危機下はより安全・・・
あんのんとしていると、それはいつ危機が襲ってくるかわからない。
戦々恐々と日々を生き延びている危機下での暮らしの方がなんとなく気持ちがはっていていいのではないか。
でも、それは続かないのだ。
いつ来るかわからないが必ず起きると言う地震被害が毎日のように頭にあるなら、どんな生活になってしまうだろうか。それよりも、定期的に備えることは重要だが、しょっちゅう思うことはない。
もう危機下にあるという認識でいいのだ。すでに生まれたときに、いつか必ず死ぬという人生の定義を知っているから、私は今こうして生きているのだ。それは、危機でもなんでもないのだ。この地球という自然の中にある地殻変動とか気候変動とかは、個人のちからではどうしようもないものである。寿命も同じだ。いろいろとやりたいことがあっても、寿命が尽きるときはそこまでだということだ。
例外はない。
復活は死んだらもうないのだ。
魂がたとえ再びこの世に出てきたとしても、それはもう同じ自分ではないのだ。リセットされているし、たとえ元の私のリサイクルでありリユースであっても、それはもう自分ではないのだ。
だから、安全かどうか、戦時下よりも平和時は安全なのかと個人レベルで問えば、それはまったく異なるのだ。個人個人それぞれの生き方がそこにある。
だから危機とは自分を対象として、または特定のヒトを対象として論じるものではないのだ。人類の危機として論じることなのだ。
大自然の中で、個人はまったく小さなものだから・・・だ。
ただ、この大自然もちいさなヒトのいのちがたくさんないと意味がなくなる。ただの自然でしかなくなる。人類があっての大自然なのだ。知的生命をはぐくむ大自然なのだ。
だから、危機下はより安全とかいうことはない。いのちは、大自然の前では無力であり、人類はその存続に向けた戦略をすでにDNAの中に保有しているのだ。
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