解放・・・
何から解放したらいいのか。
何に制約されているのか。
政治体制に庶民は縛られているのだ。
だれが選んだ仕組みなのか。
公平な社会を築くことは、だれも異論はないはずだ。みんな均等に財産を共有することで繁栄し生活を裕福にしていくという思想が、いわゆる共産主義であり、社会主義であると私も思う。
そして、その信望者は、公平でない世襲なんかはありえないと考えている。にもかかわらず、より良い社会を目指す政治体制の国家で独裁がまかり通るのはなぜだろうか。他人のモノはだれのものかと問えば、それはおれのモノと答えるらしい。そしておれのモノはおれのものだという。
でも、みんなのものだったら、だれも大切にしないというこの人類の原則があることを忘れているのだ。自分の責任に帰さないものは、どうでもいい・・・。そういうことがある。ふと思うに私も同じだ。
公衆便所が汚れていても、自分で掃除することはしない。それは、公衆のものだから、その責任者がやるべきものだと考えているからだ。これは、必要なこと以外には手をださないという鉄則がこの社会にあるからだと私は考えている。
日常、公道のゴミ拾いをしている人がいた。そして、もう一人、その隣で同じことをしている人がいた。
私は、この社会にはいい人がいっぱいいると考えた途端に、その一人がもう一人を咎めているではないか・・・。
「なぜ、私のやっているところのゴミを拾うんですか。バカにするんじゃないよ。」
何かそんな感じだった。同じ想いでおなじような活動をしていても、そこに意思疎通はないのだ。逆にライバル心のようなものがおこり、腹がたったのだろうか。
世界的な解放の波が中東アラブ諸国に訪れているが、どうなのだろうか。単なる行動パターンが同じであるだけではないのか。
そこには何も生まれる要素がないのではないのか。独裁という国家が今も存在する理由はそんな簡単なところにあるのか。それだけ出口は遠いということだろうか。独裁国家が世界を牽引するなら、それは覇権の徹底的な遂行であり、独裁的な仕組みの構築でしかない。
恐喝とか、恫喝とか、脅迫とか、選択のない前提条件の強制とか、他国への内政干渉はやるべきで自国への抗議は拒否とか、貧富格差の拡大の推奨とか、富裕層のさらなる拡大とか、軍事強国とか・・・・。
どうも方向はちがうのではないか。お金がまわるようになったら、途端に態度を変えていく大国もある。じっと、力がつくまでは我慢し、あるところで首根っこを押さえていくことでしか国民大衆の動きを制御できない不穏な国内情勢がそんな背景にあるのだろう。
解放・・・。以前の解放とは違う、もっと接触の多い解放という政策を国際的に推し進めていく必要があるのではないだろうか。
« 口車に乗るとは・・・ | トップページ | 杞憂(きゆう) »
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- ドイツ首相の来日と世界情勢(2019.02.04)
- おかめごかし(2019.02.02)
- もしもアジアが自分の住む地域の話だったら、絶対嫌だ・・・(2019.01.07)
- 復路はどうなるか・・・(2019.01.02)
- 首脳会議の常連(2018.11.14)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント