つらい誘惑の罠
だれでも一度や二度は見るのが、この罠だ。
わからないときに、それは私のような落ちこぼれでも、あなたやあなたの友人のような天才でも同じであろうか。百点でも10点でも、少しでも良い点数をとりたい。そこで、誘惑があるのだ。
カンニング。
昔から、カンニングのテクニックとかいうものは学習雑誌にも載っていた。先輩談なんていうものもあったように思う。
何よりも、もしわからないときに天の恵みとかスーパーマンとか、神様とかが現れて答えを指示してくれたら・・・どんなにいいだろうかと想ったりしたものだ。そして、そんな無理だ・・・と現実に帰ってくるのだ。
トライする。そこに意味がある。
勉強する。そこに人生の重要な意味がある。
困ったときにどうするか。そういう知恵を自分で探すことができるかどうか。それが人生とか社会の課題を見つけたり、ぶち当たったりしたときに解決する力になるのだ。
一番うれしいのは、自分の足で歩くこと、手で文章とか、絵とか、図面とかを作り上げてそのコアになるものを探す努力をして糸口を見つけ出そうとする瞬間に思うところのこころの勇気があるかないかを、自分で感じたときではないのか。
どうなるかわからない・・・。これが現実だ。
でも、みんな大きな問題や、より困難な課題にぶち当たっているときが、一番輝くのだ。そこでへこたれても、こころの中はエネルギーでみなぎっているのだ。ノウハウはない。ひとつひとつの問題をクリアすることなのだ。一歩一歩あるくことで、その先にあるものが、その都度見えてくることが、たまにあるのだ・・・・。
だから、希望を捨てないのだ。
周りにはもっともっとできのいい人たちがいるのは知っている。でも、私は自分のやりたいことについてはしっかりと地道にやることでだれにも負けはしないというか、もともとそういうたぐいの競争ではないし、そういうことが嫌いなので、自分で勝手に決めているのだ。
好きなことを存分にやるという・・・ことをだ。
だから、点数とか他者の評価とかがよくなくても、自分の目標やその時々に目的にかなうことなら、そのやり方は自分で切り開くことができる。いいではないか・・・。企業とか大学の試験に落ちても、いいではないか。他者より劣っていてもいいではないか。
ひとつひとつやることが、実は楽しいことなのだ。自分の足で自分の人生を切り開くことが、どんなつまらないと他者が考えるような人生でも、おのれのものはおのれのものなのだ。
カンニングもできるやつらはうらやましい。でも、おれは嫌だ。
納得するまで悔いるべきだ。何日でも何週間でも何年でも、悔いるべきだ。それは、他人が甘事をいって許すとかろういうことではないのだ。
試験なんて、落ちても内臓破裂を起こすものではないから、そんな変な手をつかってやるような価値はないのだ。ただ、時間がどうのこうのということはわかるような気がする。成長期に手につかない勉強はだれしも経験している。どうして・・・焦るのだ・・・。
でも、それは出来ないのは、いろいろな条件の結果であり、やれなかったことはできないのだ・・・。
だが、冷静に考えようではないか。
一番楽しい人生とはなんだ。自分の手作りの人生だ。そのためには、気付くときがくるのだ。その時に、やるべきことをやって試験にも臨むのだ。ちょっと上がることもあるし、実力がでないこともある。それは単なる馴れでしかないのだ。
ぐっと緊張すること、今までにない最高の緊張とかあがりを経験するように仕向けることで、試験なんて大したことではなくなるのだ・・・。
カンニングっていうのは、高級テクニックが必要なのだろう。
つらい誘惑の罠でしかないのだ。やくざだったら、とばくだったら、指を落とされるのだ。たったそれだけのことだ・・・。指ではなく悪魔にこころを売るということの方がもっと恐ろしいものだと、私は想うのだ。
どう生きるかについての答えはない。カンニングもできない。そういう課題を背負ったようだ・・・。しっかりと向き合うことだ・・・。ひとつのことから、それは成功でも過ちでもなんでも、自分の行動とか経験なら、そこから学びを得ていくことができると私は考えている。
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