泥舟に乗るという常識が大切だ・・・
国民の信頼を得るには、泥舟に乗るという姿勢が大事だ。
だれももう沈没するような舟には乗らないというが、そんなことで選挙の票は集まらないだろう。いつも日和見であるのは、永久に評論家でしかない。それも三流のものだ。
だれも見向きもしなくなる。代議士という名称が泣くだろう。国民の代わりに議論をする先生という定義に当てはまらなくなる。
今、苦しい35キロ過ぎのマラソンにたとえてみよう。
みんな応援している。苦しいのはわかるし、そこで足腰が動かないという状況なのもわかる。でも、今、そこで走っているひとにしかできないことがある。
それは走り続けてゴールを目指し、よりよい成績を残すことだ。そのためには、今そこで泥舟にのって苦しんでいるあなたちしかいないのだ。
次のレースで頑張るという逃げではなんにもならない。今、あなたが頑張るのだ。
だから、マスコミが泥舟といおうが、もう来ないかもしれない政権という船が泥舟だといわれても、それはれっきとした国民が選んだ船なのだから、それでいいのだ。せっかく与えられた船を泥舟で沈没寸前だと言われておののいていいのだろうか。
しっかりと泥の舟をもとの国民の信頼を得た船に戻していけばいいのだ。ここで逃げてはもう二度と与党にはなれないだろう。そして野党も政権を手にすると思ったらお間違いである。
足元を見る。なんともここ数十年の間に、なんども行われた茶番ではないか。これではどの政党が政権をとっても、同じ抗争が繰り返されることでしかないのだ。人気取りの政治家だけが、醜くスキャンダルを収集するということが繰り返されるとしたら、そんな国は世界のお荷物でしかない・・・。
まもる価値もない国家まがいのものでしかなくなる。とすれば、領土も関係なく、好き勝手にされても、国破れて山河ありだから・・・、それでいいのだと、だれかがうそぶくのだろうか。
こころと日本人のからだにしみついた気質が、どうにも陥穽にはまりこみやすい脆弱なものになってしまっているのはとても悲しいことだ。
もっと柔軟性のある筋肉が日本人にはあるのではなかったか。強靭で柔軟な精神構造がこの日本の民にはあるのではないのか。
どうも腰が引けているという印象を周囲に与えている政治家は、そこら辺が限度なのかもしれない・・・。
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