヒトの普遍性が、そういう時代を生む必然性をはらんでいるのだというのは正しいことだろう。
ということは、そのレベルを超えた精神的な分野でのヒトの特徴をかけがえのないものとして人類が認めることが必要のようだ。勝敗ではないもの。そこに価値を求めるのでないといけない。
もっとも人類は競争での勝敗を楽しむのだが、そういうこととは無縁の芸術文化ももっているのだ。感性というものの重要性が、つまりは技術的・科学的なヒューマンエラーと対峙するところにあるのではないのか。
これからの世界を確かにイスラムの国家が教えているのかもしれない。文明の発祥地である中東アラブにある宗教は情報とか庶民の知恵と暮らしがそこで梗塞したら、その統治為政者は壊死するということを教えているのかも知れない。
ある時期、ヒトの持つ思想が世の中を変えると権力者は恐れ懸念してその取り締まりに躍起になったという。今、その思想は情報と名を変えてICTの光ラインの中で踊っているのかもしれない。
こう考えると、やはりすべては、この間違いの多いヒトの頭の中に危惧されるものがあり、将来の夢とか希望とかも、同じ頭の細胞に生きているということのようだ。
ひとの理性は、どこまでも失われることはないだろう。それは、こんな不思議なものは、人工知能で解析はできても作り上げることはまだまだであり、利活用した方が得策さという結論が簡単にでることだろう。
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