交付国債というもの・・・
原発補償についての態勢が検討されている。
そこで力を発揮するのが、交付国債だというのだ。
政府の借金にならない別勘定だというのだ。
だが、そこにはから手形のからくりでもあるのではないかと疑いたくなることもある。
補償機構というファンドを創り、そこに資金力を付与するために国債を政府が交付することで信用力をつけるというものらしい。
当然ファンドが主体となって、その交付国債を償還していくというものであれば、政府の懐とは別勘定である。でも、そこで信用力が通じなかったらどうなるのだろうか。
被災者への補償が吹っ飛び、政府の信用もなくなり、別の方法で痛みをわけあるというのがもし国民の意思であるならば、生活とか経済とかが、中国が報道しているように、日本は二流国家に転落するとしてもなんら恥ずかしくはないのではないだろうか。
もちろん、そうする必要がないという楽観的なことでいいなら、それに越したことはないのだが、高等数学で説得される理論は、リーマンショックの例でも証明されたように、どこかで破たんするのだ・・・。
国債とはどんな形をとるにしろ、それは国民への借金であり、社会が返済していくもの、つまり、国民の一部の仲間の苦労を一時的にになうのは、ボランティアにしろ、義捐金にしろ、同じなのだ。
今、この国の住人に一番、重荷を背負わせているものは、原発の早期の終息だろう。こころとからだに大きな影響を与えるのは、諸外国ではなく、まじかにいる福島の住人であり、同じ日本に住むこの国の住人なのだ。
この国の住人の苦しさを解決するには、この国の住人の責務である。そういう国民の責務を全力を挙げて支援し解決するのが国家の義務であり、それを担う祀りごとをつかさどるリーダーの責任ではないか・・・。
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