まなざしを欠いた戦争
昔の戦はこの日本においても、田畑を荒らし、農民や庶民に迷惑をかけて、相手を踏みつぶして戦ってきたのだ。
それは、刀でもやりでも弓矢でも、相手のその様が目に焼き付いてしまうものだっただろうし、逆なら相手のまなざしの中におのれがやられる姿を刻みつけていただろう。
でも、今はちがう。
空爆とは、リンドバーグが大西洋横断をしたときから、これで相手を攻めるときに大きなアドバンテージを得ることができると、だれかが(もちろん軍事関係者も素人も思ったであろう・・・)考えてだろう。
その後、空中戦という戦闘機どうしの戦いとともに、爆弾を積んで敵国に投下して攻撃するという空爆が完成されたようなのだ。だから、リンドバーグ自身がそのことを危惧したという話もある。
今、その空爆はアフガンとかでは・・・どうなのだろうか。
朝に爆撃機に搭乗し、午後は子供を幼稚園に迎えにいくなんていうことがあるのだという。
それは、決して相手の悲惨な爆撃後の結果を知らないで、報告書に爆弾落下、目標撃破なんていうことなのだろうか。そして、たぶん敵戦闘員数百名を死滅させた・・・とかの記述があるのだろうか。
そこに悲惨さは感じられないし、その戦での搭乗員のまなざしに悲惨な現実が入ることはない。
戦場カメラマンという報道関係者がそこで大きな役割を担っているということだろうか。まなざしを欠いた戦争という究極は既に日本は受けているのだ。広島と長崎の原爆投下はまさにそのものではないのか。
どこかで現実を現実として認識していくことが、この世の中では絶対に必要だと私は考えているのだが、どうだろうか。
こころに痛みを感じることなしに、敵国に打撃を与えることが、戦の本質を捻じ曲げてしまう気がする。そこに、核戦争の恐怖が拍車をかけてくるような気がする。良心の呵責を受けることなしに戦をする術を人類が選択したら、それは終焉を意味するのではないか。
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