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発展という考え方のパラドックス

らせん状にこの社会は発展していくという妄想がある。

だれもが疑わなかったものだ。

すくなくとも、会社とか企業組織でモノをいうには、必ずこの前提が必要だった。でも、本当は違うのだ。

ひとの成長を考えよう。ひとは確かに成長する。でも、ある程度で止まるのだ。

そして驚愕することは、しっかりと細胞の老化という現象をDNAが保有していてその終焉をきっちりと守っているのだ。人類の成長とはまさにひとの生命が持続することであり、個体としてのヒトのいのちではないのだ。

細胞は分裂すると傷ができて劣化するのだという。だかrあ、永久の生命を細胞に与えると人類はそこで劣化して終わることになるのだというのだ。だから、個人のいのちは限界があるのだと・・・。

経済はこういうひとの生命のメカニズムと同様ではないだろうか。いくら、発展を続けても、そこに限界があるのではないか。なんのために無限に成長し、発展を続ける意味があるのだろうか。

そんなものはない。

とすると、たとえば経済というものを人間の生命とか、人類にたとえたら、やはり同じになる。つまり一国のというか、ひとつの単位としての経済は永遠にらせん状でもなんでも成長を続けることは出来ないのだ。

だから、どこかにその経済成長のノウハウを移転し、経済体としての発展を持続させていく必要があるのだ。発展というよりも、持続するということであろうか。ひとの生活を持続させるための経済活動なのだから、それでいいのである。

つまり、経済において細胞の劣化を起こすのは自然の破壊力しかないのではないだろうか。この地球上にはいろいろな生活共同体としての国家が散在しているのだ。決して一か所ではない。

だから、人類も経済活動もひとつの自然災害で滅びることはないのだ。もちろんひとつひとつの個別な生命や国家の衰亡は涙なくしては語れないものだが、それがある意味での原理かもしれない。

人間がいくら英知を絞っても、天変地異はなくならない。

だから、そこにはへこたれないというDNAがあるのではないか。いくら長くとも、そこでまた再生する経済の立役者となるひとという主役が、だから要るのではないのか。

発展という考え方には、なにかパラドックスがあるようだ・・・。

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