スポーツ審判のこと
一番の心得は、その競技をよく知っていることだろう。
その種目の優位性と面白さを理解し、選手の技術をその視点から評価できる審判ができることが大切だと、私は考えている。
よく、あれは間違いなく審判のミスだと言われるようなこともある。しかし、審判の権利はそういう声を無視してもよいことになっている。なぜならば、審判は絶対的なのだ。彼らがもし、その決定に対して選手とか監督の意見を聴取して決めるなんていうことになったら、それはもうそのスポーツは終わりだ。
それとも独裁的な支配者がいて、勝敗とか点差とかをコントロールしているなら、もうそこで終わりだろう。スポーツにかかわる関係者としての資格がないことにひとしいだろう。
だから、あまりにエゴイスティックというか、たとえば、自分のひいきするチームとか自分の息子、子供、教え子とかにえこひいきで審判を捻じ曲げるようなら、それはもう面白くもなんともない。相撲の初っ切りという見世物、エンターテイメントの世界になってしまう。
そんなことではなく、多少の審判の見解が違うとかいうのなら、許せるだろう。ひとつの条件として、仲間の審判がその判断技術を認めるということが大事になるだろう。やはり、違うなぁと、仲間が感嘆するような技量をみせれば、ファンはもちろん、選手も納得するのだ。
スポーツの多くは、審判の中立性という倫理意識にあるのだ。だから、みんなイエローカードだろうと、レッドだろうと従うのだ。
流れのある試合は見ていて楽しいのだ。審判はコンサートホールの指揮者のようなものだと想うのだが、どうだろうか。
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