チェルノブイリとは別・・・
もちろんわかっている。
学校の実験教室での失敗と、技術的に先端を走る領域での事故との差であろうか。
それはともかく、危ないものというか、汚いもの、汚染されるものを扱うという意味ではどっちも基本的な差はないのだ。
DNAが汚染される危ないものを扱うことで、この近代産業をになうエネルギーを私たちの社会は得ているのだという自覚が大事なようだ。
でも、技術は日進月歩だという。
重要なインフラは巨額な投資をしたものであり、先端技術をそのままに利用はできないのだ。そのことは経済における減価償却であり、ちょっと視点を別にしているようだ。
でも、ことこの産業社会の首根っこを握っていることを現実に認識すれば、そんなことは言えないだろう。
一般庶民は専門家の意見に耳を傾けて、わかりやすく丁寧に説明されれば、わかったようなわからないような状況でも、そこに誠意があったとか足りないとかで判断してしまうのだ。
コントロールできない領域にある技術とは、とても切なく苦しい決断を迫ってくるようだ。
チェルノブイリと同じことは、原子力を扱うそのリスク評価が誤っていたということだ。いわゆる想定外というのは、設計条件としての想定を超えた外力が加わり、条件を超えた被害を受けたということであろう。
そこで、福島原発の立地を素人なりにみると、海に張り出していることに気づくだろう。
女川原発はその高さにおいて立地が違うのだ。
だから、自然の立地でお金では買えないもの、いや買えるのだけれども、その効果は自然をそのあるがままに利用した場合には到底及ばないということではないだろうか。
コンピュータが将来、人間の知恵を超えるとしても、そこで一つの事業とかプロジェクトを営み、そして人間としての人生、生活をエンジョイできるだろうか。
それは、考えても仕方のないことだ。それが、想定外ということに似てはいないだろうか。うまく言えないが、あるべきもの、必要とされていることを、現実にうまく活用してくれと自然が問いかけてくることを、私たちは理解しなければならないのではないだろうか。
チェルノブイリとは別であり、また同じことである。
あとは、とにかく全力を尽くしてできる限りのことを継続して収束と終息へのシナリオを実行していくことであろうか。
日本人に現実に足りないのは、リスマネの能力だという指摘がある。それは、政権与党と同じく経験が不足しているということだろうか、それとも、技術を甘く見ているということだろうか。技術者が経営と経済を理解していないということではないのか。そして政治をも理解していくことが今、必要だ。
それは、どんなたちばの人にとってもジェネラルな考えと視点が重要ということでもあると私は考えている。
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