どこまで被害があるのか・・・
この世界でも日本という限られた地域でも、さらにもっと局所的な東日本の被災地でも、その周辺での境界、限界があるのだ。
あの津波でも奥羽山脈の真ん中までは、入ってこなかったのだから・・・。
それは、時に高速道路だったりしているのではないだろうか。そして、自然の小高い丘がその境目の役割をしている場合もあった。だが、同じ境界でも河川の場合は、津波がさかのぼっていったところが多くあり、川沿いの住宅街や田畑は大きな被害を受けている。
でも、どこかに境界はある。被災とそうでないところとの境目は、一義的には高低差にあったのではないだろうか。
福島と女川の境目は何だったのだろうか。津波の破壊力だったのだろうか。それとも、受ける側の耐力だったのだろうか。いずれにしても、総合的な結果であろう。
蟻の一穴。
そんなことが、大きな被害の差となって現れたのではないだろうか。
どこまで・・・、どこに限界があるのか・・・。
地球の構造上、わたしたちの住む地域の地盤構成などから、どこまでの地震力と津波の発生による破壊力を想定していけばいいのか・・・。
それが、実は問題なのだ。
日本にはいいリーダーがいないと、ことあるたびに批判するやからがいる。それはそれで構わないのだが、なんともうまくいっている範囲内の時にしか、そういう発言はしないのだ。
もう駄目になったら、だれもそこで手を挙げて、次は私が担いましょうなんては言わないのだ。
どこまで被害があるのか。
この日本という国の政権与党はなんとも危機感のないひとたちばかりのようである。上述の原則からすれば、現状の首相は精いっぱいやっているということであり、ある程度軌道にのっているから、批判し非難してもし首相がうまくひっかかってこけたとしても、そうたいしたことはない・・・と、みているのであろう。
だから、もしこの事態が最悪の想定シナリオをどんどん超えて行ってもうだれも何もできないという状況に陥ったら、もう批判も非難も意味をなさないのだろう・・・。
それでも、世界は広い・・・のだ。
そんな国政がめちゃくちゃになっている地域はいっぱいある。
震災が起きても復旧のふの字も起きないようなところもあるのだ。だから、そこではもう希望がないし、人生そのものがもう先が見えないということになる。みんながせつな的になり、そこで暴動がおき、略奪が起きる。でもそういう行為はモノがなくなるともうそこで終わる。
ひとのいのちが消滅する。ひとの意思がなくなる・・・。
そんな世界もあるのだ・・・。日本はそういう最悪の極悪のシナリオになる気配はあり得ないと思うのだが、そういう自負こそが危ないのだと、自戒しなければならない・・・。
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