私にできること・・・
私に何ができようか?
俺に、こんな俺に何ができるというのか?
そして、私たちにいったいぜんたい何をしろというのか。
こんなときに被災地から遠く離れたところで何ができるのか?
教えてくれ・・・。
そんな悲痛な叫びがこころの中でこだましているのだ。
どうしようもない。いくら考えても答えは見つからないのだ。
いや、たしかにあなたひとりでの「わたし」には何もできないかもしれないと私も同感だ。でも、ちょっと考えてみようではないか。
私たちの目的とはなんだ。
この狭い日本の一部が被災しているという現実でおたおたしているのだ。それは、なぜだ。俺たちのところは幸い、被災地ではないということでおろおろしているのだ。被災地ですべてをなくしたり、住宅をなくしたり、家族、子供たち、両親、親族を津波でさらわれたひとたちは茫然としているだろうか。
否・・・である。
かの地では、もう立ち上がるしかないのだ。何もないのだ。モノはない。でもヒトはいる。生き残ったものの使命として復興していくことが絶対に必要なのだ。ここにだれも異論はないだろう。だったらどうする。支援することだ。ぐたいてきなことはまた考えよう。
それは、いつ起こるかわからない災害への心構えではないのか。だれのためになんのためにそうするのか?
いい疑問点だ。そうなんだ。みんな私たちの子供たちへの警鐘なのだ。そしてそこから準備していくことなのだ。何もできなければ、ひとつの教訓を残しておくことであろうか。
それは津波の災害だけではない。
ひとはいつも安易に流される。今を生きている。そうでないと生きていけない。
私一人では何もできない。でも、あなたとわたしとかれらという私たちなら、なんでもできるのではないか。あの地での災害は、この地での災害に通じるのだ。この狭い日本だ。その国土の一部が被災したら、ほかの被災を受けていない土地が支援するのだ。
そのためのノウハウを私たちは関西大地震のときに少し学び始めたのではなかっただろうか。
いつの間にか、わすれていたのだ。災害は忘れたころにやってくる・・・のだ。今、そういう被災者と被災地以外に住む仲間としての立場でいろいろと学ぶことだ。
そこからきっと私たち自身または私たちの子供たちへともっと充実した社会で、天変地異があろうとも安心して安全なシステムを構築していくことができるのではないか。
とすると、私たちにはいろいろなことができる。
そして、私たちの中の私やあなたや俺にもいろいろなことがいっぱいできるのだということにまやかしはないのだ。
俺はできる。私はできるのだ・・・。
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