すべて茶番だと暴露する無知さ・・・
国会の茶番劇は、論じられて久しい。
質問書の提出と答弁書の準備は、国会業務の最重要なものであり、その準備と作成のためにできるだけ優秀な官僚が必要なのだという。
いい答弁が準備できることは、優秀な公僕の官僚だと言う評価になるらしい。
そのためにひたむきに知識と情報を仕込み、できるだけ多くの研究課題を解決するように官民あげてのシンクタンクとか研究機構を総動員している。
ただ、国会だけに向けられるのでは、なんとももったいない話だ。もちろん海外での課題、国際的な課題、その範囲に限界はあり得ないだろう。UFOとか宇宙人のことも、ある意味でとても重要な問題であるから、どこかで取り上げて研究しているのではないだろうか。
国会に戻ると、いわゆる強行採決もなにか役割が決まっていて、中継が終わると、しゃんしゃんと解散するというようなことが、三面記事の一つとして報じられている。
真偽ほどは定かではないが、うわべだけで国会の活動内容を批判してみてもなんの益もない。真剣に議論するのはいいことだが、あまりに興奮していては、話にもならない。公益の話をするための国会議員なのに、私的な感情で、その議論のテーマに関するものではなく、そこにかかわる個人の人格とか行動とかを批判非難して、こういうヒトが総理の椅子にいる価値はない・・・とかいうのは、何を言おうとも的を外していることが、ご当人にはわからないらしいのだ。
芸人は、お客様のために披露することを心意気に感じて演じている・・・という。でも、ときに芸人のために客がいるというような勘違いも甚だしいと言わざるを得ないやからもいるのだ。
政治家のために選挙民がいる・・・というのは、どんな観点から正しいのでしょうか。簡潔に説明せよ。落選する立候補者という視点でしかありえないのだ。でも、それが地盤、看板、鞄という三つのバンによってねじれてしまっているのだ。政治家の血筋をひいてうまれてきたのだから、自分の意志ではないし、意思でもない。ほかにやることが何も思い浮かばないから、三つのバンを引き継いだだけで政治なんて興味も関心もないなんていう輩もいるのではないだろうか。
政治のリーダーは、つまり国の首相または大統領でもいいのだが、民衆が直接選べる制度であるべきではないだろうか。ねじれ国会は国民が直接選んだ公選の首相が引率すべきであろう。ねじれた議員構成の政権与党が勝手につつきまわすような小道具に、この国のリーダーの存在を重ねるようなことをしてはいけない・・・・と私は想う。
« ミツバチが減っている・・・ | トップページ | スポーツ審判のこと »
「芸能・アイドル」カテゴリの記事
- ひとにはなにかとりえがあるというが・・・(2019.01.07)
- 赤穂47士、なんとか48、おニャン子・・・(2018.11.13)
- ニジマスもサケ(2018.08.17)
- 被災者ケア(2018.08.08)
- ガラスの天井(2018.08.03)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント