にわかコメンテーター
大相撲。
にわか批評家がおおい。
もともとそんなことは、わかっていたじゃないか・・・となんの検証もなしにいう。
くだらない・・・、もともと興行なのだから・・・、なんでもありだ・・・とかともいう。
政治の世界、ゼネコンの世界、やくざの世界、エリートの世界、財界、庶民大衆の世界、貧乏人の暮らし、大金持ちの生活、などなど・・・。この社会は格差がいっぱい存在している。だれもが、しらないほかの世界の問題をテーマにけなしあう。
政治家は、常に政権奪還のための打倒しか考えない。国民という存在はそこにはない。みんな目先のことしか考えない。
1400年近い歴史をもつ大相撲。
それは神がかり的な強さに打裏付けられているのだと私は想う。だから、だれが何を言おうとも、そこには数年後の横綱を目指してか細い身体の天才が集まるのだ。あと2年、3年先は横綱になる才能がそこにはいる。
関取は話下手、口下手でインタビューなんて「うぅー、あぁー、はいぃー」とその体格とは似てもいない受け答えのようだった。みんな郷土の英雄を夢見て土俵に上がる。そこには貧乏なんて苦にしない大衆がいて、ひび農作業に従事し、家族の腹を満たすことだけを考えていた。そういう中での郷土の英雄たちがいたのだ。
にわかコメンテーターの相撲をみたこともない、興味もないし、関心もないがという前置きでの「相撲界の腐敗は目が当てられない」とかいう異口同音の批評が鼻につくのだ。
そうではない。
この世の中には、いろんな奴らがいて、その中で悪いところ、いいところを併せ持っているのだ。外面のいいやつは、いろいろとしがらみを持つのだが、懸命にやっている関取たちがほとんど99.999%だろう。
そんなこんなで場所を中止する決定があった。残念だ。取り組みのTV報道の中止ではないところに大きなものがあることは、私にもわかる。でも、これが日本の体質ではないのか。清濁併せのむことで、そのアウトプットはどうなのか。社会が秩序をもって運営されることにその目標をおいているのではなかったのか。
にわかコメンテーターは、数年後にその「即時廃止論」とかを発言したひとたちの言動への責任を問うことになると私は想うのだ。決して廃止してはいけない。もちろんなくなりはしない。だが、あまりにも極端な協会幹部への批判と責任転嫁請求はおかしな結論を誘導することにもなる。
どう日本国民が判断するのか。一人ひとりが、大衆という視点で考えてみる必要がある。そこにはただ単になくすという結論は、まったく見当たらないことに気付くだろう。
どうするか。みんなで国民大衆の目で考えよう。
世界の大相撲への飛躍がそこにあるのだ。日本文化のひとつをどうやって維持し発展させるか。それは日本政府の今後をうらなうものともなる。
ただただ心配なのは、GDP3位とかいうことで、自信をなくしている政府の姿勢であり、リーダーたちの内部闘争、国際的な信頼の薄らぎが影を否応なく落としてきていることだ。でも、そんなことで本当の自信喪失を招く自虐的な振る舞いはまったく不要だ。
にわかコメンテーターは、日本古来のものではない。そういうものを誠実さで撃退しよう。強い意志で宇宙(ソラ)をみつめて歩いていこうではないか。
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