最後のことばの意味
筋委縮症という重症を負う35歳の青年は、いろいろな支援救命器具に守られて命をつないでいたのだという。
祖母と看護者の24時間の付き添いが必要だったという。
彼は、たったひとつ動く口でスティックを持ち、パソコンをうち、想いを発信していたという。
地震の後の津波がくるまでの間、救助の手が間に合わなかったその時に、言った言葉が最後だという。
どんな手段だったのか。直接くちでいったのか、パソコンの上でのネット上にのこされたものかは私はしらない・・・。
「もうあきらめましょう・・・」といったといのだ。
うまれてものごころがつき、おのれの病状を知り、唖然にしたに違いないと推測するも、その心情はだれにもわからないだろう。
もしも、自分の身にどうしようもないせつない状況があったとしたら、それはどうあがいてもどうしようもないことだと、自分を説得し、自分で納得できるものだろうか。
そこに祖父や家族の情があったことだろう。そういうものがなくては決して乗り越えられないものだろう。もし、超えてもそこに明日というものが見えないなら、ひとはだれでも希望を失うだろう。
でも、先ゆきの見えないものの、その先にある終焉は普通のひととは違うのだ。でも生きているし、みんなの情があり、活かされているのだ。そう感じていたに違いないと想うばかりだ。
「もう、あきらめましょう」・・・・、そして、そのあとに「ありがとう・・・」ときっとこころで叫んでいたに違いないのだ・・・・。
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